大きなあくびをして、目を擦る。
 すでに時計の針は十二を刺しているが、俺の眠気は一向に消えない。たぶん寝るまでこのままなのだろう。
 おかげさまで朝の業務が辛かった。
(腰が特に怠い。頑張り過ぎたな)
 まるで年よりのようなことを思いながら日替わり定食を頬張る。
 会社近くの定食屋は八百円で美味しい定食を出してくれるのでお気に入りだった。
 だが問題は俺だけじゃなく、他の人もここがお気に入りということで。
「珍しいわね〜、お弁当じゃないんだ」
 会社の人間もここをよく利用しているということだ。
 当然のごとく俺の向かいに腰を下ろした女性。松原さんは俺の三つ先輩にあたる。
 ざっくばらんな性格とてきぱきとした仕事ぶりで不快感はない。最初はやはり女性ということで身構えていたが、仕事のみの付き合いだし何より仕事では頼れる相手だった。
 俺の職場での人間関係の基本は仕事が出来るかどうか。仕事で頼れるかどうかであって人間性うんぬんは二の次だ。
 しかしもっぱら人間性が出来ていない奴は仕事も出来ないので、通じる物があるだろう。
「寝過ごしまして」
 もそもそと答えながら、俺はばたばたした朝を思い出す。
 割と危険な時間に二人して起きたのだ。
 同じベッドで目覚め、時間を確認して飛び起きた。遅刻寸前だったので弁当どころではなかったのだ。
(寝るのが遅すぎたんだ)
 睡眠時間削られてしまい、疲労がしっかりと残ってしまっていた。
 しかし松原さんにそこまで言う必要はない。というか言いたくもない。
「いつも月曜日は憂鬱そうね」
 松原さんは店員に日替わり定食を頼んでは、俺にそう言った。
 今日の顔色が冴えない自覚があったが、今日だけでなく月曜日は大抵そんな雰囲気なのだろう。
「……月曜日ってだけでなんとなく憂鬱ですよ。仕事だし」
 ありきたりな答えを返しながら、月曜日はな……と心の中で苦笑する。
 日曜日の夜は大抵史浩とヤっているし、若者に押し切られて流されて、どこまでいくのかという状況になって疲れ果てて寝るのだ。だから休みに体力を回復しようと思っても、結局最後の最後、日曜日の夜に疲れてしまうので月曜日は晴れやかな出勤にはほど遠い。
「彼女と喧嘩したとかじゃなくて?」
「じゃなくて、です」
 職場で俺は彼女持ちということになっている。
 彼女との話なんて一度も職場でしたことはないのだが、俺の日常会話の所々にそれを匂わせるものがあるらしい。
 彼氏なんですよ、なんて自ら爆弾を放つつもりはないので彼女だと勝手に思わせている。
「でも結構喧嘩とかしてるよね?」
「そうですね」
「意外だけど」
 そう言われ、別に意外ということもないだろうと思う。
 史浩とは小さい喧嘩を割と多くやる。食事の中身から、生活の細々したことで衝突するのだ。
 だらしないことをするな、と言ったり言われたり。別々の場所と時間で育ってきた俺たちは価値観の違いが色んな場面で出てくる。だからそれを口にしたり、擦り合わせたり、たまにはぶつかったりする。
 他人と同居なんてするもんじゃないと何度思ったことか。
「なんか、言いたいとあっても結構黙ってそうなタイプに見えるから」
 松原さんの指摘はよく当たっている。職場での俺はそんなタイプであろうとしているからだ。
 思ったこと、気になったことを全て表に出していれば誰かとぶつかる。仕事に支障が出るならともかく、自分がカバー出来ること、我慢出来ることならばそうしてしまう。
 面倒だからだ。
 職場の空気がそれで険悪になってしまうのも、仕事がやりづらくて嫌だった。だから自分がかぶれるものは全部かぶる。
 だが二人きりの同居生活で俺だけがかぶり続けるというのは理不尽でありし、空気が険悪になって息苦しいというのなら双方の責任だろう。仕事じゃあるまいしプライベートまで色々黙って耐えるのはさすがに辛い。
「向こうが言ってくるんで。黙ってくる分損だってのもあります。それに、黙ってたら黙ってたでキレますから」
 気を遣って黙って耐えていたら、それはそれで史浩はキレる。それはもう口に出して喧嘩した時より怒るのだ。
 俺には言えないの、なんで黙るの。俺はここにいるでしょう。と静かに、冷え切った声で言うのだ。
 憤りを顔に出して、感情を見せてくれた方がまだ良かった。
 能面みたいな顔で迫られると、怒りよりも恐怖の方が大きくてついつい史浩に屈するような形になってしまうのだ。
 それがやや悔しい。だがそこまでされて我を張るほど俺も馬鹿じゃない。というか怖すぎてそんなこと出来ない。
「たち悪いですよ」
 かつての史浩を思い出して、俺はうんざりするような気持ちでそう言った。あの男は本当にたちが悪い。
 しかし松原さんはそれに笑ったようだった。どうせ他人事というのは面白いものだ。
「でもちゃんと仲直りするんでしょ?」
「そりゃ、しますよ」
 喧嘩したままだったら気まずい。とっくに同居など解消しているだろう。
 それに喧嘩したまま別れられるほど、すでに簡単にさよなら出来る関係でもなくなっている。
「どうやって?」
 その問いかけに、エビフライに噛み付いた俺は固まってしまった。
 どうやって、なんて基本的すぎる質問だ。
「……謝ったり、謝られたり。なし崩しだったり……」
 さくさくしたエビフライを食べ終わり、俺は記憶を探り出す。史浩と一番最近喧嘩したのはバイトから帰ってきた史浩が風呂にも入らず俺のベッドで寝たことだろうか。
 冷たい身体に起こされたし、化粧そのままで寝やがったせいでシーツが汚れた。
 だが史浩は史浩で疲れ果ててへとへとだった。風呂に入ったら倒れそうだった。ようちゃんに癒されたかった。俺の気持ちだって分かって。ということだった。
 あれは結局史浩が折れて、風呂に入ることを心掛けるというとで終わった。何故ならシーツが汚れると換えのシーツを出さなければいけない。そうすると連日シーツを汚すようなことは出来ず、ヤれなくなるからだ。
 史浩は結果的に自分の首を絞めた。
「お互い自分は悪くないって思ってたら、落ち着いた頃に話し合いですね。妥協点を探します」
 悪くないと思っているのに謝るのは、謝らないことより酷いことだと、史浩と出会ってそう時間が経っていない頃に言ったことがある。
 史浩はそれにとても納得したようで、俺たちは自分の正当を信じている場合は真剣に話し合いをする。仕事の会議よりも真面目で、頭を使うような時間だ。
 だがそれはこれからも史浩と暮らしていく上で必要なことなので、投げ出すことはなかった。そして史浩も同じ姿勢でいてくれる。だからこそ俺たちは未だ一緒にいられるのだろう。
(しかし、こんなことわざわざ訊いて来るなんて)
「彼氏と何かあったんですか?」
 定食が運ばれてきて、松原さんが箸をぱきんと割ったのが合図だったかのように俺は尋ねた。
「…うーん……」
 とても歯切れが悪い。そして味噌汁をすすっては溜息をついた。
 訊いておいて何だが、別に言いたくないなら流してくれてもいいんだが、と言いたくなる。
「喧嘩したって、言えればまだいいんだけどね」
「いいんですか?」
「いっそ、その方がはっきり相談出来るじゃない」
 仕事中とは違う、切なげな顔で松原さんは目を伏せた。
 深い憂いは今日昨日から始まったものではないと告げていた。
(つか相談したかったのか)
 しかも俺に恋愛相談か、なんという無謀な。全然向いてないんだが、今からでもそう教えた方がいいのか。
「実は、私たち喧嘩らしい喧嘩をしたことがないの」
「仲良いんですね」
「そういうのとは、ちょっと違うの」
 喧嘩したことがないなんて、喜ばしいことではないか。喧嘩なんて空気は重いし、気を遣うし、苛々するし、出来ればずつとしないに越したことはない。
 だが松原さんはそれこそが悩みであるかのようだった。
「彼氏に対していらっとしたことがあっても、口に出せないの。腹が立つことがあってもとっさに我慢しちゃうのね」
「彼氏の前では大人しいんですか」
 仕事中はあんなに発言するじゃないですか、自分がこれと決めたこと貫くじゃないですか。と俺はやや引いた感じで言ってしまった。
 まさか彼氏の前で猫かぶっているなんて。そういうタイプではないと思っていたのだが。誰でも女は好きな人の前では可愛くありたいというやつか。
「大人しいって言うか。喧嘩しそうになって、今怒った勢いのまま言いたいこと言ったらすごく彼氏のこと傷付けるんじゃないかって。そしたら彼氏がどん引きして、別れることになっちゃうんじゃないかって」
 変な部分で冷静なのか、と千切りのキャベツを食べつつ思う。頭に血が上って後先考えずに言いたいことをぶちまけることはないらしい。
「そこまで彼氏のこと嫌いになれないし、怒れない。別れたくなくて、自分が我慢すれば収まるならそれでいいやって思ってて。でも……我慢してても、やっぱり気になるところってあるじゃない。そういうのって一端目に付くと、ずっと気にしちゃうのよね」
 自分が黙っていて上手くいくなら。それは俺の仕事に対する姿勢によく似ている。
 だが仕事と違って、恋愛は時間によって区切られているわけではない。そして感情を押し殺して過ごしていても、それに価値が生まれることはない。
 喜ばなければいけないものだろう。特には泣かなければいけないものだろう。恋愛なんて。
 松原さんのやり方では、そりゃ嫌気も差してくる。
「段々、一緒にいても楽しくない」
 ぼそりと呟いた声の暗さに、俺は空になった茶碗をテーブルに置いた。
「言えばいいでしょう」
「そうなんだけどね」
「溜めすぎたら、我慢出来ずに一気に溢れかえって。それこそ引き返せないことになりますよ」
 山ほど溜まってしまった不満は、一度に全部出してしまったのならばきっと冷たい言葉ばかりになってしまうだろう。
 ぷつりと切れてしまった糸はつなぎ直すことがとても困難だ。ならば爆発する前にガス抜きは必要だろう。
「分かってるんだけど。でも、怖いのよ」
 自分の言葉なのか、それとも相手の態度なのか。どちらが一番怖いのだろう。
「言ったらキレそうな彼氏なんですか?暴力ふるったり」
「そういうタイプじゃないのよ。むしろあんま文句も言わなくて、大人しい人なの。私と一緒で溜め込んでるんだろうなって思って」
「なら言い合えばいいじゃないですか。今がいいきっかけなんじゃないですか?」
 たぶん似たような悩みを抱えている、そう察しているのならば一歩踏み出してしまえばいいのに。ここで立ち止まっても事態は変わらない。
「仲直り出来るかどうか分からないから……。ごめんなさいで済まなくなるかも」
(だからさっきあんなことを訊いたのか)
 しかし仲直りの方法なんて、それこそ恋人たちによって異なるとしか言いようがない。
 彼氏の顔も性格も知らないのにアドバイスも何もないだろう。
「で、なんで俺にそんな話したんですか?恋愛相談なんて向いてないですよ」
 史浩に押し切られるまでは恋愛なんて一番自分には関係のないものだと思っていたくらいだ。今だって自分に恋人がいるだなんて、何かおかしいと信じている。
「不満があってもあんまり人に言わなくて、自分の中で勝手に処理して。小さいことは人に相談したり愚痴ったりするのに、肝心なことは全部一人で抱え込むでしょ?」
「なんですか藪から棒に」
「彼氏がそういうタイプなの」
 よく見ているものだと感心すると同時に、そういう相手なら尚更黙っていても良いことはないんじゃないかと思う。
「彼女には、自分が抱えてる悩み事とか言うの?他の誰にも言わないようなことでも?」
 探るように言われ、俺は昨日のことを思い出した。自分の母親のことなんて、実は血の繋がらない相手に言ったのは史浩が初めてだった。
 しかもごく自然に口にすることが出来た。史浩になら知って貰って構わないと思ったのだ。自分の心の深い場所を見られても嫌じゃない。
「そうですね。あいつには言いますね」
 きっと父親より近い場所で向き合うことが出来ていたのだ。いつの間にか、そう願っていたわけでもないのに。傍らで生きていく術を手に入れていたのだろう。
「羨ましい!しかも惚気られた!」
「訊いて来るからでしょうが」
 くぅぅ!と唸るほど羨ましいらしい人に、呆れるやら恥ずかしいやらで頬杖をついてそっぽを向いた。


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