2 日曜日の夜というのは憂鬱になるのが自然な流れであるのだろう。 働くのが嫌というわけではないのだが、朝起きることからして抵抗感がある。 かといって遅刻など出来るはずもなく、勤勉な日々を送るのだが。 ゆったりと思うまま過ごせる休日を満喫してしまうと、怠惰でいたいと思うものだ。 つまり気怠さに包まれながらニュースなどを見ていた。 まだ寝るにはやや早いなという時間。携帯電話が震えた。 手にとって見て見ると、そこに表示されている名前は決して歓迎出来るものではなかった。 出来れば出たくない。 (でもどうせ無視しても後でかけてくるんだろうな) 俺が出るまでその行為は繰り返されるのだ。きっと向こうは俺が電話に出たくないという気持ちも分からないだろう。 気付かなかっただけだ。忙しくて折り返してこないだけ。その程度の認識でいるはずだ。それが後ろめたい。 「ようちゃん?」 隣に座っていた史浩は俺の様子に怪訝そうな声をかけてきた。だが俺はそれに返事をせず、携帯電話の通話ボタンを押した。 「もしもし?」 耳に押し当てると聞こえてくるのは自分の父親の声だ。 憂鬱な気分が重みを増してくる。 『もしもし?元気か?』 やや明るい声に俺は溜息すらも付けない。 一緒に暮らしていた頃はあまり俺に対してこんな声で話しかけてきたことはなかった。そもそもあまり会話もしなかったのだ。 必要ではなかったというのもある。 だが同居しなくなってしまえば、親は親として息子のことが気になるのか。たまにこうして電話を掛けてくる。 今日もそんな流れだったのだろう。 近況を尋ねられるが俺は大して話すこともなく、口籠もった。 父親は俺が史浩と同居していることも知らない。未だに一人暮らしをしているものだと思っているだろう。 わざわざ話すようなことでもなかったのだ。当然男と付き合っているなんて想像もしていないだろう。 そして俺も永遠に言うことはないだろうと思う。 知らせたところで父親にとって良いことは何もない。 『盆も正月も帰って来ないから』 寂しいと言いたいのかも知れない台詞を俺は他人事のように聞いていた。 「忙しいから。それに大型の休みになると気が緩んで寝込んでる」 嘘だ。 大型の休みになると家でだらだらしていることが多い。史浩は夜バイトをしているので昼間は二人で過ごしているのだ。一緒に出掛けようという努力だってする。今日のように。 『寝込むならうちで寝込めばいいだろう。看病だってしてやるぞ?一人でいるよりここの方が安心だろ』 父親の笑う声に冗談ではないと言いかけた。 (誰がその家で寝込めるか。悪化するのがオチだろ) やはり父親と自分との感覚には大きな隔たりがあるのだと痛感する。 出来れば実家には近寄りたくないのだ、なんて毛ほども思っていないらしい。 「いいよ。それより、今ちょっと人が来てて」 もうこんな電話は続けるだけ、俺が疲れるだけだ。父親に悪いという気持ちはあるけれど、早く切りたかった。 『彼女か?』 「違うよ」 からかうような声に苦笑した。彼女ではなく彼氏で、しかも同棲していて俺のことを先ほどからじっと見詰めている。 心配そうな視線が柔らかくて、頭を撫でてやりたいのだ。 通話の終わりを急いて、俺は父親の声を通さなくなった途端携帯電話をテーブルに投げた。 「何かあった?暗い顔してる」 携帯電話を手放した途端、史浩が俺に腕を回した。きっと俺に何かあったと思っているのだろう。 俺の肉親である父親は俺の心境など知りもしない。感じることは出来ない。けれど赤の他人である史浩はちゃんとこうして察するのだと思うと、共に過ごす時間が人間関係を築くんだなと思えた。 「別に何もない。たまには帰って来いって言われただけだ」 「ふぅん……そういえばようちゃん実家帰らないね」 盆も正月も、俺はこの家にいる。史浩には節目節目はちゃんと実家に帰って親に顔を見せろと叩き出していた。大学生であり、親に頼っている部分がある史浩は親をないがしろにしないようにと言っていた。 親と交流を断つにはまだ早い年頃と段階だろうし。史浩と親の関係は良好らしいので、たまには顔を出した方がいいだろう。 だが俺はもう駄目だった。 「帰りたくないからな」 「それは会いたくないから?お父さんに?それともお母さんに?」 「両方だな」 俺が素っ気なく答えると史浩はそれ以上何も言わなかった。 踏み込んで良いところなのかどうなのか、迷っているのが手に取るように分かる。 ここで無遠慮にあれこれ尋ねてくるようならば、きっとこの男と同居はしてなかっただろう。 強引なくせに、ちゃんと線引きは出来るやつなのだ。 だからこそ俺はこれまで言わずにいたことを、ふと言っても良いかという気持ちになった。 「俺の今の母親は、二人目なんだ」 唐突な告白に史浩は目を見開いた。 家族の話題はこれまで一切してこなかったが、予想もしてなかったことだろう。 「俺を生んだ母親は父親が不在の時は家に男を引っ張り込むような女だった。俺がそこにいたとしても」 物心ついた時から、俺は母親の浮気現場を度々目撃していた。けれど絶対に口にすると言われ、もし父親に言うようなことがあれば捨ててやると言われていた。 当時は自分の親が世界の全てのような気がしていた。母親のことを言えば父親はここから出て行く、そして母親も自分を捨てる。そう言われ俺は黙っているしかなかったのだ。 だが子どもながら母親のやっていることがおかしいということは分かる。 自然と母親に対して酷く壁を作るようになっていた。母親だけれど、母親ではない。別の誰かであるかのような目で見ることが増えていった。 「だが父親はそんなことにも気付かなかった。そしてたまに友人が家に来るなんて嘘を信じ切ってた」 母親の浮気も、俺の様子が年を得るごとにおかしくなっていることも父親は気付かなかった。 仕事が忙しいなんてありきたりな理由が思い浮かぶけれど、きっとそれは正しくない。 父親はそういうことを気付けない人なのだ。鈍く、また自分の女が浮気をしているなんて初めから頭にない。そんな生き物であるはずがないなんて、信じ切っているのだ。 疑わない善人とでも言えば聞こえはいいけれど、女に関しては愚鈍であるとも言い換えられる。 「結局俺を生んだ女は俺が小学三年生の時に男と一緒に出て行った」 家に帰れば置き手紙が一枚あるだけだ。 当然父親や祖父母は騒然とした。けれど探しても見付からず、また途中で父親は出て行った母親などもう知らない、そんな女はいなかったと切り捨てたのだ。 捨てられた自分に耐えられなかったのかも知れない。もしくは貞淑だと信じていた女の別の顔が衝撃的過ぎて到底受け入れられずに逃げたのか。 どちらかは分からないけれど、父親が酷く落ち込んだことだけは覚えている。 だが俺にあったのは一種の開放感だ。 浮気のことを黙っていなくても良くなった。そして他の男に抱かれる母親を見ることもなくなった。 「父親は女なんてもうこりごりだと、その時は言っていた。だがこりごりであったはずの女を、俺が中学二年になった頃に連れてきた」 お付き合いをしている人だ、そう言った父親に脱力した。 こりごりだと言ったのは、あれは何だったのか。深く傷付いたのではないのか。 「父親は全くこりてないんだと、連れて来た人を見て思ったよ。まぁそれは今の母親なんだがな。俺を生んだ女と顔や言葉の感じは全然違ってたんだが、なんとなく雰囲気に通じるもんがあってな」 思わず口角を上げてしまう。きっと性格の悪そうな笑い方をしていることだろう。だがそんな笑みも浮かべたくなる思いだった。 「やばいなと思った」 今も昔も、それは変わらない印象だった。この女は父親にとって危険であると、俺にとってもあまり良い部類ではないだろうと感じた。 「だが父親はそうじゃなかったらしくて、お付き合いしている人と再婚をした。俺は反対もしなかった。どうせ反対したところで父親が今の母親との付き合いを止めるとは思わなかったし、幸せそうな父親を見て好きにしろとも思った」 冷めた子どもだったのだろう。 だが自分の母親の浮気をずっと知りながらも、父親に教えずにいたのだ。裏切りを続けていたという観点からすれば、俺は幼い頃から父親には冷酷であった。 今更の感覚だったのかも知れない。 「割と上手くいってたさ。仲の良さそうな家族になろうともしていた。俺だって家の中で和気藹々としているなら心地も良い。多少の努力もした」 新しい母親に馴染もうともしたのだ。 今の母親は俺に対しても気さくに接してくれた。産みの母親より優しい女だった。だからもしかすると良い親子関係を築けたのかも知れない。 「俺がそれを見るまでは」 思い出すだけでも喉の奥が苦くなる。見なくて済んだのならば、そうした方が良かったであろう光景が今も鮮明に蘇ってくる。 史浩はもったいぶって言葉を途切れさせた俺に、不安そうな顔をした。おまえがそんな表情をする必要なんてないのに。 「家の外で母親が別の男と親しげに話してるのを見た。腕を絡ませて、幸せそうに母親は笑ってた。それだけならまだ親戚や、とても親しい友人の可能性もあった。だが母親は俺と目が合うと、しまったという顔をしたんだ」 見られたくなかった。見付かったら危険だ。 その時母親はそんな目をしていた。そして必死に何かを誤魔化そうとしていた。 隠さなければならないことがあるのだ。偽らなければいけないことがあるのだ。直感的にそう理解してしまった。 そして初対面の時に感じた、あのやばいという印象は間違っていなかったと痛感してしまった。 「浮気だったの?」 「さあ?母親はその時仲の良い友達だって俺に言ったよ。でも誤解されたくないから父親には言わないで欲しい。勘ぐられたくないし、心配させると可哀想だってさ」 黙っている方が可哀想じゃないのか。ただの友人なら言っても別にいいじゃないか、親父だってちゃんと分かってくれるよ。 俺はその時、そう言うべきだったのかも知れない。 真実を明らかにした方がいいんじゃないかと勧めるべきだったのかも知れない。 だが前の母親がいなくなった後の父親の、苦悩と抜け殻のような姿を見たくはしなかった。息苦しいその家庭に戻りたくなかった。 「俺は言わなかった。平穏な日々を送ってたんだ。わざわざ壊すこともないと思った。前の母親みたいに、はっきりとした証拠だったわけではもないしな」 もし男に抱かれている最中だったのならば、俺は悩んだだろう。だが本当にただの友人だったのかも知れない。ならば言わずにいても構わないだろう。そう判断した。 「それに、仮にそれが本物の浮気だったとして、今の母親と別れても父親はまた別の女に捕まるような気がしたんだ。やっぱり似たような、他の男に目が行くような女を」 そういう趣味を奥底にでも宿しているのだろう。あの父親はそういう女しか選べないのだ。 「そう思うと今の母親はまだまともかと思ったんだよ。家に男は引っ張り込んでる様子もないし、借金も作らないし、家事もちゃんとしてる。表面上は平和なもんだ」 そしてやはり父親は気付かないのだから。本当の事なんて誰も知りたがっていない。 まるで他人事のように、淡々と喋る俺に史浩は苦笑していた。 「冷たいね」 「仕方ないだろ。見抜けない奴は一生見抜けない」 騙される側にも問題はあるのだ、とまでは言わない。だがどうしてもそういうものばかり選んでしまう人間はこの世に存在するのだ。 ならばわざわざその間に入って自分まで振り回されることはない。 たとえそれが肉親の情に欠ける、とても非情なことであっても。俺はその道を選ぶ。 結局自分の面倒になることが一番嫌なのだ。 「まぁ、だからって見抜けない男を騙して生き続けるような女も嫌いだ」 騙せる相手だから騙して、自分の良いように扱う。そんな人種も、騙される人間以上に忌々しい。 「女は怖い」 この世に生きる女全てが俺の知っているような人々であるとは思っていない。男にも色々あるように女だって色々だろう。だがそれでも女を見ると、自分の母親たちを思うのだ。 彼女たちと同じ顔を持っているのではないか。そう勘ぐっては身構える。 傷付かないように、騙されないように、出来るだけ接触は避けてきた。 「だから女は苦手なの」 「そうだろうな。信じられない」 それを言うなら人間全般、あまり信じられないのだが。女は特に信頼するのが難しいだろう。 結局人間は自分の体験を元に様々なことを予測する生き物だ。 「安心して、俺浮気はしないから」 そう言って史浩はにっこりと笑った。憎らしいまでに美しい微笑みだ。 「その辺りは別に心配していない」 ようちゃんようちゃんと毎日うるさいくらいに俺を求めては、時間を詰めて俺と一緒にいたがる。付き合い始めたばかりでもないのに、こんな調子が続いているのだ。 他の人間が見えないのかおまえは、と何度言ったことか。 溢れてしまう愛情に、いい加減俺も史浩の心を奪ってしまっていることは自覚せざるを得なかった。 「それは良かった」 「で、おまえはどこを触ってる」 「…ようちゃの息子さん」 「親の許しもなくか」 俺が喋っている間に俺を抱き寄せ、腕を回していることは黙認していた。腹を撫でているのも、まぁ放置して置いた。だがパジャマのズボンの中に手を入れて、下着の中まで進入しているのはさすがにじっとはしていられない。 「一発と言わず何発かヤらせて下さい」 耳元でそう囁かれて、低く甘い声と裏腹な下品な台詞に吹き出してしまいそうだった。 「そのまんまだな。ここじゃ落ち着かない。移動するぞ」 史浩に応じる俺の返事もなかなか即物的で、ムードなんて欠片もない。だがそれでも史浩は喜々として腰を浮かせたので、これはこれで良いのだろう。 俺の手を引こうとする節の目立つ、綺麗だけど決して細いとは言えない手を見て、これの方が柔らかで細い手より好きだという俺はやっぱり男としては変わっているんだろうなと思った。 next |