眼鏡


 ようちゃんの部屋に入ったら、すでにようちゃんはベッドの上で本を読んでいた。
 枕をクッションにして、ベッドヘッドにもたれかかっている。
 俺はドアのすぐ近くにあるスイッチに手を伸ばして電気を消した。
「おい」
 ようちゃんは抗議の声を上げる。俺は暗くなった視界の中で、勘を元にベッドサイドに辿り着いた。
 小さなランプに電気をつけると、ほんのりとした灯りが部屋を照らした。
 こんな時間に部屋に入って来て電気を消した。その後に何が続くのか、ようちゃんは分からないはずがない。
 でも怒った様子もなく、俺を見上げていた。
 その反応で、俺は今日は大丈夫なんだと確信した。
「よばいにきましたぁ」
「帰れ」
 ようちゃんはあほかって顔で俺を見た。
 帰れって言われたけど、それはノリで言い返しただけっていうのはお見通し。
 本当に帰って欲しいなら俺が部屋に入った時点で言うし、今日は駄目ってもうとっくに止めに入ってる。
 それがないから、手を出しても怒られない。
 俺はにっこりと笑ってベッドに手をついた。そしてようちゃんの眼鏡に手を伸ばす。
 その手も止められず、ようちゃんは俺を見ていた。
 少し下向き加減で真っ直ぐ伸びた睫は俺よりたぶん長い。
 容貌は少し冷たげに見える。形はいいけど、ちょっととっつきにくいような。
 でも俺は知ってる。
 眼鏡を取ると、その印象が和らぐのを。
 それはいつもしっかりとして自信にあふれているようなようちゃんが不安げな色をちょっとだけ見せるからだ。
 視界がクリアじゃなくなって、不自由になるからだろうけど。
 俺はその表情が好きだった。
 頼ってくれそうで、たまらなくなる。
 眼鏡を外して、俺はキスをしかける。
 触れる直前、ようちゃんが目を伏せたのが見えた。
 小さな照れが感じられて、俺は喉で微かに笑った。
 唇の表面が触れると、あったかさと柔らかさに欲が膨らむ。
 でも初めからがっつくと後が面白くない。
 少しずつ、焦らして、迫って、惑わせたい。
 距離を縮めて、俺はようちゃんの上にのし掛かるようにして座った。向かい合うとようちゃんが重いと文句を言う。
「ね、ようちゃんってコンタクトにしないの?」
 キスする時邪魔かなって思っていたことを口に出す。
「しない」
「なんで?便利そうじゃない。眼鏡はいちいち耳にかけなきゃいけないし、激しく動いたら外れるし。汚れるし。温度差が急に変わると曇るし」
 風呂に入ってる時に付けられない。コンタクトならそれらが全部解消されるだろうに。
「コンタクトは、怖いだろうが」
 ぼそりと不本意そうにようちゃんが言った。
「怖い?」
「異物を目の中に入れるんだぞ?しかもレンズなんて、割れたらどうするんだ」
「そんなに簡単に割れないと思うけど。ソフトならまして」
 俺の知り合いにもコンタクトをしている人は多いけど、割れたって大騒ぎした人はいない。
 みんな平然と、視力が高い人と同じように暮らしているようだった。
「俺も入れたことあるけど、そんなに異物感とかなかったよ?」
「異物感がなくても嫌なんだよ。眼球に張り付くんだぞ?気味が悪い」
 ようちゃんは考えるのも嫌だというような顔をした。
 ぶすっとした顔は、眼鏡がないせいかちょっとだけ年が近くなったような感じがした。
 一枚のレンズに阻まれていないからだろうか。
「そうかなぁ。ようちゃんって怖がりよねぇ」
 そんなことを真面目に怖がるなんて、可愛い。そう思うけど、素直に言ったらすっごく嫌そうな顔で素っ気なくされるからオカマ口調でからかった。
 すると嫌がるけど、同時にちょっと怒ってくる。でも本当に怒ってるわけじゃない。ただ黙っていられないって気分になるだけみたいだった。
 俺はそうやってようちゃんが何か喋ってくれたり、構ってくれるのが嬉しいからついつい色々オカマでからかってしまう。
「うるさい!誰だって苦手にもんがあるだろ。高所恐怖症とか、閉所恐怖症とか、それと一緒だ」
「コンタクト恐怖症ねぇ。でも最初はみんな抵抗あるみたいよ?一回入れてみたら?意外といけたりするかも知れないわよん?」
「嫌だ。断固拒否する」
 絶対嫌。そうようちゃんの顔に書いてあった。
 言い出したらきかないところがあるから、きっとコンタクトはこの先も入れることはないんだろう。
 怖い、という理由で。
「痛くないのにぃ」
「でも嫌だ」
「ようちゃんは目には何も入れたくないのねぇ」
「入れたくない。気持ち悪い」
 入れたこともないのに気持ち悪いとはこれいかに。と俺なんかは思うんだけど。本人はその辺りに疑問はないんだろう。
「腹に入れるのは気持ちいいのにねぇ」
 俺はそう言って微笑みかける。
「はら?」
 ようちゃんは何のことかと、怪訝そうな目をした。
 俺が言いたいことが分からなかったらしい。
 まぁそれはそれでいい。
「普通そっちの方が抵抗あるのにねー」
「史浩?」
 お前何言ってるんだ。と言うようちゃんの唇にキスをする。
 あんまり下品なことを言っていると教育指導されるから、ようちゃんがとろとろになるまでは慎むことにしよう。
 ようちゃんが膝に置いていた本を取って、ベッドサイドに軽く投げた。
 深くなる口付けに意識を集中させながら、俺は明日の朝はようちゃんより早く起きないといけないなぁと思った。
 ようちゃんの眼鏡を外して、ベッドサイドに置いたのは俺だから。朝目覚めてようちゃんは眼鏡を探し求めて苦労するかも知れない。
 ノンフレーム眼鏡だから、裸眼だとぼやけてすごく見付けにくいらしい。
 ああ、でも眼鏡を探してわたわたしてるようちゃんを眺めるのもいいかも知れない。
「史浩」
 集中していないことがバレたのか、ようちゃんはキスを止めては少し棘のついた声で呼んだ。
 なんだかんだいって、ちゃんと俺を欲しがってくれるのが嬉しい。俺は謝罪の意志を込めて、もう一度口付けを挑んだ。




お風呂


 風呂に入るとまずはシャワーで頭と身体を洗う。
 汚れを落としてから湯船に入らなければ、まだ史浩が終わっていなかった。
 後に入る人間の分も一応気を使う。
 さっぱりと綺麗になったところで、俺は湯船の蓋を開けた。
「…なんだこれは」
 見慣れぬものがぷかりと浮いている。
 風呂の湯がピンクなのはまだいい。入浴剤を入れたのだろう。
 史浩は入浴剤を入れるのが好きなようで、湯船がカラフルであることは珍しくない。
 俺も風呂は好きだし、入浴剤の匂いなどは気分転換になるので文句を言ったことはない。
 たまにものすごく甘い匂いの入浴剤などもあるが。連日使われなければ許せる範囲だった。
 だが、今日のこれは眉間に皺を寄せてしまう。
「史浩!」
 風呂場のドアを開いて、同居人を呼ぶ。
 するとすぐに「はいはーい」と気楽な声と共に史浩が現れた。
「これは何だ!」
 俺は湯船をさして、史浩に尋ねる。
 すると史浩は満面の笑みを見せた。
「アヒルちゃん。可愛いでしょ。お客さんがくれたのよー」
「どんな客だ!てかアヒルだけでなくはなびらまで散らしやがって!どれだけ乙女だおまえは!」
 ピンクの湯にぷかりと機嫌よさそうに漂っている2匹のアヒル。それに数枚浮かんでいる色とりどりのはなびら。もうどこの乙女の風呂なのかと思う。
 だがこの家には男が二人いるだけで、女は一人もいない。可愛らしい乙女はどこにも存在しないのだ。
 いるとすれば史浩の心の片隅に鎮座してるのだろうが。それはオカマだと主張しておきたい。
「ええー、いいじゃないリラックス出来るでしょ?」
「あほか」
 こんなものが浮かんでいてリラックス出来るか。むしろ気が散る。なんか苛々する。俺の感性に全く合わないのだ。
 睨み付けると、史浩は肩を落とした。
「もー、なんでそんな顔するかなぁ。ようちゃん疲れてるの?俺が背中洗ってあげよっか?」
「もう洗い終わった」
「でも人に洗って貰うって気持ちいいらしいよ?リラックス出来るかもよ?」
 史浩はさもいいことを思い付いたというように発言している。だが俺はそれを飲む気にはさらさらなれなかった。
「いらん。背中だけじゃなくて他のところまで手を伸ばしてきそうだ」
 そんな史浩が容易に想像出来た。
 するときょとんとした顔を見せられる。
「当たり前じゃない。二人でお風呂入るのよ?しかもまでヤってない状態で。そんなの、いちゃいちゃするに決まってるじゃない」
 当然である。その考えが思い浮かばないほうがおかしいというような様子だ。
 俺もさすがに脱力する。
 そして全裸を晒している自分の状態が危険であることを思い出す。
「俺は一人でゆっくり自由に風呂に入りたいんだよ」
「なんで?いいじゃない二人で入ろうよ〜」
「入らない!脱ぐな!こっち見るな!」
 いい機会だとばかりにその気になっている史浩にストップをかける。
 好きなようにさせていたら、俺はこの風呂場からいつになったら出られるか分からない。
「なんでそんなに嫌がるのよ〜」
 史浩は拒絶されたことにしゅんとして傷付いた態度をとる。
 全く、風呂場を乙女仕様にしただけでなく、自分まで乙女になるつもりか。そんな野郎に俺はついていく気はないというのに。
「二人で入ったら狭い。動きづらい。のぼせる。大体、風呂場っていうのはそういうのに向いてないんだよ」
「汚れたらすぐ洗えるじゃない」
 そこを重視するつもりかこいつは。
「それだけだろうが。ふらふらになって明日身体ダウンしたらお前が責任とるのかよ」
 悲しいことに俺は明日のことを考えて生きる社会人だ。明日俺の仕事をしてくれるような代わりは存在していない。
 仕事というのは一度穴をあけると後日倍になって返ってくるものだ。一日の油断が命をとる。
「ダウンしないように気を付けるのに〜」
「おまえにそんな気遣いが出来るのか。いいから出てけ」
「どうしても駄目?」
「駄目」
 すがる史浩を、俺はそっけなく突き放す。いい年しているのだから、甘やかす必要なんてない。ましてこんな理由で甘やかすなんて、主義に反する。
「ようちゃんのけち!減るもんじゃないのに!いじわる!もう知らないっ」
 史浩はどこの少女漫画のヒロインだという台詞を残して、風呂場のドアを閉めた。
 本当に傷付いているならあんなオカマ口調で仰々しく去って行くことはない。なので俺は良心を全く痛めることなく、湯船の中で弛緩した。
 騒がしいやつだ。
「……バカップルでもあるまいし。二人仲良く風呂なんて、入れないだろうが」
 ぼそりと俺は呟く。
 大体風呂に二人で入ったら、身動きがとれなくなる。
 史浩と一緒に風呂に入るのは事後のみで、いつも身体が怠くて動くのが面倒だから史浩にある程度世話をさせる。
 しかし身体は洗わせないし、変な風に触ってきたら叱る。
 それでも流される時があるから、情けないところなのだが。
「……ああ、もぅ」
 いらないことを思い出してしまう。
 風呂場は、嫌なのだ。
 声がよく響くから。
 それに室温が高いから身体はすぐに熱を持つし。熱くて、溶けそうになる。
 いらない記憶を呼び戻してしまい、俺は湯船に顔を付けた。
 ぶくぶくと息を吐き出して気を紛らわせる。
 するとこつんと額に何かが当たった。
 顔を上げると、アヒルの間抜けな顔が間近にあった。
 指でついっと積み上げては見つめ合う。
「あほぅ」
 それは誰に向けて言いたかった言葉だったのだろうか。
 自分でも分からなかった。




まま


 仕事の出勤は出来るだけ早めにしてる。
 準備に時間が結構かかるからだ。
 それらしい服に着替えて、顔もしっかり作って、髪型も整える。
 女は三人集まればかしましいとは言うけれど。それはオカマも違いがないようで様々な話題で盛り上がっている。
 俺がいる店は、オカマと言ってもそれぞれ立ち位置が違った。
 女になりたくて努力している人もいるけど、俺みたいに女を演じることは面白いけど、四六時中女になるつもりはない人もいる。
 女が好きな人、男が好きな人、女になりたい人、男のままでいい人。
 それぞれ意識は違うけれど、仕事の対する姿勢の高さはそれぞれ保つようにと教育されている。
「絢ちゃん」
 着替えも終わり、後は髪を緩く巻くだけだという段階になってこの店のオーナーが俺を呼んだ。
 きっちりと着物を着こなしたオーナーは少し背の高い熟女という感じだ。
 知性的な感じがする。まぁなかなかの経歴を持っている人だから、それも当然と言えばは当然だけど。
 着替え室の外から手招きをされ、事務所まで連れられる。
 店内とは大きく違い、殺風景で飾りがかけらもない部屋に入るとオーナーは俺を振り返った。
 店の暗がりの中ではよく見えないけど、蛍光灯の下で見るとやっぱり年が滲む。だがこの人の場合それが決して悪い方向にいかないのだ。うなじに色気を香らせ、その年の深さが味わいになるんだから。恐ろしい。
「絢ちゃん、昨日なんだけどね」
 オーナーは難しい顔で話をしてきた。どうやら店の子がお客さんにお行儀の悪いことをして、怒られたらしい。それに対して別の子がミスをした子をきつく叱ったらしいが、その辺りでまたごたごたしたようだ。
 どこでも人間が集まれば問題が出てくる。仕事で最も難しいのは人間関係だと言われているが、相手が男、女だけでなくオカマでもそうらしい。
 俺は素直にはいはいと話を聞いて、とりあえず波風が立たないように上手く取り繕うべきなんだろうと判断した。オーナーも俺に望んでいるのはそれだろう。
 大体もめ事に首突っ込んでいいことはない。
「分かったわ、ママ」
 一応ここではオーナーのことをママと呼んでいる。だから俺も違和感ばりばりだがそう言った。
 オーナーはママと言われることに慣れているから「お願いね」とすんなり応じてくれた。
 話はそこで終わるものだと思っていたが、オーナーはふと困ったような顔を見せた。
 何事かと思っていると、「あのね」と少し言い出しにくそうに口を開いた。
「ここからは仕事の話じゃないんだけど」
 そう前置きをされて、俺はうっと言葉に詰まった。ここは職場だから、仕事の話以外はしたくない。
「貴方、最近どうなの?ちゃんとやってる?」
 心配そうに言われると、今訊くなよとあしらうのも悪い気がする。
 だがなんとも言えない、微妙な気分だった。
「…やってるよわよ」
「本当?最近仕事ばっかりで私生活のことはほとんど訊く時間がなかったから、気になってたのよ」
 確かに最近オーナーは忙しいようで、仕事のことで手一杯という様子だった。
「気にしてもらわなくても。ちゃんと無事に何事もなくやってるわよ」
「でも…他人と一緒に暮らしてるんですもの。親としては色々気になるものよ」
 さいですか。と俺は言いそうになった。
 そう、オーナーは俺の親だったりする。というか数年前まで親父と言っていた。そしてその親父は俺が中学生の頃まではちゃんとした会社に勤めていた。毎日スーツを着て、ばりばり働いていたらしい。いい額の給料も貰っていたようだ。
 まぁ、給料の事を言うと今だって稼いでいるけど。
「はあ…。てかどう答えていいのか困るんだけど。男に戻るべきなのか、オカマでいるべきなのか」
 息子としての近況を知りたいのなら、俺も息子としての顔を取り戻して話をするべきなんだろうか。だがもう見た目も意識も仕事モードに入っているし。この見た目で男に戻ると、なんというかバランスが悪くて落ち着かない。
 だからと言って親子モードになってしまったこの空気の中でオカマを貫くのも、それはそれで微妙な気がしたのだ。
「あら。どっちでもいいわよ」
 オーナーというか、父親と呼ぶべきか、まぁとりあえずこの親はその辺りを全く気にしないようだった。
 むしろ女装している間は女になりきると決めているのかも知れない。
「ようちゃんとは上手くやってるわよ。問題ないわ」
「そう?この前同棲してる男に暴力振るわれたって泣いてる子がいたのよ。他のお店の子なんだけど」
「ようちゃんが暴力振るうなんて有り得ない。そういうの一番軽蔑しそうだもん。人間が暴力に訴えるなんて知能が低すぎる。微生物以下だー、とか」
 実際ニュースを見てそれらしいことを言っていた。見た目も冷静で暴力的なものを連想させそうもない眼鏡男子は、内面も暴力反対タイプらしい。
「そうね。私もそうは思ったんだけど。もしかしたらと思うと、不安になるのよ」
 見た目は女装でオカマだが、親心は消えないらしい。というか消えてもらっても悲しいところだが。
「仲良くやっているならいいのよ。安心だわ。学業の方も問題ないわね」
「気になるなら前期試験の後に結果を持ってくるけど」
「いらないわよ。貴方は昔から学業の方はそつなくこなしてたもの」
 私の子よねぇ、としみじみ語ってくれる。
 オカマになって稼いでいるのも、私の子よねと感慨深く言われているのだろうか。
「ママ、ちょっといい?」
 事務所のドアをノックして、店の子がそう声をかけてくる。
「はあい。ちょっと待ってちょうだい」
 そう返事をしては、オーナーが俺を見る。
「毎日元気でやってるなら良かった。何か困ったことがあるならいつでも頼ってこい」
 いいな。とこの時ばかりは男の顔で言う。
 本気で親の顔になっちゃって、まぁ。と俺は心の中で苦笑する。
 いつまでも心配される子どもでいることにくすぐったさがある。だが男の顔をしている様は懐かしさを込み上げさせる。
「お待たせ。どうしたの?」
 男の顔をしたことなんて嘘だったみたいに、オーナーの姿を取り戻して部屋から出ていく。
 一人残された俺は肩をすくめた。
 自分の父親が、ママと呼ばれていることにはやはりいつまでも慣れない。
「まだ心配かぁ」
 ようちゃんと一緒に暮らすことを決意した時も散々反対されたのだ。
 大学生が他人と同居するなんてどういうことだ。しかも彼氏と同居なんて。何を考えていると説教をされた。
 オカマなんてやっている親子だが、常識だの貞操観念だのを捨てたわけではない。むしろその辺りは結構厳しく育てられていた。
 その親を説得するにはとても骨が折れた。
 そして渋々納得した後も、親としては気懸かりなのだろう。
 ちなみに、一番説得に苦労したのはようちゃんだった。
 無我夢中で頼み込んで、拝んで、脅迫もしてようやく同居にこぎつけたのだ。
 大変だった、思い出すと遠い目をしたくなるくらい。だがその分今は幸せなので、何の問題もない。
 さて、幸せなおうちに帰るまで後何時間だろう。早く朝にならないかな、と思いつつ事務所を後にした。




ボスカイオーラ


 史浩がバイトをしている金曜日の夜。俺は仕事が終わった後に人と会っていた。
 職場からそう遠くないイタリアンの店。オレンジの光がやんわりと店内を照らしている。
 他にも仕事帰りと思われる人々がテーブルを埋めて、賑やかな空間だった。
 俺は窓に近いテーブルに座り、大学時代の友人と飯を食っていた。
 くるりとフォークを回してパスタを絡め取る。
 こうして食べるのは日本人だけだと聞いたことがあるのだが、イタリア人はパスタをそばのようにすすって食べるのだろうか。
 ちょっと謎だ。
 俺が注文したのはクリームソースがベースのパスタだった。キノコをふんだんに使った、ばっと見シチューのようでもある。
 口に入れると細めのパスタがソースとよく絡み合っており、まろやかな味が広がる。クリームのやんわりとした深みの中にも粗挽きの胡椒が少し入っており、それがアクセントになっている。
 キノコにもしっかり味付けがしてあり、パスタと一緒に食べるときっちりとした違いが出て、それがまた旨みに繋がっている。
「おまえそれ好きだよな」
 目の前に座っている平田に指摘される。
「そうだな」
 そういえば、この店ではこればかり頼んでいるかも知れない。
「てか最近どうよ。絢ちゃんとは上手くやってんのか?」
 史浩がバイト中に名乗っている名前を出され、俺は「それなりに」と答えた。
「おまえが絢ちゃんと同居するって聞いた時は驚いたけどな」
 平田はカルボナーラを食べながら、そう語る。
 俺だって驚いたよ。あいつが同居を言い始めた時は素っ頓狂な声だって上げた。しかもその後一歩も譲らなかったことにも、驚いて呆れ果てた。
「で、仲良くやってんのか?」
 興味津々で尋ねられ、俺はパスタを口に含む。
 俺はこういう話題は好きじゃない。なんというか、ものすごく気恥ずかしい気がするのだ。
 自分が誰かを好きになって、その人と仲睦まじく暮らしているなんて。平和な話だけれど、自分が恋愛馬鹿になって、骨抜きになっていると知られるのがなんだか嫌だった。
「俺のことより、お前はどうなんだよ。みうちゃんとは上手くやってんのか」
 自分のことを言いたくないなら相手に喋らせればいい。というわけで俺は平田に全く同じ質問を返した。
 すると平田は待ってましたとばかりに口を開く。
「みうが、まだ手術に迷ってるらしいんだよ」
 人の惚気は大抵半分以上聞き流している。他人が聞いていてもいなくても、喋っている本人はあまり気にしない場合が多いからだ。
 けれどこの話題には、さすがに聞き流せなかった。
「性転換の?」
「そう」
 俺は声のトーンを落とした。
 みうというのは史浩が働いている店の従業員だ。平たく言うとオカマ。
 史浩とは違い、女になりたい男らしい。
「俺は手術なんて身体にメス入れるのはどうかと思うって止めてんだよ。だって全身麻酔とかして手術したら、もし医療ミスがあったら死ぬかも知れないだろ」
「そうだな」
 性転換手術がどんなものかは知らないけれど。手術と言うからにはそれなりのリスクがあるだろう。
 もちろん命に関わる、重大な問題だ。
「俺はみうが男でもいい。今のままでも十分好きなんだって、そう言ったらちょっと考えてみるって言うんだけど」
「まだ決心ついてないのか」
 手術をする決心も、止める決心も。
 好きな人にそのままでいいと言われてはいそうですかってすぐに諦められるくらいなら、女になりたいという理由で金を貯めたりしないだろう。
 こればかりは決着がすぐに出るものでもないと思えた。
「女になりたいって思い続けてきたなら。それを叶えてやりたいとも思うけど。身体に傷作ったり、痛い思いしたり、命の危険にさらされるのは…俺はちょっと」
 嫌だな、平田は真面目に悩んでいるようだった。
 その表情に、そういえばと俺は過去を思い出す。
 そもそも俺と史浩が出会うきっかけになったのは平田がみうちゃんを好きになったところから始まった。
 好きな人が出来た。でもその人はオカマなんだ。と俺に告げた時も平田はこんな風に悩んでいた。あまりにも真剣だから、俺は冗談だろとも言えなかった。
 あれから周囲を巻き込んで平田とみうちゃんは付き合うことになったけど。それより先に俺と史浩が付き合うことになったのが、宇宙の不思議だ。
「二人で話し合えよ。おまえがみうちゃんのこと真剣に心配して、考えてるんだってこと感じて貰ったら。みうちゃんだって自分のことやおまえと一番いい形で一緒にいられる道を考えるだろ」
 そういうことは他人がどうこう考えることでも、教えてやることでもない。
 平田もそれは分かっていたのだろう。うんと頷いてはパスタをくるくるとフォークで巻いている。
 大体こいつは昔から自分の中で結論が出ている話を人にするのだ。話すことによって自分の決意をより硬いもの、より精度の高いものにしようとする。
「おまえにはそういうのないのか?絢ちゃんとのことで悩んでることとか」
「別にないな」
 平田は相談してばかりで悪いと思ったのか、俺にも悩み事はないのかと訊いてくるが、あいにく平田みたいに真剣な悩みはなかった。
 毎日が平穏無事。騒がしいが問題のない暮らしだ。
「おまえんトコ本当に上手くやってんだな。みうが絢ちゃんから惚気聞かされるって笑ってたぞ」
 そうからかわれ、俺はどんな内容の話をしていることかと頭が痛くなった。またよく分からない、偏った目線でのことを言っているのだろうな。
 聞いたらきっと絶叫して、その後長々と説教をすることだろう。
「俺も聞いてるよ。みうちゃんが惚気話してくるって」
 史浩にそう訴えられるのだ。幸せそうなのはいいけど、そんなに話されると俺だって張り合いたくなる!だって俺たちだってバカップルじゃない!と。
 そう言われるたびに俺は「おまえが馬鹿なんだろうが」と冷たくあしらっているのだが。
「そうなのか?あいつ俺にはそんな素振り全然ないのに。結構素っ気ない感じだけど」
「おおっぴらに甘えられないんじゃないか?」
「照れ屋だからなぁ。おまえと一緒で」
 俺は平田のにやりとした口で言われた一言に、フォークを持っていた手を止めた。口にパスタがあったら吹いているところだろう。
「絢ちゃんが言ってたぞ?ようちゃんは照れ屋でなかなか甘えてくれないって。でもそこが可愛いんだってのろけられたけどな」
 笑う平田とは反対に、俺には羞恥が込み上げてくる。だかそれを表に出すようなへまはしない。恥ずかしがっているとバレることのほうが、今は恥ずかしい。
「あの馬鹿。くだらないこと言いやがって」
 明日殴ってやる。
「照れんなよ、ようちゃん」
 からかってくる平田を俺はこれでもかというくらい睨み付けた。
 大体いい年した男をちゃん付けで呼ぶのも止めろと言っているのだ。オカマでもあるまいし。それすらあいつは聞かないんだから。
 そう思うと肩が下がっていくのを感じた。平田の話を聞くより、むしろ俺のこの釈然としない思いを平田に聞いて貰うべきだったかも知れない。




next



TOP