兎の野望 3
昨夜はウサギに戻って武国に撫でて貰いながら眠った。頭や背中を大きな掌が慈しんでくれるのを全身で感じながらまどろむのは、今の俺にとって何よりの幸せだった。 とろとろとした甘いマシュマロのような眠りに揺蕩い、ふっと耳元で光が囁くのに気付いて目を覚ます。そんな何より気持ちの良い目覚めを味わいながら、俺の一日が始まった。 眠ったミトを、武国はそっとウサギのベッドに寝かせてくれたらしい。武国と同じ布団でなかったことは少し残念だったが、小さなウサギと同衾すると寝返りで潰される可能性もある。飼い主としては賢明な判断だ。 人間に戻り、壁にかけられた時計を見上げる。時刻はいつもの武国ならばとうに起きている時間だった。 けれど昨夜の武国は大学で出された課題に追われているようだった。休憩時間の隙間、気分転換にウサギを撫でていたようだが。思ったより時間を取られたのか。それとも課題に手ずったのか、夜更かしをしたのだろう。 クローゼットから服を取り出して着込みながら、武国の寝顔を眺める。 「どうして君はそうなんだ」 無防備に口を開けて眠っている武国は、俺のベッドを使わない。 部屋にある家具は好きに使って良い。生活品が収納されている場合は、中身は捨ててはいけないけれど、どれであっても好きに扱い、壊したとしてもさして気にしない。減るのも増えるのも気にしないと伝えていたのに。武国は頑なにフローリングに布団を敷いて眠っている。 床にじかに寝ると固くて背中や腰が痛いだろうと、人間に戻ってから注意したのだが。ベッドを使うなんて畏れ多いと言われて拒否される。 「新しいベッドを買おうかな」 二人分のベッドを並べてしまえば、武国も諦めてベッドで寝るのではないか。 だが俺の個人的な意見としては、一つのベッドを共有したいという気持ちもある。ウサギの姿で撫でられるだけでなく、人間の姿でも頭を撫でられながら眠りに就いたなら、きっと心地良いはずだ。 そのためには、ベッドが二つあると厄介になる。律儀な武国は一つのベッドに一人ずつだと、頭っから思い込むはずだ。 (大きなベッドを一つに買い替えるか) 武国の身体は大きいから、ダブルでも少し窮屈になるかも知れない。 しゃがみ込んでは窮屈そうに眠っている武国を眺める。百八十センチを超える身長、体格が良く筋肉質の武国にとって、シングルの布団はやや小さいのだろう。布団から投げ出された武国の手は自分のものとは違い、肉厚の掌で太くずんぐりとしている。 その掌は俺がこの世で一番気持ち良い温度をしていた。ささくれだった精神でもゆるゆるとほどけてしまうぬくもりだ。 (撫でて欲しい) 掌を思い出すと、撫でて貰った感触が恋しくなる。寝ている手を取って、自分の頭に導きたいけれど、武国を起こしてしまっては可哀想だろう。 (ご飯を作ってあげようか) 武国は俺の世話をすることが仕事だと信じているので、家事の大半を担おうとしてくる。 俺も一人の人間であり、一人暮らしをしていたので、一人でも十分生活出来るのだが、武国はそれを認めない。 朝ご飯も律儀に毎日作ろうとしてくれる。構われるのも世話をされるのも好きなので、武国のしたいようにさせているけれど。だがたまに寝坊をした時くらい、俺が作っても構わないだろう。 (でもその前に) スマートフォンで寝顔を撮影しておこう。 ベストアングルを探して武国の周りをぐるぐると周り、俺もまた床に寝転がるような姿勢で寝顔を狙う。 (ここか?これかな) カメラマンかと思われるほど、角度にこだわり。ここだ!というショットを撮影する。するとカメラのシャッター音が思ったより大きく響いた。まして武国の顔の近くで鳴っている。 「あ」 しまった、と思っていると武国の瞼が震える。目覚めの予兆だ。 案の定そう間も開けずに目が開けられてしまう。 「ごめん」 「……はよ、ございます?」 何故謝られたのか、武国は分かっていないようだった。どうやら写真を取られたことには気付いていないらしい。 枕元に置いてあるスマートフォンを取っては、がばりと勢い良く起き上がる。一気に眠気も覚めた様子だ。 「寝過ごしました!すみません!すぐに朝飯作ります!」 「慌てなくていい」 「でも一時間以上遅くなってる!」 「俺は午前に予定は入ってないから、君のスケジュールで動いていいよ」 時間によゆうがあるのだと伝えると、武国はダッシュで向かったキッチンで、冷蔵庫の扉を開けたところでゆっくり振り返った。 「本当ですか?今からでも間に合います?」 「うん」 俺に迷惑をかけないように、いつも気を付けているのだろう。寝坊くらい良いのに、むしろ朝から約束があるならば自分でちゃんと用意をして時間通りに出掛ける。 武国のせいにするつもりは欠片も無い。 子どもではないのだが。その辺りはどう捉えているのだろうか。 (でも武国がいないと駄目だって思われているのは、面白いな) その分武国は俺のために頑張ってくれるのだろう 冷蔵庫から野菜を出しては簡単にざくざくと切っていく。まずはサラダがなければいけない、と分かってくれている。次に玉子を取り出してスクランプルエッグを作ってくれる。同時に食パンをトースターにセットしていた。 朝ご飯のメニューは大体が似たようなものだった。 一人暮らしならば、似たような料理を繰り返すことなんてしなかった。すぐに飽きてしまうからだ。 前日からあれこれ買い込んだり、冷蔵庫の中身を思い出してメニューを考えたり、自分なりに工夫をしてた。 だが武国は少ないレパートリーで、なんとか俺に朝ご飯を作ろうと努力しているのだと思うと、似たような料理ばかりが並んでいても文句はなかった。むしろ慣れない手付きが、安定したものに変わっていく成長過程に穏やかな気持ちになれた。 フライパンの上で熱せられていく玉子を掻き混ぜる武国の腕に寄りかかる。 「森山さん、お腹空きましたか?もうすぐに出来るので、少し待っててください。すみません」 「ううん、お腹はそんなに空いてない。見てたいだけ」 武国が自分のために朝ご飯を作ってくれている。それを視覚嗅覚、そして身体でも感じていたいのだ。太い武国の胴体は俺が多少体重をかけても、びくともしない。だから余計に、甘えるようにくっついてしまう。 (頭を撫でて欲しい) しかし菜箸を持っている上に、調理中の武国にそんなことを望むのは欲張りが過ぎる。 火傷にもなりそうで、黙って武国の顔を見上げた。 「あの……そんなじっと見られると、緊張します」 そう注意されても、見詰めていたい。視線を逸らさずにいると、武国はわざらしい咳払いをして「もういい頃合いだ」と呟いた。 離れて欲しいその合図には、素直に従った。そうしなければせっかくのスクランブルエッグが焦げてしまうだろう。 スクランブルエッグが出来るのと、トースターが完了を告げるチンッという軽快な音が鳴り響くのは同時だった。 トーストを取り出すと武国がバターを塗る。その上にスクランブルエッグを乗せて完成だ。 「まだですよ」 さて食べようかと二人分のオレンジジュースを注いでいると、武国が勿体ぶるようにそう言った。何がまだなのか、首を傾げていると武国は冷蔵庫から小ぶりなチューブを取り出す。 ピンク色のそれでスクランブルエッグの上に斜めの線を幾つも引いていく。黄色とピンクの組み合わせはクッキーのアイシングみたいだ。 「明太マヨネーズです。いつもただのマヨネーズばっかりだから、飽きてきたかと思って」 確かにスクランブルエッグにかけるのはマヨネーズか、もしくは塩こしょうなどが多い。 「俺は料理が下手なので、こういうちょっとした変化しか出来ないです。でも、ちょっとずつ頑張ります」 武国の意思表示に、俺はぎゅうと胸が締め付けられて、ただでさえ喋るのが上手くないのにもっと言葉が出てこなくなった。 だから武国に抱き付いた。 「わっ、え、えぇっ!」 (嬉しい嬉しい!) 言葉に出来ない感情は、しがみつく腕の力に変えた。細身の人間ならきっと苦しいだろうが、武国ならきっと平気だ。 「あの、森山さん?」 「……頭、撫でて」 武国が料理をしている間、我慢していた気持ちも蘇ってしまう。緩みきっているだろう顔面でそうねだると、武国は瞬きをして恐る恐るというように頭を撫でてくれた。 想像していた通りの優しくて気持ち良い掌に、俺は目を閉じた。神経は全て武国が撫でてくれている部位に集まっていく。 (音が、たくさん生まれてくる) 鼓動と一緒に、弾けるような喜びと、飛び跳ねる元気な音がぽんぽんと俺の中で響く。 世界に祝福されながら、お気に入りの街を駆け抜けて大好きな人に会いに行く気持ちだ。今ならなんだって出来る。大好きな人のためなら、宇宙にだって飛び出していける。太陽の真上で愛を叫べる。 万能感に踊り出したくなる。だけどこの衝動はダンスで表すものではない。 (曲を作ろう) 音を作り出すのが、俺の仕事だ。 今ならきっと最高の仕事が出来る。聴いた人間の耳を、嬉しい!という気持ちで塗り替えられる。 悲しみで陰った瞳が、ときめきで潤み輝き始めるだろう。 目を開けると武国が気恥ずかしそうに俺を見下ろしていた。 (初恋は、こんな感じなのかも知れない) ごく自然にそう思った。 |