兎の野望 2





 飼い主に望む男の名前は熊谷武国といった。見た目が大きくてフィクションに出てくる穏やかなクマのようなので、その名前はぴったりだった。
 金に困窮しているという武国は、ウサギの世話をするだけでお金が貰えるというバイトにすぐさま飛び付いてくれた。
 これは俺にとっても好都合だった。同居をしてみれば武国がどんな人間なのか、よく分かるだろう。人間相手ならばまだ自分を取り繕う可能性もあるけれど、ペット相手ならば人間は素顔を晒し出す。
 それこそ人間性を知るにはもってこいなやり方だろう。
 だがウサギの世話をして貰うため、支払う金額に関してはとても悩んだ。俺は最初月給五十万くらいならばどうだろうと提案したのだが、マンションの住民たちに猛反発をされた。
「月五十万なんて、犯罪に違いないって思われる」「ウサギにあげる草とは別に大麻の栽培をさせられると思われる」「部屋に死体を隠してそう」などと散々な言われようだった。
 あまりに高い金額は警戒心しか煽らないらしい。
 ではいくらが相場なのかと思ったけれど、こんな作戦に相場などあるわけがない。
 武国がすぐに食い付いてくるけれど、怪しまれない程度の金額についてマンションの住民たちの間でも議論は紛糾した。
 結果的に、飯塚さんの新入社員時代の手取金額で決着がついた。
「少ないですね」と言った際、飯塚さんから「セレブには分からないんですよ!」と叫ばれたけれど。武国にとってはやや高かったらしい。同居を始めてから、家賃光熱費+十五万の世話代というのは条件が良すぎると訝しむ素振りが数度見られた。
 それでも武国は本人にしては高いと思われる金額を、それでも有り難いと呟く。
 武国の実家の借金は俺が思ったよりも深刻なものだったのだ。母親との電話で細切れながら熊谷家の経済状況を知ったのだが、父親が亡くなり収入源が断たれただけでなく借金が残されたらしい。その額は約一千万で、母親はそれまで専業主婦をしていたそうだ。
 小学生の妹が二人おり、これから金もかかる状態で、武国が大学の学費を捻出するのは難しいとされていた。
 大学を辞める選択に悩まされていたのも無理もない。
 可哀想だとは思ったけれど、武国を引き込みやすいと思ったのも事実だ。金がある方向へ、武国は動いてくれる。自分との繋がりを作るのに、これほど容易い条件はなかった。
 運良くバイトをしていた居酒屋が閉店するというので、同居だけでなくバイト先の斡旋もしようと、飯塚さんに紹介をお願いした。
 余計なことは言わない、無害そうな人種はあの人が適任だと思ったのだ。案の定武国はウサギカフェの面接に来てくれた。
 ウサギカフェに対しては計画した直後に連絡をしていた。店も店で人手不足と、武国のような人がいれば良いと思っていたところであるらしい。
 オーナーが俺の姉というのがひっかかっていたが、店長は飼い主だ。同じ飼い主目線で武国のことを見てくれるだろう。
 そしてカフェでバイトを始めた武国を、店長は高く評価してくれていた。真面目で優しい、何より「気遣いが出来る」というのが店長としては喜ばしいところだったらしい。
 ウサギ好き同士としても話が弾むのだと聞いた時は、やはり武国を選んで間違いなかったと誇らしく思った。
 武国はウサギの扱いも上手かった。過去に飼っていた経験があるからだろうが、それにしてもウサギの姿のまま武国と過ごしていると、ずっとふわふわとした心地良さに浸っていられる。
 ウサギの姿では鮮明な記憶はあまり出来ないのだが。断片的にでも自分にかけられている言葉のニュアンス、武国の表情などは読める。それがあまりにも愛しさに満ちていることをウサギでもちゃんと感じ取れていた。
 自分を好きでいてくれる人に守られているというのは、こんなにも安心出来て、こんなにも満たされるものなのかと、驚かされた。
 身内があれだけ飼い主を自慢したくなるのも理解出来る。飼い主は世界の命運を握っていると同時に、幸せを無限に生み出してくれるものだ。
 これまで味わったことがない充実感と幸福に、絶対に武国を逃してなるものかと思った。ウサギでも人間でも、俺がいなければ武国は生きていけない状態にしてしまうのが、俺の野望だった。
 もし万が一、そんなことは絶対に起こって欲しくないけれど、天地がひっくり返って武国が俺を嫌いになったとしても。俺がいなければ生活出来ない状況なら、そばにいてくれる。
 離ればなれにならなければ、関係の修復だって可能かも知れない。とにかく、自分の元に引き留めておくことが肝心だ。
(ウサギの俺に夢中なのはよく分かっている)
 武国はウサギに対してはものすごく甘くて。何でもしてあげると平気で口にする男だ。デレデレとした顔は、それはもう飼い主馬鹿といっても過言ではない。
 ウサギの俺は、きっと武国にとってかけがえのないものになっているだろう。
 けれど人間の俺にはまだ、慣れていない。ウサギが俺だと分かっていても、人間の姿を目の前にすると、全くの別物のように意識してしまうらしい。
 無理もないだろう。生まれながらにしてウサギと人間の二つの姿を持っていた俺にとっては、姿が変わるのはごく自然なことだが。ただの人間にとってみれば姿はたった一つであるもの。
 ウサギと人間、二つの俺を一つに結ぶのは常識的感覚からすれば難しいのだろう。だから俺は二人で暮らしている部屋で、ウサギでいる時間を少しずつ減らしている最中だった。
 まずは俺という人間がこの部屋にいるのが当たり前にならなければ。
(意識してくれるのは嫌じゃないけど)
 武国は俺の前では緊張してしまうらしい。
 出逢ってからそれほど長い時間を過ごしたわけでもない年上の男。しかもウサギになれるという得体の知れない人種。という意味で警戒しているようではない。
 むしろ感情としては逆に近いのではないだろうか。
 俺の顔をちらちらとよく見てきている。見られるのには慣れているので好きにさせているのだが。たまに目が合うと、武国は途端にびくっと肩を跳ねてそっぽを向く。これではまるで武国の方が好奇心に抗えずにいる臆病な小動物のようだ。
 目が合った際、たまに微笑んで見せると武国は面白いほどに動揺してくれる。硬直したかと思うと、妙に焦って何かをしようとして、大体失敗する。物を落とす、足がもつれる、家具に足指をぶつけるなんてこともあった。
 分かり易い態度に俺はいつも噴き出すのを堪えるのが大変だった。
(可愛い)
 ウサギの俺から可愛いと言わせるなんて、あいつも大した人間だ。
「森山さん、お風呂の用意が出来たので先にどうぞ」
「君が先に入っていいよ」
「いえ、俺は後でいいので」
 武国はいつも俺に一番風呂を譲る。家主だからというのがその理由らしいが、俺は風呂の順番にこだわりはなく、家主も何もここは二人の部屋だという認識なので何も気にしていない。
 けれど武国は「居候」「家賃も払っていない」という状態に気が引けているようだった。
 気にするなと言われる方が気になる。そんな律儀な人間もいるのだから、それ相応に振る舞った方がいい、と大家にアドバイスをされたので、俺も遠慮をする武国に食い下がりはしない。
「じゃあ二人で入る?」
 狭い湯船に大人二人は狭いけれど、入れないほどでもないだろう。
 俺にしてみれば裸の付き合いもしてみたいという、軽い気持ちだったのだが。武国は目を剥いた。
「い、いいです!遠慮しますそんな!無理です!」
 叫びながらドタバタと部屋を出て行く。たった2DKの間取りでは逃げたといってもたかが知れているのだが。それでも恥ずかしくて隠れたくなったのだろう。
 大きな身体が慌てて逃げていく様に、どうしても笑わずにはいられなかった。
「可愛い」
 武国はどんな言動も愛嬌がある。
 年下の男が可愛くて優しくて、魅力的だと思う日が来るなんて思わなかった。年上の飼い主に自分を預けて、思う存分甘えながら好き勝手に生きていくのが理想だったのだが。武国ならば、甘えるだけでなく甘えて欲しいという気持ちまで湧いてくる。
 武国が求めてくれるなら、多少の労働や苦労も受け入れられる。
 自分以外の誰かのために苦労をしてもいいなんて、以前の自分なら絶対に思えなかった。
「武国はすごいな」
 俺を変えてくれる。



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