兎の救済 7





 愛玩動物になれる人間と、そんな特殊な人間と暮らしている飼い主たち。とんでもない環境であるはずなのに、俺以外の三人は平然としていた。
 柴犬である豆吉、柴田も鹿野さんの足元でお座りをしている。鹿野さんが頭を撫でると大きく尻尾を振っては、他には何も見えないとばかりに飼い主を見詰めていた。
 犬らしい姿だ。
 だがそれが大学の友人だと思うと、何とも複雑だった。
「なんでみんな、普通なんですか」
 鹿野さんが撫でているのは俺の友人であり、人間なのだがと。そんな台詞が喉元まで出かかる。
「だって俺たちにとってはそれが普通だから。生まれた時からそういう生き物だったし。びっくりするところはどこにもない。まあ、それを知らなかった飼い主連中にとっては、びっくりかも知れないけど」
 ペット側であるテンの意見は、ごもっともだった。生まれつきならば、それが当たり前だろう。けれど飼い主側はどうなのか。
 南さんと鹿野さんを見るとそれぞれがすでに達観したように落ち着いた様子だった。
「出逢ったのがたまたまそういう子だったのよ」
 南さんは可愛いから仕方ない、と苦笑している。そこにはペットと暮らしている生活に馴染んでいる心境が滲み出ている。
 しかし俺は到底そんな風に、丸ごと受け入れる覚悟が出てこない。
「たまたまって言われても!俺はここに来てからずっと森山さんと暮らして、森山さんをウサギとして可愛がってたってことですよね!俺、相当恥ずかしいこと言ってたんですが!可愛い可愛いって、こんなクマみたいなむさ苦しい男が、猫かわいがりして!」
 ミトは可愛いなー、天使だなー、なんてデロデロに甘やかしていた。他人には到底聞かせられないような甘い声で、毎日飽きもせずに似たような台詞を聞かせていた。
 飼い主がペットに言いがちである赤ちゃん言葉のようなものは使わなかったことだけが、唯一の救いかも知れない。それを聞かれていれば精神的に死んでいたことだろう。
 人様のウサギだから、という俺の中の線引きが命拾いになった。もし自分のウサギだと思っていたら、幼児に対する言葉遣いになっていた可能性もある。
(恐ろしい……)
「でも意識はウサギだからな。あんまり覚えてないと思うけど。ペットになってると、大体ペットの意識に引っ張られるから、記憶力ってすげえ低下すんだよ」
 テンが動物的な目線で語ってくれる。それが真実ならば多少の救済ではあるけれど。出来れば完全に覚えていない方が良かった。
「それにしたって、こんな状況でいいんですか?人間に、飼われるとか」
 ペットとしての意識とは別に、人としての意識も一応はあるらしい。なのに人間に飼われている自分がいることを、どう思っているのか。
 あの綺麗で物静かで、淡々としていた森山さんは。俺なんかに飼われていた日々をどう考えているのだろう。
「いいも何も、嫌ならここにいないでしょ」
「南さんも、そんなあっさり……」
「だってこの暮らしが好きだからみんなここにいるわけ。嫌なら出ていくでしょうが」
 実にシンブルな答えだった。
 きっと南さんにとっては、そうしてきっぱりと判断が出来る問題なのだろう。
「森山さんも、それでいいんでしょうか……」
 嫌だと逃げ出したい時はなかっただろうか。ウサギのミトの行動を思い出しても、殊更嫌がっていたところはないと思うけれど。それだって俺が都合良く勘違いしているだけかも知れない。
「嫌なら逃げ出してるだろ〜。だってミトをケージに閉じ込めるんじゃなくてサークルの中に入れたまま、熊谷は大学やバイトに行ってたんだろ?もし熊谷との生活が嫌だったら、人間に戻ってさっさと部屋から出ていくだろ。人間だったらサークルの高さなんて関係ないんだから」
 ウサギにとってサークルの高さは飛び越えるのが難しいものだが。人間にとってサークルなんて膝くらいの高さでしかない。
 それで拘束になっているわけもなく。人間に戻れば自力でどうとでも部屋から出て行ける。
 そもそもあの部屋は森山さんの部屋だ。
「じゃあ俺がいない間、森山さんはあそこで」
「人間に戻って暮らしてただろうな」
「まー、森山さんはスタジオを借りてるらしいから。そっちに帰って仕事したりしてたみたいだけど。熊谷が帰ってくるまでに、こっちの部屋に戻ってきてんの見てたし」
 俺の一日の動きは大体同じだ。まして大学があるなら講義の時間には家に戻ってこない。それにバイトもよく詰めていたので、部屋が空白になるタイミングは多かったと思う。
 ミトを一人にしてしまうのが心苦しかったけれど、実際は丁度良かったのかも知れない。
「そんな……俺、どうしたら……」
 預かっていたウサギが人間になる。しかもあんな綺麗な男の人だなんて。これからどうすれば良いのか分からない。そもそも森山さんは何故、ウサギである自分を俺に預けたのか。
「嫌なら止めればいいだろ。気持ち悪いなら捨てればどうだ。ただのウサギじゃない、人間に戻れるんだから捨てるのに躊躇いなんかいらない。放り出しても死ぬわけじゃない」
 鹿野さんは豆吉からリードを外しながら、そんなことを語る。
 冷淡な台詞にテンと南さんが凍り付いた。この人たちにとって「捨てる」というのは非常に重たく聞こえるのかも知れない。特にテンはまだ何も言っていない俺を責めるような目で見てきた。
「気持ち悪いだなんて、そんなことは、思わないですけど」
 人間なのにウサギになれるなんて、そう思えば確かに気味が悪いことかも知れない。けれど俺はだっこをしているミトにも、人間の姿をしている時の森山さんに対しても、気持ちが悪いなんて感情は浮かんでこなかった。
 むしろ今日はだっこをしていても嫌がらず、じっと大人しくしているミトの姿は、可愛さが突き抜けている。
「鹿野さんは、分かってて暮らしてるんですよね?」
 人間になると分かっていて、今リードを外されてもお座りをしたまま待っている愛犬と暮らしているのか。
 動揺している俺にミトを受け入れる度胸がないと思っているのだろうか。
 冷たい台詞を口にしたばかりの鹿野さんの胸の内が窺えない。
「俺だって最初は知らなかった。ここにいる奴らは誰もが騙し討ちを喰らってる」
「騙し討ち?」
 ということは誰一人、最初からペットが人間になる存在だと知らずに同居を始めているのか。
 驚いてばかりの俺に、テンが多少ばつが悪そうに髪を掻き上げた。
「だって怖いだろ。自分がペットになれる人間だなんて、初対面でバラすなんて。リスクが高すぎる。ペットに戻ったら俺たちは人間相手に抵抗なんて出来ないんだ。危害を加えられたら、下手すりゃ死ぬ」
「まあ……そうだな」
 腕の中の小さなウサギなんて、人がその気になればあっという間に死んでしまう。そう想像するのも嫌で、ミトの背中を撫でた。
 こんなに可愛くて愛おしい子を傷付けるなんてとんでもない行為であり、誰が相手でも許せないけれど。まして自分がするわけもない。
「だから試すんだ。この人は自分を愛してくれる人間か。信用してもいい相手かどうか。だって俺たちは命も人生も全部を飼い主に託すんだから」
 そんな重大な決断を、柴田やテン、そして森山さんは下したのか。
(俺相手に?)
 ミトがふと、重みを増したような気がした。
「試し行為だなんて俺は最低だと思うがな。だが向こうは命を俺の手に握らせようとしてるんだから。無防備になれと迫るのも、無茶なんだろうさ」
 鹿野さんはとても不満そうな表情を浮かべた。
 もしかすると柴田と暮らすに当たって、何かあったのかも知れない。そもそもこんな特殊な人間と同居するのに、何もなくするりと物事が進むわけもないだろう。
「それで鹿野さんも南さんも、納得したんですか?」
 俺の問いかけに、鹿野さんと南さんは顔を見合わせた。南さんは肩をすくめたが、鹿野さんは舌打ちをして顔をしかめた。
「俺たちは、選ばれた時点で負けている」
「そうそう。だって向こうはそういう人間を最初から選んでるからね。厳選してるわけ」
「始まった時点で飼い主にとっては負け戦だ」
 鹿野さんは不服そうにそう言って、玄関のドアを開けた。それに豆吉が嬉しそうに後ろについていく。
 何やら色々あったんだろうなと思う。けれど閉められたドアからうっすらと聞こえてくる「豆吉!足を拭かせろ!」と叱る鹿野さんの声はとても優しい。
「勝てたやつなんて、一人もいないのよ」
 南さんは俺もどうせそうだろうと見透かしたように笑った。



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