兎の救済 8





 ミトをだっこしたまま、部屋に戻る。
 自分が暮らしていた環境が、実は非現実的な状況と人々に囲まれていたのだと気付かされて、呆然とリビングで立ち尽くした。
 十数分前までの平穏な空気は打ち消され、頭の中は様々な衝撃でぐらぐらと揺れてしまう。
(俺は、あの人とずっと暮らしていたのか)
 カフェで初めて会った時を思い出して、あれからたった数日後には同居をしていたなんて。しかも俺は完全にただのウサギだと思っていたから、何の気兼ねもなくミトに接していた。だらしない生活だって、ミトはその大きな瞳で見ていただろう。
 風呂上がりにパンツ一枚だったり、カップラーメン片手に部屋をうろついたこともある。食生活は金をかけないことだけ気にしており、部屋着はボロボロで身なりも頓着していない。
 あんな綺麗な人が見れば、げんなりするような日々だったはずだ。
 途方に暮れている俺の足元で、ミトがぐるぐると回っている。俺が動かずにただ突っ立っているのを、おかしいと思ったのかも知れない。
 脱力するようにその場に座り、ミトの丸まった背中を撫でる。すると頭を突き出してくる。ねだられるまま額を撫でると、ミトは気持ち良さそうに目を閉じた。
「この子が、森山さん……」
 この呟きも、掌にすっぽり収まる小さな頭は理解しているのだろうか。人間に戻った際、どれほど覚えているのだろう。
(一ヶ月十五万円の給料なんておかしいと思ってたんだ)
 やっぱり普通のウサギじゃなかったじゃないか。
 そう思うけれど、騙されたと恨むつもりはなかった。だってミトと暮らしていた時間は、俺にとっては幸せだったからだ。
 嫌な思い出がない分、知ってしまった以上これまで通りにはいかないという苦悩と寂しさはある。脳天気にウサギを可愛がりながらのほほんと世話をするなんて、今後は畏れ多くて不可能だ。
 どうしようという不安を前に、溜息が出てしまう。
「ちゃんと話して下さいよ。そしたらもっと」
(もっと?)
 独り言をぴたりと止める。
 その続きに何と言いたかったのか。自分でも分からない。
(もし……仮に自力で森山さんがミトだって気が付いたら。俺は同居を続けていただろうか)
 少し考えて、きっと続けていたなと思う。十五万円という月給は俺にとってあまりにも魅力的だった。それに家賃光熱費まで森山さんが払ってくれるのだ。
 次の部屋も決まっていない俺にとって、ここから追い出されるとすぐさまホームレスになってしまう。だからせめて次の引っ越しが決まるまでは、とすがりついたはずだ。
 だが昨日までのように、ミトに何の抵抗もなく接せられたか。無邪気に遊んでやれたか、と訊かれるとそれは無理だ。きっとミトを、森山さんとして扱っていた。
 気を遣い遠慮をして、もしかするとここまで可愛いと思えなかったかも知れない。一人の人間としての尊厳を尊重して、俺はミトと精神的な距離を取っただろう。
 こんなにも大切に出来ていたか分からない。
(だって俺が守らなきゃいけないって思って)
 そう思う時間が増えれば増えるほど、たまらなく愛おしくなった。大切にしたいという気持ちが急激に膨らんでいた。
 自立した一人の人間である森山さん相手だと理解していれば、ここまで気持ちは育たなかったはずだ。
『気持ち悪いなら捨てればどうだ』
 そんな台詞が蘇る。
 だが俺はミトを捨てる、放り出すなんて気にはなれなかった。ミトが森山さんに戻れば一人で生きていけるだろう。だがウサギの姿をしている間は、俺がこの子を捨てるなんてあり得ない。
「ミトを捨てるなんて。出来るわけがない」
 今この手はミトを守り、育てるためにあるのだ。危害を加える、放棄する手ではない。
 分厚く太い、まさにクマのような手を見下ろしては、改めてその決意を固くする。見た目は不格好だが、傷付けるのではなく、守るためにある手だと信じていた。
 人間に戻ったらどうしようと煩悶しながらミトを撫で続けたけれど。ミトはウサギのまま、ベッドに戻り眠り始める。
 俺は話し合いをしなければいけないと思って、緊張したまま夜を過ごしたけれど。結局ミトが人間に戻ることはなかった。



 悩ましい夜を過ごしている内に、いつの間にか眠ってしまったらしい。物音で目覚めた時、部屋の中は明るく、朝が来ていた。
 枕元の近くから人の足音が聞こえて、俺はぎょっとして飛び起きた。一人暮らしの部屋に人間の足音があるはずがないのだ。
 けれど身体を起こした俺を、近くにいた人が振り返る。
「……森山さん」
 細身のすらりとした体躯の森山さんは、しっかりと服を着込んでいた。ウサギから戻って、自分の服を着たのだとは分かるけれど、最後に見た姿が半裸だったため、着衣であると安堵してしまう。
 よく見ると手には苺のパックを持っていた。俺が一昨日買ってきた特売品だ。それを食べながら、俺の様子を観察しに来たのかも知れない。
「おはようございます」
「……はよ」
 森山さんは短く挨拶を返すと、もう一つ苺を口に運ぶ。もぐもぐと食べている小さな口に注目をしてしまう。
 そこにミトとの共通点を無意識に探していた。
 淡々とした表情、無言で苺を食べる、よく動く口元。
(ウサギっぽい……)
 照らし合わせてみると、確かに……と納得せざるを得ない。
 無言で見詰め合っても、森山さんは苺を食べること以外に口を使おうという意志が見えない。苺が好きなのかも知れない。ミトは苺を見ると俺にくっついて離れなかったくらいだ。
「……森山さんは、ミトなんですか?」
「そう」
 覚悟していたけれど、本人にあっさりと肯定されるとやはり多少動揺してしまう。だがグズグズしていても前に進まない。
 それに昨夜、訊こうと思っていた内容をようやく投げかけられるのだ。
「なんで、俺を選んだんですか?十五万も払って、ここに住まわせてくれて」
 森山さんが俺を選んだ理由がずっと分からなかった。
 見ず知らずの他人に、大切なウサギを預けるなんてあまりにリスキーだ。本当は大切なウサギではないのだろうかと、少し疑っていたくらいだ。
 けれど今は更に謎が深まっていた。
 大切なウサギどころか、自分自身の安全を投げ捨てて、俺に身を預けていたのだ。ある意味命懸けの日々だったはずだ。
 簡単に決断出来るわけもないその選択を、何を持って選んでしまったのか。
「君はウサギを大切にしそうだったから」
「そんな風に見えても、初対面の俺に自分を預けるなんて危ないと思います」
「でも危なくなかった」
「結果論です!もし虐待でもされていたらどうするんですか!」
「もしそうなったら逃げるつもりだった。俺は人間に戻れるし、周囲にはあらかじめ相談もしている。もし万が一俺に何かあった際には、助けて貰えるようになっていた」
 なるほど逃げる術は作っていたのか。
 完全に無防備に過ごしていたわけではないらしい。
「でも俺が、発作的にミトを蹴ったり殴ったりしたら、誰の助けも入らない内に大変なことになってました。危険すぎます」
「君はそんなことはしない。優しい人だから」
 森山さんは何もかも分かっているとばかりに、平然とそう口にした。そして最後の一つになった苺に齧り付く。
 違う、優しくないと言い返したい。
 だが森山さんはミトと一緒に暮らしていた俺を見ている。どんな様で俺がミトに接していたのか。きっと覚えているのだろう。
 俺からしてみれば森山さんとこうして対面するのはたった三度目だ。だからまだ緊張もするし、相手がどんな態度と反応を取るのか予測出来ない。
 だが森山さんは俺がどんな性格なのか、どんな言動をするのかもう予想出来るみたいだった。
(ウサギだった頃の記憶ってどれだけ残ってるんだろう)
 テンはそんなに残っていないかのように語っていたけれど。この様子だと結構しっかり残っているのではないだろうか。
「俺を、試してたんですか?」
「見ていた。一緒に暮らしていくのに大丈夫か。飼い主になって貰って、俺は幸せになれるかどうか」
「飼い主って、そんなに欲しいものなんですか?それが俺でもいいんですか?」
 人間として生まれて、人間としてしか生きていない俺にとって。飼い主という単語はあまり良い響きじゃなかった。
 まして目の前にいるのは人間の森山さんだ。彼が飼い主を求めているというのが、何とも違和感があった。
 だって飼い主を得るなんて、支配される、自由を奪われるのと同意ではないだろうか。
「俺はペットだから。人に愛されたいと思うのは自然なこと」
「ペットって……」
 愛玩動物だと言う森山さんは、それが誇りであるかのように堂々としている。
「武国は大丈夫。だから、戻った」
 何の根拠があって、そんな自信満々に断言出来るのか。俺自身が、自分に対して大丈夫なところなんて何もないと思うのに。
 呆気にとられている俺とは反対に、森山さんは空になった苺のパックを台所に置きに行く。
「なんで、なんでこのタイミングで戻ったんだ……」
 背中を向けられて、俺はそっと呟いた。一体何がきっかけで元に戻ろうという決心がなされたのか。
「人間の俺を見て欲しくなったから」
(えっ、聞こえた!?)
 俺が寝ていた布団と台所では距離が少しある。だから吐息のような小さな呟きは聞こえるはすがない。だが森山さんは台所からしっかり返事をしてきた。
 まさか会話になるとは思っておらず、俺は思わずびくっと肩を跳ねさせた。そんな俺の反応すら感じ取ったかのように、森山さんは振り返って俺を見てくる。
 ウサギにもなれる人間は、もしかしてものすごく耳が良いのだろうか。
 森山さんは硬直している俺の元まで戻ってくる。布団の上に座ったままの間抜けな俺に躊躇いなくぐいっと顔を寄せて、視線を合わせてきた。
 こんな至近距離で見てもつるりとした、シミもしわもない美しい白い肌は女性からしてみれば喉から手が出るほど欲しいものだろう。
 潤んだ大きな瞳は遠くからでは分かりづらいけれど、間近にすると感情が浮かんでいるのが感じられる。
(不安?)
 揺らめくような眼差しに見入っていると、小さな唇が動いた。
「嫌いになる?」
「えっ」
「俺は武国が、好き」
 好きと紡いだ唇に、かあと顔が熱くなる。その熱くなってしまった自分の反応に、動転した。そしてとっさにシーツを蹴り飛ばすように、ドタバタと逃げては壁に背中を付けた。
 まるで刃物で脅されてているかのような反応だが、俺にしてみれば森山さんの声と大きな瞳は刃物よりずっと強力だった。
「あの、でも、俺は、男で!」
「俺は嫌い?一緒には暮らせない?」
「嫌いじゃありませんけど!でも!森山さんと、一緒に暮らすなんて!」
「もう暮らしてる」
「そうですけど!でも人間の森山さんとは暮らしてなかったし!ずっとウサギで暮らしていくわけじゃないでしょう?人間にも戻りますよね?なのに、俺と同居なんて」
「人間に戻る率は半分くらいかな」
「半分でも!」
 こんな綺麗な人が部屋にいると、どうしても意識してしまう。同性でも綺麗なものは綺麗なのだから。
 そして森山さんはどんどん俺に近付いてくる。布団の上に膝立ちになり、顔をぐいぐい寄せてきては、何かの拍子に唇が触れてもおかしくないくらいの近さまで迫ってきた。
 俺みたいな男が森山さんの顔に吐息をかけるなんて畏れ多くて、息を止める。そうでもしなければ、心臓の方が止まってしまいそうだった。
「……俺を捨てる?」
「捨てません!」
 哀しげに眉尻を下げて小首を傾げる森山さんに、俺は反射的に答えていた。
「だよね」
 俺の全力の否定を聞いて、森山さんは大きな瞳を細めた。それは初めて見る、森山さんの笑みだった。
(可愛い……)
 俺より年上だろう男の人にそんなことを思うのはおかしいだろう。けれど綺麗より、格好良いより、やっぱりその笑顔は可愛いがぴったりだった。
 視線を奪われてしまい、数秒無言で互いだけを瞳に映していた。その間に無意識に呼吸をしてしまい、吐息が森山さんにかかってしまった。それに気が付いた瞬間、俺はとうとう布団の上に立ち上がった。
 前後どころか左右にも逃げ場が無いだ。後は上に移動するしかなかった。突然立ち上がった俺を、森山さんはきょとんと見上げる。
「あの、ば、バイトは、バイトはどうなりますか!」
 もっと他に訊かなければいけないことは山ほどあるだろうに。俺の口からはそんな問いかけが出ていた。
 ウサギの世話が俺のバイトだった。けれど森山さんが人間に戻れるなら、俺はお役御免なのではないか。
「武国のバイトは俺のお世話。これまでと変わらない」
「でも、人間でしょう」
「そうだよ。ちゃんと大切にして欲しい」
 ちょこんと座り、微笑みかけてくる人に、俺は顔どころか全身が熱くなっていく。
 あわあわと返事も出来ずにいる俺を前に、森山さんは黙ってただ座っている。それは撫でてくれるのを待つミトのようで、そう思ってしまう時点で俺の敗北は決まっていた。







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