兎の救済 4





 ウサギカフェのバイトから帰ってきて、まずはミトをサークルから出す。そして晩飯を作りながらミトを眺め、ご飯を食べながらミトのうさんぽに付き合う。
 夜は必ず一時間以上はサークルから出して遊ばせること。手からおやつをあげて、本人が満足するまで撫でること。
 それが森山さんから出された条件だ。そうしなければストレスでミトは体調を崩してしまうらしい。
 俺にとってみれば仕事だと思えないほど、のんびりと出来る時間だ。
 ミトは撫でられるのが好きらしく、頭を優しく撫でていると気持ち良さそうに目を閉じて、たまに寄りかかろうとしてくる。柔い毛並みと愛らしい姿、何より懐いてくれている態度に、俺の顔面はだらしなく溶けてしまう。
「可愛いなぁ」
 思わず口からそんな台詞が何度も出てきてしまう。どれほど言っても足りないくらいに可愛い。
「ん?次はおやつか?」
 つんつんと鼻先で俺を突いてくると牧草やおやつの催促だ。この時間はいつもおやつをあげていたので、きっとそっちだろう。
「今日は特別ご馳走だぞ」
 スーパーの特売品でそれを見かけて、俺は思わず手に取ってしまっていた。自分のためのものなら絶対に買わなかったけれど、ミトのためならばと一段決心をしたのだ。
「俺の節約にミトを付き合わせるわけにはいかない。おまえは俺の恩人みたいなもんだしな」
 ウサギと暮らしているだけで一ヶ月に十五万円も貰えるなんて破格のバイト代だ。ミトがいるおかげで俺はそんな好待遇のバイトにありつけた。しかもミト自身は可愛くて大人しくて手間がかからない天使のような子だ。
「ちょっは甘えん坊だけどな」
 苺のヘタを取って、真っ赤に熟れたそれの先端をミトに見せてやる。すると慌てたように駆け寄ってきては、小さな口で苺に噛み付いた。
 もちゃもちゃと忙しなく口元を動かしている様は、何ともいえない愛嬌があった。
「ウサギがご飯食べてる時の口元って、なんでこんなに面白くて可愛いんだろうな」
 Yの形をした口が、咀嚼をするともこもこと細かく動いている。目は真ん丸のまま微動だにせず、表情があまり読めないせいだろうか。ものすごく一生懸命食事をしているように見える。
「苺美味しいな」
 少しだけだよ、と言ったのに苺に齧り付いて離れない。もういいかと取り上げようとすると突進してきた。
 おやつの中でも苺は好物になったらしい。
「苺が好物なんて、見た目を裏切らず可愛いな」
 よしよしと頭を撫でるとひとまず大人しくなる。だが撫でるのを止めるとまた突進をしてきた。そんなに苺が食べたいのだろうか。
「もう駄目だよ。あんまり食べるとお腹下すかも知れないから。こら、ミト」
 じゃれてくるミトをかわしながら、部屋の中で小さな鬼ごっこをしているとスマートフォンが鳴った。
「もしもし母さん?」
『武国、元気にしてる?』
 一週間に一度、実家から電話がかかってくる。一人暮らしをしている息子がどう過ごしているのか心配なのだろう。
 以前は少し面倒くさいなと思っていたけれど、今は俺も実家の様子が気になるので、素直に電話に出ていた。
「うん、元気にしてる」
『ちゃんとご飯食べてる?大学もちゃんと通ってる?』
「食べてるよ。大学については、ちょっと迷ってるけど」
 息子に仕送りが出来なくなって、母はいつもご飯をちゃんと食べているかどうか心配してくる。その心配は俺が実家にしているものと同じだ。
 同時にこんな心配が双方にある状態なのに、大学なんて通っていて良いのか。この時間は贅沢じゃないのか。俺には許されないのではないかなんて恐ろしさもあった。
 俺がこうしてミトと遊んで癒やされている間も、実家で家族が辛い目に遭っているのではないか。なのに俺一人だけが、のほほんと楽をしているのではないか。
『大学はここまで来たんだからきちんと卒業しなさい。こっちはなんとかするから。学費を、貴方に負担させる部分があるのは申し訳ないと思ってるけど』
 弱々しい母の声に、一人暮らしを始める時とは比較にならないほどの罪悪感が込み上げてくる。
(ここで大学を辞めても、母さんはきっと後悔するんだろう)
 だけど通い続けていると、自分が後悔するかも知れない。どっちに進んでも誰もが納得出来る未来にはならないのではないか。
「……考えとく。あと、今割の良いバイトしてて、そっちに仕送り出来ると思うから。十五万くらい」
『十五万!?そんなの、どうやって作ったの!』
「住み込みのバイトみたいなのをしてて」
『大学は!?』
 先ほどまでと打って変わって母の口調が厳しくなる。悪い道に足を突っ込んだと確信しているみたいだ。完全に説教をしている時のモードだ。
 無理もないと分かりながらも苦笑いが浮かぶ。
「大学はちゃんと行ってるよ。住み込みだから大学とバイトに行ってる時以外に働いてる」
『何してるの?』
 何のバイトなのか予測出来ないのだろう。不可解そうな母に、何と言ったものか迷った。
 ウサギの面倒を見ているだけなのだと言ったところで、信じて貰えなさそうだ。
 それこそ俺が最初に疑ったように「ウサギという名前の別物では?」なんて疑惑が出てくるだろう。
「ちょっと変わった生き物の世話。だけど危険はないんだ。相性があるみたいで、俺が抜擢されたってだけ」
 そう喋っているとミトがあぐらをかいた俺の膝の上に載ってくる。
 危険なんてどこにもない、と言いたいけれど。可愛さで人間を洗脳しているかも知れない。人間を自分の虜にしてしまう、という危うさならばミトは持ち合わせている。
『そんなことで、十五万?』
「相性が良かったんだよ。他に頼むのが難しいような状態だったから、ちょっと高い金額をくれるみたいで。でも今だけだよ」
 特殊な事情が重なった幸運だと説明する。
 けれど飼っている生き物が何であるのか。誰に何と言われ、具体的な世話は何なのか。なんてことは教えられない。
 言葉を濁そうとする息子に、母は気付いているはずだ。
「大丈夫だから」
 しきりに大丈夫なのか、危なくないのか、と問いかける母にそれだけを返す。だが我ながら大丈夫なところは何もないな、と自覚はしていた。



 ウサギカフェでのバイトは主に力仕事だった。荷物、食材を運ぶのは勿論。掃除などでも力や背の高さが必要な場面では率先して動いた。
 職場に入ったばかりの新人なんて右も左も分からない。だから簡単な作業は自ら望んで働かなければいけない。そう思い、大きな身体が邪魔にならないように、身を縮めながらも手持ち無沙汰にならないように意識していた。
 居酒屋でバイトをしていた経験も役に立った。綿菓子のような雰囲気に圧倒されながらもたまにホールにも出て、女性客に物珍しげに眺められた。
(せめて時給に見合った仕事をしないと。クビを切られたらまずい)
 時給が良いだけに役立たずと分かれば、すぐに追い出されるだろう。そうなると次を決めるのが難しい。
 ミトの世話を疎かにせず、今と同じだけの給料を得るのは至難の業だ。
「熊谷君、よく働くね」
 ランチが一段落して、丁度お客さんが途切れたタイミングでキッチンから出てきた店長に声をかけられた。
 よく働く、という一言に胸を撫で下ろす。少なくともでくの坊とは思われていないらしい。
「しかもシフトは極力全部入れて欲しいって。友達と遊びに行ったりしないの?」
「お金が必要なので」
 大学に行くかバイトをする。それが今の俺の生活だった。
 友達から遊びに行く誘いを受けていたけれど、ずっと断り続けているので最近は誘われることもなくなってきた。
 親の金で大学に通い、仕送りで十分に生活出来る上に休みになればあちこち買い物に出掛けられる。
 そんな友達たちは最初から俺とは遠い世界の人々だった。それがより浮き彫りになっただけだ。
「君がお金を稼ぎたがる気持ちは、どうも深刻そうだけど」
 このバイトを決めた理由も、時給だけがメインだ。自分には似合わない職場だと理解しながら、今も時々胃が縮むような思いをしつつも、踏ん張っている。
 そんな心境を店長はなんとなく察してくれていたのかも知れない。
 誤魔化そうかと思ったけれど、告白した方がシフトを融通してきっちり詰めてくれるかも知れない。
「父が借金を遺して亡くなったんです。実家はパートだった母と、小学生の妹が二人いて。本当なら俺は大学に通ってる場合じゃないんです」
 俺の声は静かな店内ではよく響いたのかも知れない。
 店長だけでなく、テーブルを拭いていた他のスタッフたちまで動きを止めて耳を澄ましているのが感じられた。
「俺は大学を辞めて就職するって言ったんですが、母が卒業した方が絶対にいいから辞めるなって聞いてくれません」
 次第に視線が足元へと落ちていく。
 実家が苦しい状態なのに、しっかり支えてやることも出来ずにいる自分は。まだ母にとっては保護されるべき存在なのだろう。
 店を切り盛りしている店長はまだ三十歳になったばかりだという。俺とは十歳も違わない人から見て、俺は幼稚で無力な人間に見えるんじゃないだろうか。
 図体がデカいだけの、情けない男だ。
「私も大学は卒業した方がいいと思う。あと一年ちょっとなんだから。大卒と高卒とではやはり就職時に異なるよ。特別これになりたい、あれになりたいという夢がないなら尚更」
「でも借金があるんです。こうしている今も、実家は食うに困るくらい苦しいはずなんです。だから俺、ここでご飯を食わせて貰っている間も、なんだか辛くて」
 まかないで出される料理は美味しく。中には新作の試食をお願いされることもある。
 ランチプレートに載せられた、可愛らしいウサギの形をした五穀米のご飯を見ると妹たちを思い出した。
 ウサギが大好きな妹たちは、新しいウサギを飼うことはおろか。こんな可愛いランチを食べることも出来ずにいるのではないか。ちゃんとお腹いっぱい食べられているだろうか。
 たとえ妹たちは食べられていたとしても母はどうだろう。自分の分も妹に与えてはいないだろうか。
 そんなことを考えてはまかないのご飯が喉を通らなくなってしまう時があった。
 自分だけ美味しいご飯をのうのうと食べていて許されるのか。家族を裏切っているような、そんな後ろめたさが消せない。
「……熊谷君。うちにある洋菓子や和菓子を貰ってくれない?」
「え?なんでですか?」
「新作デザートや、テイクアウト商品を考えている時に色んなところからお菓子を取り寄せているの。だけど賞味期限があるでしょう。休憩室においてみんなにも食べて貰ってるけど限界があるし。お母さんや妹さんは甘いものは好き?」
 店長は俺の返事も待たずに、バタバタとバックヤードへ走って行く。それを皮切りに、別のスタッフが「私も!」と声をあげた。
「親戚がそうめん屋なの!毎年箱でそうめんが送られてくるんだけど、一人暮らしの女が消費出来るわけがなくて、ずーっと溜まってるの!色んな人に配ってるんだけど、今年も三キロ余ってて!お願い貰ってくれないかな!もうそうめんなんて食べ飽きたの!」
「いや、でも」
「うちのカルピスは!?お歳暮お中元で親が貰うんだけど、うちカルピス好きじゃなくて持て余してるんだ!正直捨てる時もあって、勿体ないから!」
 次々とスタッフが食べ物を勧めてくる。
 俺が、実家が食うに困るという話をしたせいだろう。
 同情と哀れみでそう言っているのだろうが、みんな「お願い!」と何故か俺にお願いをしているような態度を取る。本当なら俺が頭を下げて恵んで貰うような立場なのに。
(優しいな……)
 周りの人に恵まれている。
 そう噛み締めながら、泣きそうになった。



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