兎の救済 3





 引っ越しは友人と大家さん、そしてテンと呼ばれる男性が手伝ってくれた。テンは俺たちと年が変わらない茶髪の男だった。顔立ちは整っていて、黙っていれば近寄りがたいくらいだが、陽気によく喋るので人懐っこい印象だった。
 俺の部屋にあった荷物は男四人にかかればあっという間に片付いた。そもそも荷物自体がそんなに多くない上に、壊れかけの家電は捨てろと大家さんに説得されて粗大ゴミに出す羽目になった。
 次に引っ越しをする際はどうしようかと思ったのだか、大家さんのところに型落ちの電化製品があるから、それを譲ってくれるそうだ。
「必要になったらな」
 その時が来るかどうか分からない、という言い方だった。だがいつまでも森山さんの家にお世話になるわけにもいかないだろう。
 部屋を空っぽにしながら、俺は頭の片隅で次の部屋探しに対する憂鬱を飲み込んでいた。
 だがまずは今日明日の暮らしだ。
 森山さんにお願いされたウサギ、ミトは俺にすぐ馴染んでくれた。朝起きてサークルから出すとくるくると俺の足元を回る。撫でてくれという催促に応じながら、大学に行く支度をするのが習慣になった。
 これまでの俺は大学にいない間の時間はバイトを詰め込んでいた。二箇所、早朝と夜。休日は単発のバイトを朝から入れていたものだが。ミトの世話に手を抜いてはいけない、コミュニケーションはこまめに!と注意されているので早朝のバイトを強制的に減らされ、単発のバイトはあまり入れないようにした。
 もう一方のバイトは飲食店で、夕方から働いていたのだが。運悪くそこの店が閉店することになった。
「どうしよう」
 マスターが倒れてしまい、調理自体が難しくなってしまったのだから閉店自体は致し方がない。奥さんも料理は出来るけれど、あくまでも旦那さんであるマスターの補佐、店を継続していくのは困難だという判断だ。
 誰のせいでもない。諦めて現実を受け入れるしかない。
 けれどバイトがなくなってしまうのは苦しい。
(ミトの世話だけで十五万は貰える。それで十分ではあるけど、でももっと仕送りをしないと)
 以前ならばバイトを幾つも掛け持ちしてようやく十万をちょっと超えるくらいだった。それに比べれば恵まれている状況だが。実家の財政を思えば、のほほんとしている時間はない。
 まだ辛うじて開けてはいるけれど、注文出来るメニューが限られている店の中で途方に暮れていると、お客さんの一人が俺を呼んだ。
「ねえ、店が閉まるんだって?」
 最近来るようになった男性だ。二十代半ばくらいだろうか、休日限定でやっているランチを食べに来ているらしい。
 生憎だが今日のランチは一種類、中身も少し寂しいものなので男性にとっては物足りないかも知れない。
「はい、来月を待たずに閉店するそうなんです」
「じゃあ、君はバイトを辞めなきゃいけないわけか」
「はい……」
 残酷な現実を突き付けられて、俺は思わず肩を落とす。すると男性は「丁度いい」と妙なことを口にした。
「君、ウサギを飼ってるって言ってたよね?」
「え、はい」
 以前この男性とペットの話題になり、彼はフェレットというエキゾチックアニマルを飼っていると言っていた。同じ小型の動物を飼っているということで俺もウサギを飼っているという話で盛り上がった。
 彼はどうやらそれを覚えていたらしい。
「新しいバイトを紹介してあげようか。ウサギを飼っているような男性を探している人がいるんだよね」
 そんなピンポイントな募集が有り得るのか。
 俺はそんな疑問を抱いたのだが「まあ、行くだけ行ってみたら?」と軽い口調で言われて曖昧に頷いた。
 バイトがなくなってしまうのは事実であり、早く次を決めなければ落ち着かない。だからといってウサギを飼っている男性限定のバイトとは一体何なのか。
 好奇心を刺激され、結局俺は翌日、男性が紹介してくれたバイト先に足を運んだ。
「……ハードルが高い」
 男性から渡されたカフェの名前と住所を元に、そこに行くと可愛らしい店の外観とそこに入っていく、同じく可愛らしい女性たちの流れに足が止まった。
(ここでバイトをする?)
 場違いにもほどがあるだろう。この店に入ることすら許されないようなファンシーな雰囲気が、開閉するドアベルからも感じられる。カランと草原を賭ける山羊たちを呼び戻すような、軽やかで爽やかな音に後ろへ下がりそうになる。
 だがそんな俺を引き留めたのが、中から出てきた小柄な女性店員さんだった。不審者が店の前で立ち尽くしているのだから、警戒したのだろう。
「あのぉ」
「すみません!不審者じゃありません!俺、バイトを募集しているって、知り合いの人から、紹介されて……」
 こんな可愛らしい店のバイトの面接に来るような人間じゃない。それは俺にも分かっている。
 あの男性に騙されたのではないだろうか、という不安が急激に膨らんでは語尾が小さくなった。
 だが店員さんは「やっぱり!」と両手を合わせて笑顔を見せた。
「バイト希望の男の子が来るって聞いてます!どうぞ中へ」
 どうやらあの男性が話を通してくれたらしい。
 不審者に疑われなかったことはほっとしたけれど、店員さんに促された入った店内は女性客で埋まっていた。小さな子どももいるようで、弾けるような話し声がぽんぽんとカラフルなゴムボールように飛び交っている。
 内装は外観より少し落ち着いており、濃いめの木目で揃えられている。店内の様々なところに緑が置かれており、ナチュラルをイメージしているのかも知れない。
 店員さんは奥へと入っていく。後ろに付いていくとバックヤードに通される。
 そこは事務所のようで、パソコンが置かれたテーブル、周囲には書類が詰め込まれている棚、そして本、何かしらの機材などが置かれていた。
 一人の女性がパソコンに向かって作業をしていたけれど、店員さんが声をかけると椅子に座ったままくるりと振り返る。
 ショートカットの凜とした女性は三十歳くらいだろうか。目尻がつんと上がっており、気が強そうな印象だ。
「バイト志望だっていう例の男の子です」
 そう紹介されて、頭を下げながら自己紹介をする。おまえみたいなむさ苦しい男が?と睨まれることを覚悟していたのだが「お待ちしてました」と意外と暖かな声をかけられる。
 女性は雇われ店長で、オーナーから店を任されているらしい。店はウサギをイメージしたカフェであり、店内ではウサギのモチーフの雑貨や、ウサギに関する本なども扱っているそうだ。
 ウサギカフェと違って生体はいない。生きているウサギを不特定多数の人間に触れさせて、接客のような真似をさせるのはオーナーと店長の感性に合わないらしい。
「ウサギにストレスを与えたくない」
 そう言い切った店長もまたウサギを飼っているらしい。
 力強いその一言で、ウサギに対する愛情の深さを感じた。
「こんなウサギに満ちた可愛い空間に、俺みたいな男がいたら場違いだと思いますが」
 俺は身長が百八十五センチ、体格もがっしりしていて、顔立ちだってむさ苦しい。テンみたいな格好良いすらりとした男ならまだしも、俺のように柔道家みたいなごつくてデカい男がいたら、店の雰囲気が壊れないだろうか。
 先ほどちらりと見たが、店内には女性しかいなかった。つまり店員も女性ばかりなのだろう。
「だからよ」
「だから?」
「男の人が一人いるだけでも、女性としては心強い。ましてうちは若い女の子ばかりだから」
「逆に、俺のことが怖いって思わないでしょうか?」
「それは君次第ね」
 俺の素行による、と言われてしまえばぐうの音も出ない。確かにその通りだ。
「うちに来るお客さんは大体が女性なんだけど、たまにうちのスタッフ目当ての男性もいるのよ。それは別にいいんだけど、中にはスタッフにセクハラをしたり、暴言を吐いたりっていう、厄介な客もいてね。私たちもそれを止めるんだけど、そういう輩は相手が女だと舐めてかかってくるから」
「酷い話ですね」
 店長は頭が痛いとばかりに目頭を押さえた。
 これまでもそんな嫌な客に迷惑をかけられてきたのかも知れない。
「俺が働いていた居酒屋でも迷惑な客はいましたけど、確かに女性のスタッフに絡む馬鹿な男がいました。俺たちが引き剥がしてましたけど」
「ここにはそういう男性スタッフが今いないの。これまでも男性スタッフを雇ったことはあるんだけど、女性ばかりの職場に馴染めなかったり。スタッフに言い寄ったり。それこそセクハラやストーカーまがいの行為をしたり。図に乗って店長の私より威張って、店を仕切り始めたやつもいたわ」
「大変でしたね……」
 若い女性ばかりの職場に、男性が入るとそういう勘違いを抱いてしまうものなのだろうか。
 俺が働いてきた職場はどちらかというと男性が多いところばっかりだったので、店長の苦悩は身近に体験したことがない。
「君のことは、今の働いている居酒屋さんで何度か見てた。接客態度は丁寧だし、優しそうだし、お客さんには分け隔てなく向き合ってるように見えた」
「お客さんに性別や年齢は関係ないので」
「そう。そういうところが私はいいなって思ったのよ」
 店長は俺を高く評価してくれたようだが、俺にとってそんなことは当たり前だと思うようなものだった。
 俺が働いていた居酒屋だって、みんな俺みたいな姿勢で働いていたと思う。だから特別善良な人間でも、正しい接客でもないだろう。
(だけど今の店長さんからしてみれば、それすら評価に入るんだろうか)
 それほどここで働いていた男性スタッフはろくでなしばかりだったのか。
「うちで働いてみない?」
 早くも次のバイトが決まるのは有り難い。
 けれどあの店内で自分が闊歩する羽目になるのかと思うと、抵抗感がある。明らかに浮いている。
「俺は、この店の雰囲気には合わないと思うんですが」
「そんなことはない。クマさんが一人いると、ウサギの可愛さも際立つわ」
 果たしてそんなことはあるのだろうか。半信半疑の俺に、店長はにっこりと笑いかけてきた。
「時給は千五百円です」
「え、えっ、なんでですか!?高すぎる!みんなそうなんですか!?」
 この辺りの時給は千円前後が相場だろうに、そこから五百円も高いだなんて。今働いている居酒屋のバイトよりずっと良い。
(そんなに儲かっているのか)
 そういえば店内は賑わっていた。ほぼ満席であり、下手すると今は外で待っているお客さんもいるかも知れない。
 これほど繁盛しているのならば、時給が高いのも頷けるのか。
 本当にそんな理由なのか?
 疑問がゆらゆらと脳内で揺れている。
「君の都合の良い日から、来て欲しいんだけど」
 出来るだけ早く、と急かされて俺は「はい」と思わず返事をしていた。



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