兎の救済 2





 森山さんは怖いくらいに真剣だった。
 まるで自分の命を握られているかのよう緊迫感を漂わせている彼に、俺は深呼吸をした。生半可な気持ちで向き合っていて良い話ではないだろう。
「とても大切なウサギなんですね」
「そう」
「俺に、出来るでしょうか……」
 それほど大切なウサギを預かって、森山さんが納得出来るようなお世話が務まるだろうか。
「やって貰う。まずはうちで暮らして欲しい。家賃、光熱費などの生活にかかる費用は全てこちらで払う。その上で一ヶ月十五万を支払う」
「は?え、ちょっと待ってください!十五万!?」
 耳を疑うような金額に、俺は思わず大声を上げてしまった。周囲からぎょっとした目で見られるけれど、それを気にしている余裕なんてない。
(十五万だなんて!)
 森山さんの家に行ってウサギの世話をするだけでそれだけの金額が貰えるのか。
「ほ、本当にウサギの世話だけなんですか?他にも何かとんでもないことをやらなきゃいけないとか。部屋のリフォームとか、工事とか、大がかりな掃除とか」
「ウサギの世話だけだよ。部屋の掃除などは君が暮らしやすいように、そしてウサギの危険にならないように清潔に保って欲しい。掃除は苦手、難しいというならホームクリーニングを頼んでもいいよ。その費用も僕が支払うから気にしなくていい」
 森山さんは何でもないように喋っているけれど。俺にしてみれば聞けば聞くほど信じられないような条件だ。
(掃除すら業者に頼んでいい?しかもその費用すら払ってくれる?)
 あまりにもバイトの内容が特殊であり、簡単過ぎる。まさにウサギの世話に特化している。
「本当に、ただのウサギですか?」
 ウサギという名前のとんでもない別の生き物ではないのか。ウサギという名前の大蛇だったり、毒を持っている昆虫たちやものすごく取り扱いが危険な何か。
(むしろウサギという名前の違法な薬物や、犯罪の片棒を担がなきゃいけないものを守るとか。そういうことじゃないのか)
 ウサギというのは隠語では、と訝しがる俺に、森山さんは「ウサギだよ」と素っ気なく言い切った。
「ただ君がウサギを苛めたり、冷たく当たったり、良くないことをした場合は、容赦しない」
 森山さんの声のトーンはそのままなのに、目つきが少しだけ鋭くなった。それだけで威圧感が増していく。綺麗な顔立ちがすごむと、大変迫力がある。
(それだけ大切なウサギなのか)
 しかしそんなウサギを俺に預けて、心配じゃないんだろうか。
「それで、出来れば早めにうちに引っ越してきて欲しい」
「まだ承諾してないんですか!」
「しないのか?」
「………します!」
 非常に不可解なバイトだ。
 ウサギの世話だけでそんなに好待遇なわけがない。きっと何か裏がある。
 そんな予感はするけれど、十五万円を目の前にぶら下げられた俺は、心の揺れを無視して反射的に頭を下げていた。



 森山さんは作曲、編曲家らしい。音楽のセンスがあるんですね、というと「耳が良いだけ」と返ってきた。その耳を買われて、とあるアーティストから作曲と編曲をスタジオに籠もってほぼ缶詰状態でやってくれとお願いされたらしい。
 そんなに根を詰めて作らなければいけないなんてアーティストは大変だ。
 俺には関係のない世界なのでぼんやりと聞いてることしか出来ない。小学校の頃から音楽の成績は平均点ぎりぎりで、歌い出すと音痴なのだから、森山さんの世界に足を踏み入れることも許されないだろう。
 缶詰状態の間、ウサギをペットシッターではなく誰かに預けると決めたのは、ペットシッターだと毎日同じ人間が来てくれるとは思えないからだと語った。
 彼らにも休日は必要だろう。知らない人間ばかりが出入りするとウサギのストレスになる。
 何より日中ずっとひとりぼっちでは寂しくて、それもまたストレスになるだろう。誰かと一緒に暮らさせた方が安心する。何よりこまめに健康チェックとスキンシップを取って欲しいそうだ。
 まさに飼い主の代わりをすること。それが仕事内容だった。
 朝晩は遊んであげること、特に夜は一時間ほど部屋の中を散歩させてあげること。ケージに閉じ込めるのは禁止、サークルで囲うだけにする。囓られて困るようなものはカバーを付けているが、自分で持ち込んだもの、コード類は自力で守ること。ウサギが悪戯をしても、叩く、殴るなどの暴力は許さない。きちんと言い聞かせること。
 一番大切なのは、甘えたがりなのでちゃんと撫でて声をかけ、コミュニケーションをはかること。でもだっこは苦手なのであまりしないこと。
 森山さんはウサギの世話をする上で幾つも注意を述べていた。それまで口数は少なかったのに。ウサギのことになると急に多弁だ。
(飼い主はみんなそうなんだよな)
 可愛いペットのことになると誰もかれもよく喋る。
 非常に怪しいバイトだと思ったけれど、単純にとても過保護な飼い主というだけかも知れない。
 勢いで受けたバイトだが、驚いたことにバイトを紹介してくれた友人が住んでいるマンションに、森山さんも住んでいた。
 もし困ったことがあれば友人の部屋を訪ねれば良い。一分以内に駆け込めると言われて、俺は胸を撫で下ろした。
 そしてまずはウサギとご対面する日、森山さんは仕事で同席出来ず。代わりに友人と、そしてマンションの大家さんが立ち会ってくれた。
 大家さんがどうしてと、と思ったけれど。考えてみれば森山さんの代わりにしばらくここで暮らすのだ、店子がどんなやつか確認しに来たのだろう。
 森山さんから預かったと言われ、大家さんから部屋の鍵を受け取る。中に入ると室内はシンプルな内装だった。当たり前かも知れないが、電化製品も家具も全部綺麗に揃っている。アイボリーを基調として揃えられているようだ。
 狭い部屋にごちゃりと物が雑然と置かれている俺の部屋とは違い、非常に綺麗で爽やかな印象だ。
 ただウサギがいるリビングは、ウサギのケージ、サークル、玩具、ベッドなど、ウサギのためのものがたくさん配置されており。そこだけウサギ王国のような空間になっている。そして部屋全体が草原のような匂いがする。
(まさにウサギがいる部屋)
 ウサギは草食獣で、本体に匂いはさしてない。けれど牧草を主食としており、その牧草は常に食べられるようにスタンドに立てて置いているため、牧草の匂いが飼い主の部屋の匂いになっていくのだ。
 牧草の匂いに、一気に実家でウサギと暮らしていた日々が蘇る。けれど懐かしさと切なさに襲われている場合ではない。
 肝心のウサギは切り株の側面に穴を空けたようなぬいぐるみベッドの中にいた。
 知らない人たちが来て怖くなったのだろう。ベッドに逃げ込んでしまって、遠くから覗き込むと大きな瞳だけが見える。
「こんにちは」
 遠くから声をかける。出ておいで、怖くないよ。と優しく語りかけてじっと待っていると、ウサギはひょこと頭を出した。
「かっ……」
(可愛い!可愛い!)
 オレンジ色の柔らかい毛色にくるりと大きな瞳。身体は小柄で短めの立ち耳が特徴の、間違いなく俺の知っているネザーランドドワーフだ。
「まさにネザーだ……!俺が前に飼っていた子もネザーランドドワーフなんです!懐かしい、可愛い……!」
 興奮して一人床に突っ伏した。今すぐ撫でたい、だっこしたい。けれど初対面のウサギにそれは暴挙だ。だから俺はじっとウサギが自ら動くのを待っていた。
「ウサギは寂しがり屋で臆病な生き物らしいな。いっそ多頭飼いした方が安心出来るんじゃないか?」
「とんでもない。ウサギは寂しがり屋ですが、プライドが高くて縄張り意識もとても強い。まして雄は多頭飼いには向いていません。相性が悪ければ、流血沙汰の喧嘩になります。大怪我をして、双方命の危険に晒されます」
「そんなに激しいのか……」
 大家さんは驚いている。ウサギに興味のない人はあの可愛らしい姿から、温和でふわふわとした性格の優しい生き物だと思いがちだが。中身は喧嘩上等で、孤高を愛するタイプの生き物だ。気性も決して穏やかではない。
「特にネザーランドドワーフはウサギの中でもプライドが高くて、自分が一番じゃないと気が済まないタイプです。俺は個人的にネザーランドの雄は一匹で飼育した方が平和だと思います」
 森山さんもそんなネザーランドドワーフの性格を知っていたのか、一匹だけで飼っているようだ。そんな環境で暮らしている子が、いきなり他のウサギを受け入れるとは到底思えない。
(この子の性格にもよるだろうけど。お預かりしている以上、他のウサギを加えるのは出来ない)
 俺はあくまでもお世話係であって、飼い主ではないのだから。
「それで、いつこっちに引っ越してくるんだ?」
「三ヶ月だけの間だから、どうしようかとまだ迷ってる」
 この部屋に住み込むとなると、今暮らしているアパートの部屋の家賃を払い続けるのが勿体ない。
 けれど三ヶ月後には出て行かなければいけないとなると、また新しい部屋に引っ越さなければいけない。部屋を見付けるのも大変だし、短期間に二度も引っ越しをする費用が無い。
「森山さんが言うには、三ヶ月で終わるかどうかも分からないって言ってたぞ。それに森山さんは他にも部屋があるから。事情を話したらこの部屋にしばらく滞在させてくれるだろうし」
 友人は俺がこちらに引っ越してくることを以前からすすめていた。
 大学の友達が同じマンションにいるなんて、純粋に楽しいと喜んでくれているらしい。
「でも森山さんにご迷惑だろう」
「熊谷が今住んでいるアパートの家賃だって、高いって言ってなかったか?どっちにしろ引っ越すことになるなら、その費用を貯めるためにもこっちに来たらどうだ?その間は家賃も光熱費もかからないんだし」
「そうだけど……でも、ここに来る引っ越し代そのものがさ」
 目先のお金もないような状態だ。引っ越し業者を頼む余裕なんてどこにもない。だからといって自力で荷物を全部運び出すのは至難の業だ。
「車もないし、自転車で通えるような距離じゃない。そもそも俺はまだ免許がなくて」
「車なら出してやる」
「え?」
 大家さんが腕を組みながら、仏様のような台詞を口にしてくれる。
 表情自体は淡々としていて、ぱっと見少し怖そうな容貌だが、マンションの大家をしているだけあって面倒見の良い優しい人柄なのかも知れない。
「荷物運びは俺も手伝うから」
「ありがとう」
「テンも連れてけ。あいつもどうせ暇だろ」
 そのテンさんというのはこのマンションの住人なのだろうか。「力仕事くらい出来るだろ」と言っているので、おそらく若い男性だろう。
「そこまでしてもらうわけには」
「いいんだよ。うちのマンションに住むことになるだろうからな」
(でも三ヶ月だけなのに)
 短い期間しかいない住人なのに、こんなに手厚く世話をしてくれるなんて。友人にも大家さんにも頭が下がる一方だった。



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