兎の救済 1





 父が亡くなった。
 自損事故で深夜に電柱にぶつかった。交通量は少なく、人もいなかったため誰も巻き込まず、一人で亡くなったのが不幸中の幸いだろう。
 警察は事故として処理したけれど、俺は父は自死したのだろうと思っている。
 何故なら我が家には高額な借金があったからだ。
 父は会社を興した友人の連帯保証人になっていた。友人の会社は最初はそれなりに順調に成長したらしい。けれどいつしか坂道を転がり落ちるように傾き始めてあっという間に火の車になったらしい。
 マルチ商法のようなものにも欲を出し、その手が後ろに回ろうかというタイミングで蒸発した。
 残された借金は全て父に覆い被さった。
 どこにでもある有り触れた転落人生だ。テレビでは飽きるほど繰り返し流されただろう、陳腐なドラマがいざ我が家に降りかかった。
 それまで平和だった家庭は、一気に真っ暗になった。父は借金を返済するためにダブルワークを始めて夜遅くまで家に帰ってこなくなった。
 完全な休日などはなく、父はずっと働き詰めだったたらしい。俺が実家に帰った際、たまに見かける父は、どんどん痩せていき顔色が悪くなっていた。病気ではないかと家族は心配したけれど「大丈夫」とだけ言っては、仕方がなさそうに薄い笑みを浮かべていた。
 それが俺が覚えている最後の父の姿だ。
 事故は睡眠不足と過労のせいだろうと、警察も母もそう判断した。それは事実でもあるだろう。けれど俺は、父が逃げたのではないかと思った。
 だが思ったところで口には出さない。出したところで、母を追い詰めるだけだった。
 慎ましいというより、世間から隠れるようにして行われた小さな葬式には、借金取りが参列していた。父が亡くなり保険金が下りる、その金を目当てにしていたのだろう。だが保険金だけでは借金は払いきれなかった。
 金が要る。
 俺は大学を辞めて、高卒で就職すると言ったのだが母に止められた。
 大学を卒業するまで後一年半、大卒と高卒では就職の幅も、給料も違う。今は我慢して、大卒として就職した方が後々のことも考えて良いだろうと。そう語る母の言い分は分かる。
 けれど我が家に、後一年半大学に通えるだけの金があるのか。俺には到底無理だと見えていた。
 うちには俺以外にまだ小学生の妹が二人いる。母はパートで借金を返済するどころか母子が暮らすだけで精一杯の生活だ。まして俺は実家を出て一人暮らしをさせて貰っている。
 父の借金が分かってからは仕送りを止めて貰い、なんとか自力で生活出来るようにバイトを極限まで詰めた。大学も奨学金で通っているので、ぎりぎりやっていけたようなものだが。父が亡くなった今、自分の暮らしだけでなく、実家の暮らしも支えてやらなければいけないだろう。
(明日のご飯も食べられないかも知れない暮らしで、大学なんて通っていられない)
 まだ小さな妹たちが、食うに困るかも知れないのだ。勉強をしている場合ではないだろう。
 バイトと同時進行で就活をしなければいけない。そのために大学はすぐに辞めるべきだろう。
 けれどここまで積み上げてきた日々を思うと、決断が鈍った。今すぐ辞めるんだという気持ちと、まだ辞めたくない、なんとか踏ん張りたいという思いに苛まれる。
 その苦悩を友人に吐露すると、翌々日友人が「君にぴったりのバイトがある」と言っては俺を大学近くのカフェに連れて行った。
 バイトの内容は友人ではなく、そのカフェで待ち合わせをしている人から説明されるらしい。
 割の良いバイト、なんて怪しいものに決まっている。普段の俺なら警戒して、もしかすると話を聞く前から断っていたかも知れない。けれど今の俺は少しでもお金が欲しかった。そしてバイトを紹介すると言った友人は俺が大学に入った時からの付き合いで、真面目で信用がおける人物だった。
 マルチや宗教の勧誘ではない。そう信じられるからこそ、バイトの内容が気になった。
 連れて行かれたカフェはカラフルな色合いの内装が施された明るい雰囲気の店だった。きゃらきゃらと笑う高い笑い声があちこちが聞こえてくる。
 店内は女性が多く、男子大学生二人組はやや浮いているようだった。それでも友人は気にせず、店の奥へと突き進む。
 待ち合わせている相手は女性だろうと思い込んでいたのだが、友人が辿り着いたテーブルにいたのは男性だった。
(綺麗な人だ)
 男性相手にそんな印象を抱くのは不思議だったのだが、そうとしか思えなかった。ちゃんと男だと分かるのに、容貌はとても柔らかい。年頃はおそらく俺たちよりも上だろう。二十歳半ばくらいか。
 身体は細身で髪は甘い茶色でさらさらとしている。照明の光に綺麗に艶が出ていた。大きな瞳を縁取る睫毛は長く、伏せていると目元に影が出来そうだ。
 そこにいるだけで絵になる。
 まるでモデルのような彼を、周囲にいる女性は放っておけなかったのだろう。テーブルの横に立って何やら話しかけている女性が二人いるけれど、彼は一切そちらを見ない。返事もしていないようで、手元のスマートフォンを眺めている。
 表情は淡々としており、女性たちに何ら興味がないらしい。
「すみません、お待たせしました」
 友人が声をかけて、初めてその人は顔を上げた。大きな瞳が俺たちを見る。視線が合っただけでドキリとした。同性なのに、心臓を一瞬で掴もうとしてくる。
 約束の時間までまだ十分あったけれど、待たせたことに変わりはないと謝る俺たちに、その人は軽く頷いた。
「こちらがお話ししていた大学の友人、熊谷です」
「熊谷武国です」
「……森山です」
 森山さんは俺を観察するように見詰めては名前を名乗った。これから何かのバイトを紹介するのだ、どんな人物なのか見た目からも探ろうとしたのだろう。
「あの、バイトを紹介してくださると聞いたのですか」
 正面の席に座り、コーヒーを注文してすぐに俺はそう切り出した。ここに来るまでずっと、その内容が気になって仕方がなかったのだ。
「ウサギの面倒を見て欲しい」
「……ウサギ?」
 様々な想像をしてきたけれど、それは予想外過ぎる。思わず俺が想像するあの可愛らしい小動物で正解なのか、首を傾げてしまった。
「熊谷は以前ウサギを飼っていたことがあるだろう?」
 関西出身の友人は、敬語が取れると標準語を喋っていても少しだけ関西のイントネーションを感じさせた。
 それが中身も外見も真面目な友人の愛嬌になっているのだが。今日ばかりはその愛嬌にも和めない。
「ああ、うん」
「何年?」
 食い気味に森山さんが尋ねてくる。その眼差しは真剣で、思わず怯んでしまった。
「じゅ、十年です」
「……長いな」
「はい。長生きをしてくれました。俺が子どもの頃から一緒に育った、可愛い兄弟です」
 ウサギは大体七、八年が寿命といわれている。十年はそこそこに長いだろう。
 俺が小学生の時に我が家に来たウサギは、俺が大学に入学する直前に亡くなった。
 丁度大学の合格発表が分かったすぐ後だったので、俺がちゃんと大学生になれるのを見た後に、安心して亡くなったみたいだった。
「ウサギを飼ってらっしゃるんですか?」
 森山さんがまた頷く。そして紅茶を一口飲んで、息を吸い込んだ。
 気合いを入れたのだろうか。喋るのはあまり得意ではないのかも知れない。
「家を三ヶ月ほど空けるんだ。その間、うちに住み込んで、ウサギの世話をして欲しい」
「えっ、俺が預かるのではなく?」
 飼い主が不在の間ペットシッターとしてウサギを預かり世話をして欲しいならば分かる。しかしわざわざ住み込んでウサギの世話をしろというのは、大袈裟ではないだろうか。
 だが俺の発言に森山さんは軽く睨み付けてくる。
「ウサギは環境の変化に弱い」
「そうですね。住む環境を変える時が一番怖いですね……」
「そんなに?」
 友人が隣で、やはり大袈裟では、という顔をしている。
「ウサギが一番亡くなりやすいタイミングは、ペットショップから連れて帰ってきて家に馴染むまでだって言われてる。急激に変わった環境についていけなくて、ストレスで亡くなってしまうんだ。それくらいウサギにとって、家が変わることは怖いんだよ」
 ウサギは臆病、繊細な生き物だと言われているけれどそれは本当で。環境の変化に関してはものすごく敏感だ。
(だから俺に家に来いって言うのか)
 ウサギを人の家に預けるのは怖い。逆に人を家に入れれば良い。
 しかし簡単に言うけれど、実のところものすごくギャンブルではないだろうか。
 何も知らない赤の他人を家に入れるなんて、金銭を自宅に置かないのは当然としても、家具などは持ち出さないだろう。傷などを付けられたらどうするのか。
 それどころ家に何を持ち込まれるかも分からないのに。ウサギのために、わざわざそんな危険を選ぶなんて。
(相当にウサギが大切なんだな)
「でも、どうして俺なんですか?」
 見ず知らずの大学生に頼むより、もっと適任がいるのではないか。それこそ本職のペットシッターや、友人知人などにお願いした方が安全そうだが。
「君は誠実な人だと聞いた」
 森山さんは隣の友人を見た。友人はそれに力強く頷く。
 信頼されている。その実感に緊張して肩に力が入った。
「ウサギの嫌がることはせず、大切に扱って。愛して欲しい」
 森山さんは俺をじっと見詰めて、重大な告白のようにそう告げた。
 



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