付き合い方 6
喋りたく、ないんだろうな。 この四日の間に、どうして人間に戻らないんだって何度も聞いた。 でもテンは人間に戻らなかった。 だからその理由を教えてくれる気は、たぶんないんだろう。 「…僕は、失格なんだろうな…」 呟きは静かな部屋の中で妙に大きく響いた。 「テンのこと、何も知らないし。どうして人間に戻らないのか全然分からないんだ。何考えてるとか、何がしたいとか、分からないんだ」 テンは僕に掴まれたままで、後ろを振り返った。 葡萄色のちっちゃくて丸い目が見つめてくる。 「いつも叱ってばっかで。人間の時にはろくに話も聞かないで。抱き付かれても、突っぱねてるし。テンがしたいこと…とか受け入れてないし」 テンに抱かれることに抵抗は消えない。 出来ればもう止めて欲しい。そう思ってる。 恥ずかしいのも、痛いのも、何がなんだかよく分からない。というのもあるけど。 それもやっぱり、どうしてそんなことするのかはっきりとは分かっていないからだろう。 好きだって言う言葉の意味とか深さが僕はよく分からない。 どんな気持ちで言ってくれているのか、テンは伝えずにそのまま勢いで僕を押し倒してくる。冗談じゃないかって初めは思っていたくらいだ。 「僕が、女の人だったらもっと素直に受け入れたのにな」 テンはテンションが高いのがちょっと難だけど、でも格好いいし、喋ると楽しいし、喜怒哀楽が激しいのは見て面白い。 ハイテンションの時は自分のことで手一杯になってるけど、そういうところが可愛いって思う人もいるだろう。 女の人とか特にそう思う人が多そうだ、母性本能とかくすぐる子じゃないかな。 だから、本当は僕と暮らすには勿体ないんじゃないんだろうか。 女の人じゃなくても、もっとテンのこと大切にしてくれる人がいるんじゃないんだろうか。 「……テンは、僕と一緒で楽しかった?」 じゃれついてくる姿は、人間でもフェレットでも嬉しそうだった。でもそれが一番幸せかどうかなんて僕には分からない。 テンにとって幸せなことが、僕には分からない。 僕はテンといて楽しいのに、幸せだと思う瞬間があるのに。 同じように思ってくれている自信がない。 むしろ、酷い飼い主だなってことばかりが思い出された。 冷たい同居人だな。そんなことばかり実感させられる。 あの時、ああして欲しかっただろうな。あの話聞いて欲しかっただろうな、何か言って欲しかっただろうな、構って欲しかっただろうな。 それなのに、僕がしたことはそれを全て目の前で押しのけることだった。 「本当に、失格だよな…」 とくんとくん、掌から伝わる心臓の動き。 小さくて、早い。 あったかい生き物を抱きながら、僕は込み上げてくる苦みに目の奥が熱くなるのを感じた。 情けなさで、涙が滲む。 きょとんとしたテンの顔。やっぱり可愛い。人間の時も同じ顔するから面白いなぁって、先週思ったことが蘇ってきて目の端に熱が溜まるのが分かった。 もう一度、見てみたかったなぁ。あの顔。テンって本当にフェレットだなって、また笑いたかったな。 「出ていくよ」 口から滑るみたいに言葉が出た。 するともう勢いに任せて言い切るしかなくなった。 今しか決断出来ない気がしたから。 ここで言いよどんだら、居座ってしまいそうだった。 「ここを、近い内に出ていく。僕と一緒に暮らしたらテンは自由に人間に戻れないだろ?人間の時も、フェレットの時も大切にしてくれる人と暮らしたほうがいいよ。テンならきっといるから。僕より大切にしてくれる人が…」 こんなに可愛い子なんだから。あんなに格好いい子なんだから。 一緒に暮らしてて楽しいから。だからきっと大丈夫だ。 僕なんかよりずっと可愛がってくれる人がいるだろう。 こんな僕なんかより。 「だから…ごめ」 ごめん。と続けようとしたらテンが急に激しく暴れ始めた。 テンの前足の下、脇を掴んでいた手から抜け出そうと必死になっている。 前足を僕の指にかけて、身体を抜こうとしているんだけど上手くいかないので爪を立ててきた。 こまめに切っているから、あまり痛くない。 逃げたいんだろうけど、どうしてこんなに急に嫌がるのか分からなくて混乱していると「シュー」と蛇がするみたいな威嚇音を出した。 相当不機嫌らしい。 滅多に聞かない怒りの声に、僕は仕方なくテンを下ろした。 走り出すと思ったのに、何故かテンはズボンの端を噛んではくいくいと引っ張った。 ちょっと来て。そう言っているように。 「テン?」 何?と聞く前にテンはタタタッ、と弾けるように走り出した。 唐突な行動は毎回なので、僕はその後ろに続いた。 するとテンは自室の前でちょこんと座っていた。 ドアを開けろってことなんだろう。そう思って開けてやるとするりと部屋に入ってはベッドに潜った。 テンが人間に戻らなくなってから、ここも変化がない。 だったらテンはこの上にあるっていう一人で住んでいた部屋で生活していたんだろうか。 わざわざ? 面倒なことしていたんだなぁ…。 シーツがもぞもぞと動いたかと思うと、大きく膨らみ始めた。 (あ…) 人間に戻ったみたいだ。 ぎゅっと拳を握った。爪が掌に少し食い込む。 テンは、何を思ってるだろう。 呆れるかな、それとも僕が出ていくことにほっとする?喜ばれるとかなりキツイんだけどな。 緊張が自然と高まった。 言葉を交わすのは、たった四日ぶりだけど、一ヶ月くらい間があった気分だ。 シーツの端からキャラメル色の髪が見えると、僕は深呼吸をした。 何を言われてもいいように、覚悟をするため。 溜息が聞こえて、テンが上半身を起こした。 さっきまでフェレットだったせいで、何も着てない。 寝癖がついたみたいにくしゃしくゃになっている髪を掻き上げて、テンは複雑そうな表情を見せた。 (…機嫌悪そうだ…) 久しぶりに見た気がする人間のテンは、やっぱりモデルというだけあって筋肉はしなやかについているし、顔立ちは綺麗に整ってる。 いつもなら陽気で取っつきやすいのに、そうやって何か考え込んでるみたいに黙っていたら、顔の造り自体は鋭い感じがするということに初めて気が付いた。 かくんと肩を落としたかと思うと、テンは激しく髪を手で乱して「あー…」と唸る。 「…あのさぁ…」 「……うん」 ぼそっと聞こえた声に返事をしたけど、僕の喉はがちがちに強張っていた。 「何から言ったらいいのか、ちょい分かんないんだけど。俺さ、亮平のことマジで好きだから。亮平以上に好きな人いないし」 「あ…はぁ」 俯いたまま、沈んだ声音でテンは語り始めた。 好きだと連発されて、締め付けられていた胸の奥がほんの少し、くすぐったくなった。 「飼い主としても人としても、こんなに俺のこと大切にしてくれる人いないんだけど」 「は……え、でも」 そう言ってもテンは人間に戻らなかったじゃないか。 人間に戻らない理由を教えて欲しいって言っても。 「亮平以上に可愛がってくれる人なんかいないって。大体動物になれる人間ってだけでも引くのに、ちゃんとどっちの俺も大切にしてくれてんじゃん。なんで自分のこと責めんの」 「そんなに、大切にしてないだろ…?構って欲しがってる君のこと、放置したり。月曜日だって……冷たく突っぱねたし。だから人間に戻らなくなったんだろ?僕と向かい合うの嫌になって」 「嫌になるわけないだろっ!俺が亮平のこと嫌いになったり、嫌になったりするわけねぇの!」 がばっと顔を上げて、テンは真剣な顔で怒鳴るみたいに言った。 その勢いに、僕の肩が一瞬びくっと跳ね上がる。 「月曜だって、今までだって、亮平が俺に怒ったり呆れたりするのは当たり前だって分かってるよ!誰だって男にあんなにべたべたされたら嫌だろ」 「分かってやってんの…」 「だって亮平がそこにいるってだけが嬉しいから。構って欲しくて仕方なくて、じっとしてらんないからつい」 我慢ってすげー苦手。とテンが深く息を吐く。 (が…我慢しようって気持ちがあったんだ…あれでも) それはそれで驚きだった。 「嫌がられてるって思っても、ゴリ押ししたら亮平渋々相手してくれんじゃん。だから調子乗ってたんだよ…。セックスした時だって、捨てられると思ったけど結局許してくれたから……んなのじゃ駄目だって分かってんだけど…」 甘ったれ。そんな単語がぽん、と沸くように頭の中に浮かんだ。 そういえば、フェレットって多頭飼いに向いてるペットで、一人っ子は甘えたがる子が多いんだっけ。 (でも人間だろ…てか、甘えで人を抱くか!?) 落ち込んでいるテンの目の前に、僕は叱っていいものか、黙って聞いているべきなのか迷ってしまう。 なんだか想像していたような状況とはものすごく違ってるみたいだ。 「月曜も、また亮平に嫌われたって落ち込んでた時に、言っただろ?疲れるって」 「え…?」 そんなこと言ったっけ? 思い出そうとするけど、テンに襲われかけて疲れた記憶はあるけど口にしたかどうかは覚えてない。 「言ったよ。疲れるって、すげーしんどそうな声で。辛いって」 「でも、そんなこと今までも」 「それまで冗談みたいに言ってたじゃん。おまえといると疲れる!この馬鹿テン!って頭はたきながら。それは躾みたいなもんだって分かってたから。でもあれは…心底俺のこと嫌いになったんだって。もう一緒にいるの嫌なんだって思って」 テンの言ってることは、なんとなく理解出来た。 しつこくじゃれつかれた時には頭叩きながら、そんなことを言ってる。疲れるけど、鬱陶しいけど、嫌いなんかじゃない。 それがちゃんと伝わってるんだろう。 でも月曜日の夜に言った時の雰囲気は、とてもそんな余裕のあるものじゃなかった。 「出ていったほうがいいかなって思ったんだけど、フェレットの俺には癒されるって言ってくれたから。だからずっとフェレットでいようって決めたんだ。人間だったら亮平に抱き付いたり、うるさくじゃれついたり、手を出したりするけどフェレットならそんなことしないし。そしたら亮平は楽しくて癒される日々が戻ってくるだろ?それでいいって思ったんだよ」 「テンは、それでいいって思ったの」 問い掛けると、テンは真顔でじっと僕を見た。 「亮平傷付けるよりずっといいから」 テンの視線は、喧嘩した次の日に見せたものに似ていた。 仕事に行く僕を見送った、フェレットの瞳と。 もやみたいなものが重苦しく満ちていく。喉元まで塞ぐように。 (…いいわけないのに、それでもずっとそうしてたんだ) 四日間、ずっとテンは我慢していたんだろう。 「フェレットのまんまだったら、亮平楽しそうだったし。風呂に入った時なんか人間じゃ見せてくれないくらい嬉しそうだった。その上一緒に寝かしてくれる。だからもうこのままがいいのかって、そんな気持ちだったんだけど。俺が人間に戻らないってことに、だんだんおかしいなって思い始めたら、どうしようかってホントは悩んでたんだよな」 「だって、フェレットのテンとあんなに長い間遊ぶの久しぶりだったし」 楽しげなのは許して欲しいものだと思うんだけど。 元々は、僕はペット好きで。目の前にペット、まして飼っていたフェレットがいたら可愛がるのは自然なんだけど。 「だからって、無防備に笑いすぎ。フェレットのまんまで犯してやろうかって時々」 「思ったのか!?」 「サイズ的に無理だからしないけどさ。人間に戻ろうかなって思うついでに、ちらっとよぎった。大丈夫、いつも思ってたわけじゃないから。二十四時間中、三十分くらいだからさ、人間の意識持ってるのって」 一日の大半はずーーっと寝てるフェレットだから、三十分って結構長い気がするんだけど、僕の気のせいか? (あんなに可愛いフェレットの姿で、そんなこと思われてたかと思うと…居たたまれないっ) 全長四十pくらいしかないくせに! 「まぁ、今回の場合亮平が仕事に行ったらすぐ人間に戻ってたんだけどさ」 「なんで、そこまでして?めんどくさかっただろ?」 「うん。めんどくさかった。でも亮平の負担にならないならこれでいいかって。元々は、フェレットの俺を気に入って飼ってくれてんだから、人間になるなんて反則だろ?だから元のように亮平の前ではフェレットだけで生活しようとしてたんだけど、豆吉にそれを話したらすげー反対されて、もっと飯塚さんと話し合え!って。正論なんだけど、亮平の笑顔思い出したら、俺が人間に戻って落胆した顔見るのきつくてさ」 「だから、戻らなかった…?」 テンはらしくなく、弱々しい笑い方をした。 「だって、なんだ人間に戻っちゃったんだ。って嫌そうに言われたら、俺もう二度と人間になりたくない。一生フェレットでいいって思うから。それが、ちょっと怖かった。亮平がなんで人間に戻らないんだって何度も聞いてくれたけど、話そう思ったことあったけど、いつも戻ろうとする直前にストップしてた。そしたら、今日帰ってくるなり落ち込んでるからどうしたのかと思ってたら、これだろ」 「…戻らないんじゃなくて、戻れないんじゃないかって思ったんだよ。そう考えたら誰だって焦るだろ?」 「隣駆け込んで、涙目で訴えるくらいに?」 「心配だったんだよ!」 いい年して半泣きになるなんて恥ずかしいけど。でもそれくらい心配したんだ。 テンは嬉しそうに、小さく微笑んだ。 「まさか、そんなこと考えてるなんて思わなくてさ俺。必死になってる亮平見てて、俺のやってることって全然亮平のためじゃないんじゃねぇかってようやく気が付いた。ちゃんと話し合えって鹿野さんが言っただろ?信頼関係は時間かかるとか、あれって完全に俺に説教してたよなぁ」 テンはくしゃと自分の髪を掴んで「あー…」とまた唸った。 「俺さ、さっきも言ったけど亮平のこと好きなわけよ。人間になれるってバラす時もさ、いつにしよう、もういいかな、もういいかなってことばっか考えてて、いざバラしたらそれまで抑えてたのが一気にやってきて……もしかして、焦った?」 もしかして、じゃない。 かなり焦ってるよ、ものすごく焦ってる。 僕はすとん、と肩から力が抜けた。 あー、ようやく分かってくれたんだ。 そのことに。 「焦りすぎだよ。僕なんか、まだテンとどうやって付き合ったらいいか分からないってのにさ…」 「どうって、フェレットの時とおんなじでいいって」 「同じでいいわけないだろ」 ああ、もう。と僕は苦笑した。 「分かってない。てか僕らって知らないことが多すぎなんだよ。僕はまだテンがどうしたいかとか全然分からないし。なんで僕を襲ってくるか、とかさ…さっぱり分からないんだよ」 「んなの」 「はい、ちょっと黙る。なんとなくテンの言うことに察しがつくから、ちょっとストップ」 遮ると、テンは神妙な様子で口を閉ざした。 「ゆっくり話がしたいんだ。テンのこと知りたい。フェレットの君なら大体分かるつもりだけど、人間のテンは全然分からないんだ。言葉が通じるのに、それってちょっと変だよな」 毎日会話してるのに、基本的なことは宙ぶらりんで何も知らない。 生活に支障はないんだけど、でも何処か居心地が良くなくて。 ついにはこんなすれ違いを起こした。 「嫌?」 今までこういう話をしてこなかったから、避けているのかと思ったこともあった。 でもテンは「まさか」と首を振って口元ににこにことした笑みを浮かべた。 久しぶりに見た気がする、ご機嫌の笑いだった。 next |