付き合い方 5



 早く帰ろうとしたけど、テンのことが気になって仕事でミスを連発した。
 細かいことばかりで、一つ一つは取るに足らないことなんだけど、それが重なると苛々を通り越して落ち込んでしまった。
「どうかしたの」という声をかけられるくらい、僕はどんよりしていたらしい。
 大丈夫。と言って誤魔化しておいたけど、心配されたかも知れない。
 定時を三時間ばかり過ぎた時間に、僕は鍵を握りしめて部屋の前に立った。
 心臓がいつもより早い。
 このドアを開けて、テンが人間じゃなかったら。
 今朝と同じようにフェレットのままだった。
 もしかするとそれは、人間に戻れない。ということかも知れないから。
 異常事態なのに僕は全然それに気が付かずに、フェレットとじゃれていたことになるだろう。
 人間の声が聞けることを願って、僕は鍵を差し込んだ。
 がちゃ、と重い音と共に開かれるドア。
「…ただいま」
 部屋の中は真っ暗だ。
 嫌な予感。
 重苦しい静寂が漂ってる。
 落胆する自分を感じながら、それでも人の姿を探して電気をつけた。
「テン」
 名前を呼んでも足音がしない。
 一気に明るくなったリビングに置いてあるゲージの中、吊されたハンモックが膨らんでいる。
 フェレットのままだ。
 僕は胸のあたりが強く押される気分だった。呼吸するのも疲れてしまうくらい、苦しい。
「テン」
 ゲージの前で膝を折り、僕は崩れるようにしてへたんと座り込んだ。
 するとハンモックからもぞもぞとテンが顔を出した。
 葡萄色の目が半眼で僕を見てくる。寝ていたようだ。
「なんで、人間に戻らないんだよ」
 鞄を横に置いて、僕はテンの頭を撫でた。
 犬や猫より少し固め、白い毛並み。
「僕に怒ってる?そんなに僕と話しするのが嫌い?人間として、一緒に暮らすのが嫌なくらい」
 テンはヒゲを前方へと向けながら、丸くなった目で僕を見上げてくる。
 フェレットの姿だけど、僕の言っていること少しは分かるはずだ。
 前に、人間の姿の時にそう教えてくれたから。
(もう、何も教えてくれないのか)
君のこと、何も。
「それとも……人間に戻れない?」
 テンはひくひくと鼻を動かすのも止めて、固まった。
 葡萄色の丸い瞳と、僕の視線が絡まった。
 どくん。と心臓が何かに叩かれたみたいに脈打った。
 あ、そうなんだ。
 僕の乾いた喉から、かすれた呟きがもれた。
「戻れない…んだ」
 テンはゆっくりとした動きで、するりとハンモックから下りてくる。
 ゲージの扉は元々閉まっていなかったため、僕のところにすぐ寄ってきた。
 膝に前足をかけてちょこんと顔を上げる姿に、僕はじわっと涙腺が緩んだ。
 初めて会った時、可愛いと思った。長い胴体に短い足で、なんて妙な生き物なんだろう、そう小さく笑いながら大切にしようって決めた。
 それが人間になってしまうなんて、驚いたし困ったけど、でもそれもテンだからって。
 好きだって全身で言ってくれるのは嬉しかったし、楽しそうに話してる姿も見てるだけでこっちまで楽しくなった。
 名前を呼んでくれるときの特別だっていう響きは、純粋に好きだった。
 フェレットだったら、ここまではっきり分からなかっただろう。自分が好かれてるなんてこと。
 人間になれる子で、良かったかも。
 そう思ったことは、一回や二回じゃなかった。
 ハイテンションに巻き込まれるみたいにして、時間が急いで流れてしまうからじっくりそう感じる間がなかっただけで。
 本当は、人間のテンにだって支えられてた。
 それなのに。
「僕、全然気が付かなかった…テンが戻れなくなってるなんて…」
 飼い主なのに、同居人なのに。
 こんなの、失格もいいところだ。
「手遅れだったら、もう戻れなくなったら…どうし」
 どうしよう…。
 指先が強張っては、震え始めた。
 僕は唇をきつく噛んだ。
 痛みで、自分を叱咤する。
 そして手を片手で抱き上げる。
 前足の下を掴むと、そのままばたばたと部屋を出た。
 まだ、戻れないって決まったわけじゃない。
 どうしてこんなことになっているのか、まずはそれを知らないと。
 僕はスーツ姿のまま、隣の部屋のインターホンを押した。
「はい」
 鹿野さんがドアを開けて出てきた。
 インターホンより出たほうが早い、そう思ったのだろう。
 今日は休みのようで、ラフな格好をしてはフェレットのテンを見て瞬きをした。
 何事だろう。涼しげな表情を崩すことなくそんな顔をする。
「あの、テンが戻らないんです!」
「は」
 僕はすがるような思いで、呆気にとられる鹿野さんに「戻らないんです!」ともう一度言った。
「月曜日から、ずっとフェレットのままで!もしかすると人間に戻れなくなったんじゃないかって!」
 口にすると足下から不安が煙みたいに登ってきた。
 僕の中で広がっては包み込んで、息苦しくさせる。
 子どもだったら、泣き出しているところだろう。
 そんな僕を見て、鹿野さんは戸惑ったようにテンに視線を下ろした。
「人間でしたよ?夕方に見た時は」
「…え?」
「バイトから帰ってきたところを見ましたが、ちゃんと人間でしたよ?カルビビビンバを作りすぎて、勝手に食ったら怒られた。とか、そんなこと言って笑ってましたけど」
「…えっと……それ、今日ですか?」
「約三時間前ですね。それに火曜日も人間でしたよ?上の階に行こうとしてるところを見ました」
 そんなの知らない。
 鹿野さんは平然と喋ってるけど、金属同士がぶつかってるみたいながんがんっていう振動が頭の中いっぱいに広がってる。
「なんで…」
 どうして僕の前では人間にならないんだよ。
 呆然とする僕に、鹿野さんは見かねるように小さく微笑んだ。
「同居して、何日目くらいですか?」
「二十…くらいです」
「ふぅん…まぁ、そんなもんですかね」
 鹿野さんが独り言みたいに呟くと、後ろから豆吉君が姿を現した。
「どうかしたんですか?」
 京都あたりの柔らかな発音だ。
 鹿野さんは豆吉君をちらりと横目で振り返ると「戻らないんだってさ」と砕けた口調で言った。
「まだ戻っとらんのか。そんなことしても、ええことないって言ったやろう」
 豆吉君は呆れたようにテンに向かって告げた。ああ、知ってたんだ、テンが僕の前でだけ人間にならないの。
 僕だけか、知らなかったのは。
 寂しいというか、痛い。
「懐かしいもんだね。どいつもこいつも、似たようなことをしたがる」
「豆吉君も、やったことあるんですか?」
 鹿野さんは苦笑して肩をすくめ、豆吉君は「はぁ」と曖昧に笑った。
 僕とテンとは違って、二人は息がぴったり合っていた。
 鹿野さんが「あれ」って言うだけで、豆吉君には何のことだか大概分かるみたいで、言葉以外でもちゃんと通じ合っているのが少し羨ましかった。
 そんな二人なのに、こういうことがあったなんて。
「人間に戻れなくなった。なんてことはまだ聞いたことがないですが」
「僕も聞いたことないんで、たぶんそんなことにはならへんと思います」
 柴犬になれる豆吉君がそう言うなら、きっとそうなんだろう。
 なら、僕が抱いていた不安は全く意味のないものだったわけだ。
 病気とか、そういうことがないのなら、それは安心だからいいんだけど。
「ちゃんと話し合う時間を持ったほうがいいですよ」
 鹿野さんは冷静にそう諭してくれる。
「…そうしたいんですけど。僕はそう思ってるんですけど、でも」
 テンがフェレットままじゃ話し合いになんてならない。
 一方的に僕が聞かせているだけになってしまう。
「だってさ」
 鹿野さんはテンに苦笑を向けた。
「あの…」
「ここからはお二人のことですから。俺たちは何も言えませんよ」
 なんでこんなことに。と聞こうとしたけど鹿野さんに先を読まれた。
 確かに、それはそうなんだけど。
「人間同士もそうですが、飼い主とペットに必要なのは信頼関係だと思うんですよねぇ。そしてそれの根本は意志の疎通」
 淡々と語る鹿野さんを、テンは長い胴をだらーんと晒したまま見上げた。
「時間がかかることだと思いますよ。一朝一夕じゃとても無理」
「そう…ですよね…」
 今実家にいる猫たちや、犬を思い出す。
 物心ついた時からすでに家にいたのはどうだったか分からないけど、今あそこにいるのは子猫や子犬の時に拾ってきたやつばかりだ。
 初めてうちに来たときはすごく警戒していたけど、それが数ヶ月、一年も経てば僕の膝でのんびり寝るまでになった。
 少しずつ、距離を詰めてお互いのことを理解したからだ。
 人間だってそうだろう。いきなり同居したって、すぐに距離を詰められるはずがない。
(…テンは、それが嫌だったのかな…)
 構ってくれって言うテンは、僕の側に来たがっていた気がする。
 もっと近く、近くって思っていたんじゃないかな。
 でも僕にとってそれは戸惑うことで。
 信頼してるのに、僕はテンと距離を取ろうとするからこんなことになったんだろうか。
(でも、僕は…)
 いきなり全信頼を置けない。
 テンのことは嫌いじゃないし、むしろ好きな分類だけど。でもまだ知らないことだらけなんだ。
(どうしたら、いいんだよ)
「俺が言えるのはせいぜいこんなものでしょう。テン君が何を思ってこうなったのか、はっきりとは分からないですからねぇ」
 そう言うけど、鹿野さんの苦笑には仕方ないなぁ、みたいなものが浮かんでいる気がした。
 理解してるけど、言うわけにはいかない。そんな感じだ。
 そのすぐ後ろに立っている豆吉君もそんな表情だ。
 この二人も、昔やったことがあるって言うけど、でも僕は今のこの人達みたいになれる自信はなかった。
 自然と背中合わせで支え合っているみたいな形に、なれる自信は。
「部屋に戻って、聞いてみればいいですよ」
 きっと戻るでしょうから。
 鹿野さんに促され、僕は頷いた。
「ありがとうございます」
 我ながら、生気が抜けたみたいなお礼だ。
 棒読みで、ショックを隠しきれないのがありありと伝わったのだろう豆吉君が「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。
 その台詞を言われるの、今日は何回目だろう。
「大丈夫です」
 ああ、駄目だ。しっかりしないと。
 そんなことを思って、無理矢理口元を緩めて見せた。
 けど上手く出来た気がしなかった。
 鹿野さんが眉を寄せて心配そうな目をしたけど、僕はそれ以上繕えずに頭を下げて部屋に戻った。
 会社から帰ってきた時よりも、部屋の中は静かで空気が重かった。
 ドアを閉めると、明るい室内を見ていられなくてまぶたを下ろした。
 右手で前足の下を包むみたいに掴んで、左手はお尻を支えている。
 あったかい身体、とくんとくんと僕より早く脈打つ心臓。
 テンに触れているとほっとする。嬉しくなる。
 でも今は、ただ寂しかった。


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