付き合い方 2
駅から自宅までの道のりがとても長く感じられた。 こういう時は間違いなく疲れている。 所々に立っている街灯の明かりに導かれるように、とぼとぼと歩く午後十一時の街は静かだ。駅から離れれば離れるほど、ひっそりとしてくる。 残業をくらって、パソコン画面を凝視し続けたから目がしばしばする。 きっと視力も学生の頃に比べたら落ちただろう。 月曜日の夜だっていうのに、こんなに疲れてて土曜日まで体力保つかな。 口から重い息を吐いた。 すると横道から小柄な女性が出てくるのが見えた。 さらさらの黒い髪。肩より少し長いくらいの長さを一つにくくっていた。 手にはスーパーの袋。 「チエちゃん?」 声を掛けるとお隣に住んでいるチエちゃんは「あ」と声を上げて頭を下げてくれた。 「今お帰りですか?」 「残業だったんで」 僕が近くまで歩いてくるのを待ってから、二人で歩き出した。 チエちゃんの歩幅は狭くて、僕は歩調を変える。服を着ていても華奢な身体だと分かった。 小さくて、ほっそりとした様子は文鳥になれると言われても「なんとなくそんな感じある」と思えた。 「大変ですね」 気遣ってくれている言葉が身に染みる。 ちょっと見上げるようにして言ってくれるチエちゃんに微笑んで見せた。疲れが出てるだろうけど、ぶすっとしているよりいいだろう。 「仕事だから」 「みんなそう言うけど、でもお仕事って大変です」 チエちゃんは現在短大生で、栄養士さんの資格を取るために勉強しているらしい。 持っているスーパーの袋に透けているのも、卵やタマネギだ。きっと自炊してるんだろうなぁ。 「今から御飯?てかこの辺りに開いてるスーパーなんてあったっけ?もう十一時なのに」 「ドラッグストアの近くにあるスーパーは十二時まで開いてるんですよ」 「あ、そうなんだ。便利だね」 「よくそこでお買い物してます。これはあっちゃんのお夜食なんです」 チエちゃんはにこにこしていた。黙っていると物静かで内気そうなお嬢さんだけど、笑っているとついつい話しかけたくなるくらい明るくて可愛い。 こういう笑顔をする時は、大概同居人のあっちゃんこと南明実さんの話をしている時だ。 本当に仲が良くて、姉妹みたいだ。 そう言ったら「姉妹ってもっとさばさばしてるんじゃない?」と明実さんには言われた。 僕より年下なのに、ずっと大人で「姐さん」と呼びたくなる明実さんはホステスさんで、夜遅くならないと帰ってこないらしい。 「疲れて帰ってくるから、せめてこれだけでも。本当は起きて待ってたいけど明日大学があるし…あっちゃん怒るから」 「怒るの?」 「明日が休みならともかく、学校あるのに夜遅くまで起きてんじゃないの!って。私夜更かしって得意じゃなくて、次の日ずっとぼーっとしてるんです」 (鳥って暗くなると寝るもんなぁ…) 文鳥になれるって体質は、人間の時でも影響があるみたいだ。 「ちゃんと勉強しなよ。ってあっちゃんが言うし」 本当は待ってたいのに。という顔でチエちゃんが言う。健気さに僕はしんみりとしてしまった。 こんなに可愛い子に、待っててもらえたらきっと疲れていても早足で帰るだろうな。 「僕も夜食作って待っててくれる子が欲しい…笑顔で大人しく迎えて欲しい」 ぽつりと本音を零すと、チエちゃんがにっこりと笑ってくれた。 「飯塚さんにはテンちゃんがいるじゃないですか」 チエちゃんの口から聞くと、テンちゃんって響きが愛らしく聞こえてくる。 けど実際のテンは、どんなに可愛く呼んでも頭をはたきたくなるような奴だ。 今朝のことを思い出すだけで肩が重く感じる。 「いるけどね…。夜食もたまーーーーにレトルト物を作ってくれるけどね」 「レトルト駄目ですか?楽だから、私も時々使っちゃうんですけど」 やっぱりちゃんと作ったほうが?というチエちゃんに力なく首を振る。 「僕もそんなに料理得意じゃないから。レトルトで文句なんてないよ。レトルトとか美味しいしねぇ。安いし。問題はそこじゃなくて…大人しく迎えてくれるかっていう」 「大人しく、ですか?」 チエちゃんにはピンと来ないらしい。僕がずどーんと沈む原因が。 そりゃそうだろうなぁ、きっとチエちゃんはあんなハイテンションで誰かに絡むこと自体ないだろうし。 「玄関を開けた途端「おかえりー!」なのはいいよ。僕だってそうやって迎えてもらうのは嬉しいし。ただその後がさ…タックルみたいに抱き付いてくるとか、勢いあまって押し倒すとか、しがみついたままでマシンガントークとか」 体格はテンのほうがいいから、僕は抱き付かれるというより抱え込まれるような感じになり、頭上でしばらく「やかましい」って表現がぴったりの話が始まるのだ。 疲労が一気に倍になるってことをテンは気が付かないらしい。 「いつもですか?」 それはさすがに…。ということがチエちゃんにも伝わったらしい。お気の毒ですとまではいかないけど苦笑気味だ。 「ハイテンションの時はね。普段はそうでもないけど。でもやたら絡んでくるのは一緒」 「飯塚さんに甘えてるんですよ。テンちゃん今まで飼い主さんいなかったから、嬉しいんですよ」 「甘えてる…ねぇ…」 そう言われればそうなんだろうけど、でも毎日毎日疲れている時もこっちの状況お構いなしっていうのは、正直迷惑に近い。 残業後だと、がんがん喋られても生返事しか出来ない。それでもテンはあんまり気にしないみたいだけど、会話が成り立ってないのに話を続けられるのもなんだか意味がない気がする。 それに、喋るだけじゃなくてテンの場合は手が出てくる。 スキンシップみたいな軽いものから、キスや服の中に手を入れるなんてものも。 僕はそういうのに慣れることは出来ないし、叱ってもなかなか聞いてくれない。 一体何が楽しいのか。 楽しいのかと言えば、僕なんか抱いて何が楽しいのか。 (あーもう…あれは思い出すな…) 蘇ってくる記憶を必死に押し込める。こういう苦労を、明実さんはしてないだろうな。羨ましい。 「飯塚さん?なんか苦しそうな顔してますけど、大丈夫ですか?」 「え?平気平気」 険しい顔つきでもしてたんだろうか。チエちゃんが心配そうに見てる。 まさかテンに襲われて、なんて話は出来ない。 チエちゃんはそういう話は苦手そうだし。それ以前に、他人に相談出来ることじゃない。 (なんでこんな苦労…) フェレットと同居するときには必要じゃなかった苦労だ。 「溜息ついてますよ?」 「あ、うん。ちょっと疲れてるかも」 知らない間に溜息が出ていたらしい。よくない傾向だ。 マンションの階段を上がりながら、唇を結んだ。 「ゆっくり休んで下さいね」 部屋の前で別れ際にチエちゃんが言ってくれたことに、僕は曖昧に笑い返した。 そうしたいのはやまやまだけど、このドアの向こうにもう一仕事あったりするんだよ。 鍵を差し込んで、がちゃんと開ける。身構えながら中を窺うようにそおーっと僕は玄関を開けた。 半分まで開けて、テンが前に立っていないことを確認するとようやく足を踏み入れた。 今日はハイテンションではないらしい。 ほっとしながら靴を脱ぐと、テンはこちらに背を向けて座りながらテレビを見ていたが、身体を捻って見上げてくる。 「おかえり〜」 「ただいま」 Tシャツにジャージ姿。襟足が少し長い髪がしっとり濡れている。風呂上がりみたいだ。 「飯食った?」 「食ったよ」 会社でコンビニ弁当を。寂しい晩飯だ。明実さんが一層羨ましくなってくる。きっとチエちゃんの御飯は美味しいだろうな。 自分の部屋に鞄を置き、上着をハンガーにかけた。 このままベッドに倒れ込むようにして寝たいけど。風呂に入らないと落ち着かない。 それに、一日の疲れが風呂に入れば和らぐ。 怠いなぁと思いながら、それでも風呂場に行こうとするテンが着いてきた。 にこにことご機嫌なのはいつものこと。 「何?」 「背中流してあげよっか」 「いらない」 「いいじゃん。たまには風呂で楽させてあげるよ?なんなら全身洗ってあげよっか。もちろん手で。ソープ嬢とまではいかないけど丁寧にやるから」 「却下」 無下に断るとテンは「なんでだよ」と拗ねた声を出して付きまとってくる。 「変なことしないって」 「ソープなんて単語が出てくること自体、すでに変なことになりそうだよ!」 「行ったことあんの?ソープ」 「行かないよ」 「でも興味ない?ソープ。やると面白いかもよ?」 「興味ない!僕は大人しく風呂入ってすぐ寝る!明日も仕事あるんだからそんなことやってらんないよ」 脱衣所のドアを開けるけど、中には入らない。テンが背後にいるからだ。追い払ってからじゃないとゆっくり風呂にも入れない。 「一日の疲れを癒し、リフレッシュして明日も元気に仕事へ行こう」 テンは真顔で僕の肩をがしっと掴む。 意志の疎通が出来てない。 僕は脱力して、がっくり膝が崩れそうになった。どうにかしてくれ。 「亮平〜」 「ええい、懐くな!抱き付くな!重い!」 肩を掴んだ手をそのまま手前に引いて、テンは僕を抱き締めた。ぎゅっと抱えられると身動きがとれない。一七〇pの身長を低いと思ったことは今までそうなかったのに、テンと暮らしてからよく思わされる。 「酷い。俺こんなに亮平のこと好きなのに。なーなー、風呂入ろ。一緒にお風呂っていいじゃん。新婚夫婦みたいで、これぞ飼い主とペットの正しい姿って思わない?」 「新婚夫婦と、飼い主とペットの関係と一体どう繋がるんだ!風呂ならフェレットの時に入ってあげるから!なんで人間の時に入らなきゃいけないんだ!」 「フェレットの時なんか一緒に風呂入っているっていうより亮平が湯船、俺が洗面器じゃん。全然一緒にの風呂じゃないし。それにフェレットだったら亮平に触れないからつまらない。亮平は俺を洗ったりすんのに」 そう言いながらテンはシャツの中に手を入れて僕の腰に触ってきた。 乾いたあたたかい掌が背中や脇腹を撫でる感覚に、ぞくりと痺れのようなものが腰の辺りに走った。 「止めろって!テン!」 「やだ。だって触りたいし。いいじゃん、減るもんでもないし。気持ちいいんだから。亮平だって慣れたら絶対ハマるって。てかハメる。色んな意味で」 「言ってることが分からない!いや、分かるけど理解したくない!」 ぎゃーぎゃー騒ぎながら僕の手はテンの腕を掴んで動きを止めようと頑張ってるし、テンはテンでそれに抵抗しながら妖しい手つきをしている。 にこにこから、にやりって笑い方になったテンを間近で睨む。ここで怯んだら危険なことになるのは明らかだ。 「分かってるならいいじゃん。ヤろ。風呂場でもいいし、風呂から上がってでもいいから。なんなら、丁度良いからこのままヤろっか。立ったままじゃ辛いかな」 少し低くなった声が楽しそうに、僕の耳元で囁く。普段は子どもみたいにあっけらかんとしているのに、こういう時だけ色気を垂れ流してくるから、たちが悪い。 女の人なら、声だけで落ちてしまうだろう。男の僕でもぐらつくぐらいだから。 だけど、ベルトを外すカチャっていう金属の音にはっとした。 抱かれるのは、気持ち悪いとか気持ちいいとか以前の問題で、何がなんだか分からなくなる。それが、怖いといえば怖い。 しかも僕を翻弄してるのは、まだよく分からない男だ。僕がよく知っているのはフェレットのテンだけだから。 思い出すと、指先が強張る。 「テン!今度やったら出ていくって言っただろ!?」 怒鳴りつけると、テンはぴたりと止まった。 前に抱かれた時に「こんなことするなら、僕はテンとは暮らせない。出ていく」って突きつけた。散々説教してもきいてくれないから、情けないやら腹立たしいやらで泣きたくなりながら。 そうしたらテンも頭を下げて「ごめん」って何度も繰り返していた。次第に小さくなっていく声や、落ち込んでいる様子に、反省したんだと思っていたんだけど。 また、僕は軽く扱われていたってことなんだろうな、この状態を見る限り。 「なんでこう…僕の言うこと聞いてくけないんだよ…」 人間をしつけるなんて僕には出来ないことだって分かっているけど。 でもこれはしつけとかそういう次元じゃなくて、同居人として相手ことくらい思いやって欲しい。 「なんかもう…疲れる…」 テンは僕から手を離してくれた。一歩くらい距離が開いて、僕はほっと息を吐く。 項垂れて、前髪を掴んだ。疲労の上に、噛み合わない気持ちが重い。 「フェレットの君といる時はあんなに楽で、すごく癒されたのに…」 「…ごめん」 またごめん、だ。 顔を見るのが嫌で、僕は俯いたままだった。悲しげな表情をしてたら、またこのことを流してしまいそうだから。 そうしたら繰り返す気がした。 「疲れる…。ほんと」 溜息が零れた。こうして喧嘩なんてしたくないのに。すれば気まずいし、それこそ疲れるだけだった知ってるのに。 上手くいかない。 僕は人間のテンとの付き合い方を手探りで探してるのに、テンは僕との距離なんて全く気にしてないでどんどん近付いてくる。僕の中に入ってくる。 それが、どうしていいか分からない。 「辛い…」 ぽつりと呟いて、僕は脱衣所のドアを開けた。 後ろ手で閉めて背中をドアに預ける。 この向こうで、テンはどうしているだろう。今度こそ反省しているだろうか。 「あー…もう…」 くしゃと髪を掻いては、胸から喉に何かもやもやとしたものが詰まっていく苦しさを感じていた。 next |