付き合い方 1
身体を縛られるような息苦しさに目を覚ました。 ぼんやりとした意識の中でも、どうしてこんなに苦しいのか理由は分かってる。 「…馬鹿テン…」 ぎゅぅとテンが背後から抱き付いてるのだ。 テンっていうのは僕が飼っているフェレットの名前だ。 フェレットっていたちみたいな生き物で、最近ちょっと名前が広まってきたペットなんだけど。 僕を後ろから羽交い締めにしてるのは当然、体長40pくらいのフェレットであるはずがない。 「人間で、ベッドに入るなって言ったのに…」 僕ははぁと溜息をついて、なんとか腕の中から逃げ出そうともがいた。 しなやかな筋肉のついた腕をどかして、ネズミみたいにするりと身体を抜くと「んー」とテンが唸る。 だけど起きない。僕は確信していた。 テンは一度寝るとなかなか起きない。それこそ地震があったって起きないと思う。 「……はぁ」 また溜息が出た。 僕のベッドで悠然と寝ているのは、寝顔まで整った男だ。 二十一なんだけど、ぱっと見ただけでは僕と同じの、二十五くらいに見える。 髪の毛は染めているのか、キャラメル色でちょっと長めだ。 モデルのバイトをやっているらしくて、顔はいいし、背も高い。 同じ性別の人間として、羨ましい限りなんだけど。 何がどういうことなのか、この男はフェレットになれる人間で、しかも僕が飼い主だったりする。 初めはただのフェレットだと思って暮らしていたんだけど、本当は人間だってことが発覚してから今日でちょうど二週間。 赤の他人との同居なんてしたことなくて、まだ戸惑い気味だ。 今まで通り生活していいって、テンは言うけど。 (出来るわけないだろ…) とにかくテンはテンションが高い。人間の時はよく喋るし、それに身体が大きいから構ってくれってじゃれつかれてもフェレットの時みたいに軽く流せない。 放置すれば拗ねる。そしてのしかかってくる。 (まるっきりガキのくせに…) 僕は髪の毛くしゃと掻き乱してから、部屋を出た。 万が一テンが目を覚ましたら、どんな悪戯をされるか分かったもんじゃない。 (なんで…僕相手にあんなことするんだろ…) キスをする、抱き締めるなんて日常茶飯事。問題はそれ以上の行為をされるってことだ。 怒れば、大抵の時は渋々諦めてくれるけど。 この二週間の間で二回ほど、どれだけ制止しても止めてくれなかったことがある。 終わると「我慢の限界だったから…」と僕にしてみればよく分からない理由で謝られた。 肩を落として小さくなっているテンは、フェレットの時と同じ落ち込み方に見えて、僕は怒りが収まってしまう。 甘すぎるって自覚はあるけど。 (だからテンは調子乗ってるのか?) 朝ご飯の食パンを片手に、僕は悩んだ。 ペットは躾が大切。飼い主との信頼関係の面に置いても。 でもテンは今はほとんどの時間を人間で過ごしてるし。元々は人間だって言っていた。 人間を躾するなんて、しかも成人男性を。 (危ない世界みたいだな…) 食パンがトースターの中で焼かれるのを眺めながら、椅子に腰掛けた。 (なんでこんなことになったんだか…) 家賃三万で2LDKなんて物件に飛びついたからだってのは分かってるけど、でもフェレットのテンと過ごしていた日々の幸せが遠い。 朝も早くからゲージの中で暴れる音で起こされるのは、ちょっと辛かったけど。 それ以外は至って平和だった。 今みたいに寝てる間に抱き付かれることも、突然キスされることも、押し倒されることもなかった。 「…っあー…」 考え事をしていると、トーストが焦げてしまった。きつね色というよりチョコレートに近い色をしてるけど食べれないほどじゃない。マーガリンを塗って渋々食べる。 牛乳で流し込めば味もあまり気にならない。 (前は、こうやって朝飯食べてる時には足下でテンがじゃれついて可愛かったのになぁ…) 短い後ろ足でちょこっと立って、同じく短い前足で僕の足にしがみついて「遊んで!」と丸い目をきらきらさせていた。 人間のテンだって起こせば、構ってくれってじゃれついてくるけど、背後から抱え込まれても僕は「無理!」としか言いようがない。 時間がある時や、疲れてない時ならまだしも、こんな寝起きや仕事から帰ってきた時にやられると鬱陶しいと頭をはたく。 それを可愛いって思えと言われても、僕はまだ人間のテンをそこまで好きになれてない。 (だって、いくらなんでも二週間でどうしろって…) 第一、男同士じゃないか。そりゃ恋人みたいなことをしてるけど、それはテンが一方的に迫ってきたことで、僕は抵抗したんだ。 最後は流されるみたいになったけど、それでも望んでそうしたわけじゃない。 死ぬほど嫌なのかって言われると、そこまでじゃないけど。 そう言ったら「亮平って俺のこと好きだよな」ってテンに微笑まれた。 普通なら、男に抱かれるなんて死ぬほど嫌じゃん、とか言って。 (僕だってそう思うけど、あのテンだと思うと、なんか許しちゃうのも仕方ないだろ!) トーストを食べ終わり、僕は机に突っ伏した。 そうだ、そんなことも許せるほど僕はフェレットのテンが好きなんだ。 あの長い胴をつついたら、じたばたする足の可愛さに癒されるくらいに。 「はぁ…」 またフェレットになってくれないかな。 テンは人間でいるのと、フェレットでいるのとどっちがいいんだろう。 身支度を整えて、僕はまた自分の部屋に戻る。 出ていく時は起こしてくれってテンに言われているからだ。 「起きた時に亮平いなかったら凹むから。フェレットん時なんか俺が熟睡してんのに無理矢理起こしてくれたじゃん。だから起こしてってよ。いってらっしゃいくらいするからさ」というのは本人曰く。 確かにフェレットの時は出掛ける前は起こしてから出てた。餌と水、トイレのチェックをした後に「いってくるよ」って言うのが習慣だった。 どれだけ気分が沈んで、仕事に行きたくなくても「テンの餌代稼がないと」と思うと重い腰もちゃんと上げられた。 今は起こすこと自体に腰が重くなってるけど。 (だってなぁ…寝ぼけながら僕をベッドに引きずり込もうとするし) きつく叱ったら、最近はやらなくなったが。 「テン、いってくるよ」 人のベッドでぬくぬくと寝ている男に声をかける。もちろん起きるはずがない。 次は布団の端を掴んで、思いっきり引っ張った。だがかけるものが何もなくなっても身じろぎもしない。 「どういう神経してんだ…」 布団がなくなったら、違和感でちょっとは目覚めるもんなんじゃないのか? 「テン!テンって!もう出ていくけど!」 こんなに頑張ってまで起こさなくてもいい気がするんだけど。 仕事に行く前から疲れなきゃいけないって、なんか釈然としない。 「どうしてこうも、起きないんだ…」 (本名で呼んだら起きるかな) テンは人間だから、ちゃんと本名があるらしい。でも僕は知らない。 「本名教えたらそっちで呼ばれそうだから」ってテンが教えてくれない。 どうやらテンは僕が付けた名前で呼ばれたいようなのだ。飼い主としては嬉しいところだけど、同居人としては本名も知らないってどうなんだろとは思う。 (テンのことは、ほとんど知らないんだよなぁ…) 本名も、家族のことも、どうやってここに住むことになったのかも。 モデルのバイトは知り合いの人の紹介でやってるらしいけど。 そういえばもう一つ掛け持ちしてるバイトは焼き肉屋っていうのも謎だ。なんでモデルが焼き肉屋でバイトしてるんだ。 いつもハイテンションでじゃれつかれて、騒がしさに紛れてちゃんとそういう会話をまだしてない。 (ちゃんと、話ししなきゃなぁ…) これからちゃんと同居していくなら、そういうことは必要なんじゃないのか。 家族以外と住んだことないから、よく分からないけど。でも僕は知りたい。 「何考えてるんだ、おまえって」 幸せそうに緩んだ寝顔に聞いても答えてくれるはずもなく、時計はもう家を出なきゃいけない時間を指していた。 「…はぁ…もう行くからな!馬鹿テン!」 ぱしっと頭を軽く叩くとようやくテンが目を開けた。それも線みたいに細く。 「亮平…」 「もう仕事行くから。バイト行く時には戸締まりしろよ?」 「んー」 テンはもそっと身体を起こして、僕に両手を伸ばした。近寄ればすぐさま腕に抱き込まれるのは経験済み。なので僕は「いってきます」と素っ気なく言って背を向けた。 だけどテンは、さっきまで寝ていたなんて思えない速さで僕の腰に手を回した。振り返ると、すでに片足はフローリングの床に着いてる。 なかなか起きない代わりに、起きようって一度決めると眠気はすぐに消えるらしい。 「いってらっしゃい」 すくっと立ち上がると、僕の首にキスをした。 吐息がかかって、不覚にもぞくっとしてしまう。 「そういうことするな!」 眩しい朝には向いてない感覚に、僕はテンの腕を払って逃げるようにして玄関に向かう。 テンは怒られても平気みたいで「今日遅い?飯どうする?」なんてにこにこと聞いてきた。 「今日遅いから、晩は各自で食べること!じゃいってきます!」 体温が上がってしまったことを隠すように、僕は靴を履いて少し乱暴にドアを開けた。 「いってらっしゃい」そう言うテンは、髪は寝癖で頬には枕の後が付いてる。なのに笑顔で僕は脱力してしまう。 もっと嫌な奴だったら、僕は引っ越すなり、距離を取ったりして割り切ったのに。 こうして笑ってくれるから、幸せそうだから、僕はどうしていいか分からなくなる。 (なんだかなぁ) 戸惑いを抱えながら駅まで歩いていると、前の方に見慣れた背中を発見した。 スーツをきっちりと着込んだ、すらりとした姿はここを紹介してくれた人の一人だ。 不動産屋さんなので、不思議じゃないんだけど。 「鹿野さん」 物腰の落ち着いた鹿野さんは僕の声に振り返って「おはようございます」と気怠そうに言った。朝はあまり強くないらしい。 お隣の鹿野さんは、柴犬の豆吉君と同居している。もちろん、人間になる犬だ。 テンと同い年の大学生で、礼儀正しい。最近珍しい純朴そうな人だ。 「おはようございます。眠そうですね」 「あー…。豆吉が調子にのりまして」 眠れなかったんですよ。と鹿野さんはぼんやりしたように言う。いつもは冷静でしっかりした人なだけに、ギャップがあった。相当寝不足のようだ。 「叱ってもきかなくて、困りました」 「豆吉君にもそういうことあるんですね。大人しくて、鹿野さんの言うことはちゃんと聞いてると思ってたんですけど」 「大抵のことはきくんですが、どうも…」 鹿野さんは怠そうに溜息をつく、今日はどこの飼い主もお疲れ気味のようだ。 「うちのテンは、何事も言うこときかなくて困ります」 「あの子は、舞い上がってるんでしょう」 「もう二週間になるんですけど…」 いい加減落ち着けよ。と僕じゃなくても思うところだ。 「テン君は元々がテンション高い子ですしね。飯塚さんと暮らし始めてから毎日嬉しそうですよ」 「…そうですか」 家でもにこにこしてるけど、外でもそうなのか。そんなに僕がいるのが嬉しいんだろうか。 人間のテンに対しては、世話もしてないし。何もしてないんだけどな。何がいいんだろう。 「浮かない顔ですね」 「……まだ、どうしていいか分からなくて」 僕は項垂れるように、アスファルトに視線を落とした。 「接し方が分からない?」 鹿野さんに聞かれて、こくんと頷く。 「テンはじゃれついてくるから、僕はいつの間にか流されるみたいに生活してて。本当はテンのこと何も知らなくて。正直、付き合い方がよく分からないんです」 「まぁ、そうでしょうね」 鹿野さんは朝日に眩しそうに目を細めた。 テンは華やかな感じの格好良さがあるけど、鹿野さんは水みたいに静かな格好良さがある。むしろ格好いいって言うより、美人、かも。男の人に言うのは合わないかも知れないけど。 「俺もそうでしたよ。豆吉が人間だって知った時は途方に暮れたし、どうしていいか分からなかった」 「三日間くらい口も聞かなかったらしいですね」 テンが人間だって分かった日、豆吉君が苦笑しながら教えてくれたことだ。 「本当は家に帰らず、そのまま別の所に引っ越そうと思ってたんですけどね。どうも、豆吉が気になって。人間なんだからほっといたってちゃんと生活出来るって分かっても、犬だった豆吉がちらついて足が勝手に帰宅してましたよ」 僕はその気持ちが分かる気がした。僕だってテンが人間だって分かった日、夢じゃないかって思いながらも家に帰るのを躊躇った。 でも、あの目が気になったんだ。すがるみたいな、テンの目が。フェレットの時は僕が出勤する時に見せたことがあった。 捨てないで。って言われてるみたいで。心が締め付けられる。 「なんで人間なんだってしばらくは苛々したけど、諦めますよ」 「諦め、ですか?」 「あんなのは諦めです。俺は今だって柴犬の豆吉が一番好きです」 鹿野さんは平然と、言い切った。人間の豆吉君が聞いたらしょげてしまいそうだ。 「慣れたら、気にならなくなりますよ。だって飯塚さんもフェレットのテン君と一ヶ月以上暮らしたでしょう?人間でいる時だって、基本は動物の時と大差ないですよ」 「見た目が、かなり違いますが…」 「そこを慣れてしまえば、後は大丈夫になります」 「慣れる…でしょうか…」 あのハイテンションはフェレットの時と違いはないのだが。日本語は喋るし、身体は大きいし。 「溺愛っぷりを見てますからね。きっとすぐに慣れますよ。引っ越すよりその方が楽でしょう」 「引っ越すつもりはないんですが」 本当に、騒がしいこの日々に慣れるんだろうか。 それ以前に、テンの愛情表現の過激さに慣れるということがあるんだろうか。 「…慣れるのかなぁ…」 肩を落とすと、鹿野さんは「おそらくは」と眠気が薄らいだ声で言った。 next |