繋がり方 3



 どういうことだ。
 僕は寝起きでぼけているはずの頭を回転させた。
 いつもなら、朝には人間の姿に戻って僕にぎゅうぎゅう抱き付いているテンが、今日はフェレットのままだ。
 昨夜もずっとフェレットだったし、何か理由でもあるんだろうか。
 それとも、ベッドに潜り込んだら眠くなって、そのまま起きられなかったとか。
 しばらくはそうして堂々と転がって眠っているフェレットを見下ろした。
 けど悲しいことに、朝の僕には時間がない。
 悩んでいる間も刻一刻と出勤の時間は迫ってくる。
 急いで部屋から出て、パンを飲み込み、歯を磨いて着替える。
 毎日のことなので身体が勝手に動いてくれた。
「テン!行って来るから!」
 自室に戻ってそう声をかけると、テンは頭を上げて僕を見た。
 そして返事をするようにあくびをした。
 鋭い犬歯がよく見える。
 あの分じゃ、また寝るんだろうな。
 羨ましいことだ。
 でも、そんなことよりも人間に戻らないままだっていうのが気になった。
 帰って来てもフェレットのままだったらどうしよう。
 そんな不安を抱えながらも、僕は玄関から外に出て、ドアに鍵をかけた。
 すると丁度お隣の鹿野さんも玄関から出てきたところだった。
 出勤時間が同じくらいなので、よくこうして出会う。
 鹿野さんは家の方に向かって「いってくる」と短く告げた。
「お気をつけて、いってらっしゃい」
 奥からひょこっと背の高い男が出てくる。
 純朴そうな顔に笑顔を浮かべているものだから、好青年そのものだ。
 見送りをする奥さんのように、豆吉君は鹿野さんを見つめてはにこにこしていた。
 毎朝のことだけど、ここは仲がいい。
 うちもテンが見送りしてくれるけど「今日何時?」「早く帰って来てくれよ〜」「いってきますのキスは?」と騒がしい。
 二人のように、すんなりとはいかない。
(目が合ってる)
 鹿野さんは眠たそうに、でもしっかりと豆吉君を見ていたし、豆吉君は鹿野さんから視線を外すことはない。
 奇妙なことじゃない。
 この二人も元は僕たちと同じ、ペットと飼い主だったらしいから。
 まして豆吉君は犬。飼い主の一挙一動を見逃すまいとするのは習性みたいなもんだろう。
 鹿野さんは片手を軽く上げると、それを返事にして歩き出した。
「おはようございます」
 ぱっと見たところは不機嫌そうな様子で鹿野さんは僕に声をかけてきた。
 実際は不機嫌でも何でもなく、眠いだけだということは知っていた。
 低血圧で朝が弱いらしい。
「おはようございます、今日もお見送りですね」
「ええ」
 鹿野さんは何事でもないように頷く。
 そして小さくあくびをした。
 出来ることならまだ寝ていたいって顔だ。
 マンションを出ると、入り口で大家さんが煙草を吸っていた。
 気怠そうだが、こちらもいつものことだ。
「おはようございます」
「ああ。おはようさん」
 毎日の出勤光景だ。
 大抵大家さんはここにいるし、半分くらいの割合でルディさんが側にいる。
「しけた面してんな」
「え」
 大家さんの視線は僕に向けられていた。
「悩んでますって顔、してんぞ」
 大家さんは人のことに興味がないって感じだけど、実は結構鋭い。
 人が抱えていることをずばりと突き刺したりしてくる。しかも唐突に。
 今朝もそうだ。
「そうですか」
 感情が顔に出やすいタイプではあるけど、一目見ただけで言い当てられると辛いものがある。
「ま、しっかり働いてこいよ。話聞いてやる時間はねぇしな」
 確かに、こんなところで今からテンがどうしたなんて話をしている時間の余裕はない。
 それは大家さんもわかっていることらしい。
「行って来ます」
 僕は苦笑しながら軽く頭を下げた。
 しけた顔をさらしながら歩いているのかと思うと、ぺたりと頬に手を当ててみる。
 アスファルトに反射する朝日が眩しい。
 駅までの道は朝日に立ち向かうかのように燦々と光を浴びなきゃいけない。
 鹿野さんはそれが嫌だと言っていた。
 眩しくて苛々するらしい。
 今日も溜息を一つついては憂鬱そうだ。
「何かありましたね」
 落ち着いた声音で、鹿野さんはそう尋ねてきた。
「…まあ、大したことじゃないんですが」
 気にしなければいいようなことかも知れない。
 人に話せば、ふぅん、で終わってしまうようなことかも知れない。
(でも引っかかるんだよなあ…)
 それに鹿野さんや同じマンションに住んでいる人以外に相談出来るようなことじゃない。
「犬って……目合わせてきますよね」
 さっき見たばかりの光景を思い出して僕は口を開いた。
「合わせてきますね」
 鹿野さんはさして興味がないような相づちをしてくる。
 でもここで「やっぱりいいです」と言うと追求されるのだ。
 以前、その態度が気になって話を中断したら「いいから話して下さい」と促された。
 朝は淡々としているだけらしい。
「猫は合わせてないんですけど」
「そうですね」
「あれって喧嘩しないためらしいですよ。目が合うと敵意があるって思うらしいです」
 僕は猫についての知識なんて思い出して、ついそれを零した。
 別にこんな話がしたいわけじゃないのに。
「チンピラみたいですね」
 鹿野さんは見た目も涼やかだけど、言うことも涼しい。
 朝だとその涼しさもキレがある。
「この場合はチンピラが獣レベルということなんでしょう」
 チンピラに恨みでもあるんだろうか。
 恩がある人は滅多にいないけど。
「それで?」
 鹿野さんは先を促した。
 その顔はそろそろ眠気も薄まってきて、何かを調べようとしているかのような視線に思えた。
 心の奥を見ようとしているみたいだ。
「テンも、よく目を合わせてくるんです。滅多に鳴かないんで、その分目で話しているみたいで」
「言葉が通じないと、目が何か訴えてきますね」
 鹿野さんにもそう感じる時があるようだ。
 動物と一緒にいると、意志の疎通は視線だけになるから。視線を無視出来ない。
 そこから色んなことを察知しようとするから、目っていうものを重要視するんだろう。
 だからこそ、僕は目が合わせないことが辛い。
「……でも最近テンが、目を合わせようとしないんです」
 黙っていても僕の中で不安が溜まっていく一方だ。
 ならいっそ吐き出したほうが良いと思った。
 人にしてみればくだらないことでも、笑い話にでもなったら気にすることないんだって吹っ切れるから。
「それまでずっと僕のこと見てたのに、突然見てこなくなったんです。喧嘩したわけでもないのに」
 何もなかったはずだ。
 二人の間に亀裂が走るようなことは何も。
 前もフェレットのまま元に戻らなかったことはあったけど、あの時は僕がきつく叱った後だった。
 テンの態度にどう接していいのかわからなくて、戸惑った結果があれだった。
 でも今はテンを叱る具合も、接し方もなんとなく掴めてきたと思っていた。
 それなのに、急にあんな態度をとられる理由がわからない。
 僕が何か酷いことをしただろうか。
 それなら目を合わせないどころか顔も見たくないだろうし。同じ家にいて何かと話もしないだろう。
「突然?」
「はい…突然」
「何があったわけでもなく?」
 僕はこくりと頷いた。
 何かあったのなら僕もこんなに悩んでいない。何とかしようと自力であがいた。
 でも何かあったとは思えない。いつもと変わりない日常を送っていたはずなのに。
「……目は口ほどに物を言う」
「え」
 鹿野さんは格言のようなことを言い出した。
 よく聞く言葉ではある。
 まさに今、僕たちが話していたことだ。
「それくらい目には自分の思っていることが出てしまうものらしいですね」
 鹿野さんはまたあくびをした。
 冷静に語っているが、真面目というわけではないらしい。
「知られたくないこともまた、出てしまうものかも知れない」
 鹿野さんが何を言いたいのか、僕はここでようやく理解した。
 喧嘩をしたわけでも、距離を置かれているわけでもなく。
「テン君みたいに感情が表に出やすい子は特に、目に出ることでしょう」
 そう、テンの目は雄弁だ。
 嬉しい時、楽しい時、悲しい時、落ち込んでいる時。
 他のどこよりも強く、その感情を僕に教えてくれた。
 だから僕はテンの目を見るのが好きだった。
 人間でも、フェレットでも、そこは僕に直接色んなことを教えてくれるから。
「隠したいことがあるのかも知れませんね」
「…隠したい、こと」
 ある日、突然隠し事が出来たっていうんだろうか。
 同居人で、飼い主である僕に話せないこと。
「それがどんな内容なのかは俺にもわかりません。貴方たちのことを全て知っているわけじゃありませんからね」
 隣人だからと言って、僕とテンの関係を知っているとは思えない。
 騒がしい二人だっていうことは知っているだろうけど、僕とテンがただの飼い主とペット以上の関係を持ったことが過去にあることも。
 テンが冗談抜きで、僕を好きだってことも。
 きっと鹿野さんは知らない。
 この関係が、酷く曖昧で、微妙で、不安定なことだって。
 僕とテン以外は誰も知らない。
「まあ、同居人にそんな態度をとるのはどうかと思いますがね。目を合わせないなんて、生活空間を同じにしていて、気分が良くないでしょう」
 鹿野さんは、自分なら叱りつけている、と言った。
 こうしていると怒鳴りつけることなんて想像も出来ないような落ち着いた物腰の人だが、実際はすごいらしい。
 豆吉君だけでなく、テンまで「鹿野さんはすげぇ怖い」と言うくらいだから、相当だろう。
(気分が悪いって言うか…)
 拒絶されているような気がして、どうしようもなく寂しくなる。
 前まではあんなに一緒にいて、目を合わせることも、笑い合うことも自然だったのに。
(……他に、好きな人が出来たとか、そういうのかな)
 僕に好きだ好きだって言っていたから、今更他に好きな人が出来ましたなんて言うのが後ろめたくて。
 目を合わせてくれないんだろうか。
(別に言ってくれればいいのに)
 言ってくれれば。
(あれは嘘だったのかなんて……)
 そう思わずにいられるだろうか。
 いや、きっと思ってしまう。だって好きだって言われて嫌じゃなかったから。
 あの言葉は聞いていて心地よかった。
(…何隠してるんだよ)
 テンは、何を抱えているんだろう。
 僕に言えない、何を。


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