犬の躾け方 5





 俺に恋着を見せて無駄話ばかりする女は、相も変わらず店に来ていた。だが俺は辟易しており極力姿を見せないように女を避け続けた。
 あまりにも頻繁に訪れるために路地さんの顔も段々渋いものになっていく。俺が出てこないと分かるとすぐに帰るようだが、いい加減何かしらの手を打つべきだろうという話になっていた時だった。
 仕事が終わりマンションのエントランスに入ろうとした、その俺の背後から有り得ない声が聞こえてきた。
「鹿野さんはやっぱりここにお住まいなんですね」
 振り返るとあの女が立っていた。
 職場から出て来た俺を着けてきたのだろう。しかも「やっぱり」という単語は色濃い危険性を匂わせた。もしかするとこれが初めてではないのでは、という予感を抱かせるには十分な言葉の選び方だ。
 ぎょっとした俺に女は微笑みかけてくる。自分がやっていることが相手に対して不快感を与えるなんてことは全く考えていない顔だ。
(気付かなかった)
 職場を出た際には一応周囲を確認したのだ。待ち伏せされていないかどうか警戒していたというのに、女は俺に発見されることなく付いて来たらしい。執念を感じさせる。そこまでする労力をもっと建設的なことに使うべきではないだろうか。
 黒いコートに黒いスカートと黒いブーツ。なるほど夜の闇に紛れやすい色ではあるだろうが、いっそ茶色の髪も真っ黒にすれば諦めもついたかも知れない。
 女はその茶色の長い髪を指で弄っている。なのに視線はずっと俺に向けられており、いっそ何かはっきり喋れば良いのにという苛立ちが沸いて来る。
(期待の籠もった目で何故俺を見る)
 ここまで来たことに関して何かしらのコメントが欲しいのか。俺の口から出てくるのは罵倒だけだとは思わないのか。
 第一声に何言うべきか、思案してしまった俺の背後から「あれ、鹿野さん」と飯塚さんの声がした。マンションの入り口で何故立ち尽くしているのか、不思議に思ったのだろう。
(帰宅時間が同じくらいで良かった)
 良いタイミングで来てくれたものだ。
「飯塚さん、豆吉を呼んできてくれませんか?」
 あいつはこの時間、家にいるはずだ。飯塚さんは俺と女を見て状況を察したらしい。
 俺がストカーまがいの女に困っているという話をしていたおかげだ。すぐさま緊張した面持ちになった飯塚さんは「分かりました」と言っては俺の横を足早に通り過ぎて行った。
 横目で女の顔を確認したが、女は不審そうな目を向けられていると分かっているのかいないのか、会釈をする。
「どうしてここにいるんですか?」
 黙っているのも嫌でそう問いかけると女は両手を合わせては笑みを深めた。
「たまたまこの近くに来ていたら、鹿野さんのお姿をお見かけしたんです。ついお声をかけてしまいました」
「お住まいからはかなり離れていると思います。ご希望の物件の近くでもありませんね」
 女がどこに住んでいるのか、客として来た時に喋った情報だ。当然引っ越し先の希望の土地も把握している。このマンションは女の希望にはかすりもしていない。
「この辺りもいいなぁと思ってたんです」
「聞いたことがありませんが」
「だって最近鹿野さんに全然相談出来なくて。いつもいらっしゃらないから」
 困ったように頬に手を当てる女に、少女漫画の世界に浸っているのだろうかと思う。そんな仕草が似合うような女にお目にかかったことがないのだが、目の前の女も滑稽な様にしかなっていない。
「このマンションに空いている部屋はないんですか?」
 女はマンションを見上げてはそう口にした。思わず「はあ?」というガラの悪い声が出そうになったけれど、さすがにまだ客であるだろう女を睨み付けるのもまずい。
 我慢の限界を目前にしながら、俺は溜息をついてなんとか気持ちを落ち着ける。
「ありません」
「空く予定もありませんか?」
「ないでしょう」
 本当のところ空き部屋はあるのだ。飼い主を待っているペットもいる。
 だが女がペットに選ばれるとは思えない。これほど自分のことしか考えず、他人の気持ちを一切読み取れないような身勝手な人間が、自分を愛することを強く求めるペットと円満に暮らしていくことは不可能だろう。
(俺も円満とは言えないがな)
 そして身勝手でもあるけれど、目の前にいる相手が持っているものが好意か不快感かも分からない女ほどではない。
「このマンションは特殊な物件でしてね。ペットと同居することが条件なんです」
「そうなんですか、変わってますね。鹿野さんはどんなペットと暮らしてらっしゃるんですか?」
 自分が暮らしている場所について語り始めた俺に、女は嬉々とした表情を隠しもしなかった。これまで出来るだけ自分のことを喋らずに女をあしらっていたからだ。
「私は犬と暮らしています」
「わんちゃん!可愛いですね。私もチワワを飼ってたんですよ」
 嬉しそうにしている女が犬を飼っていたと聞いて、なんとなく嫌な気持ちになる。共通点など一つも持ちたくないと思っているのかも知れない。
「今は?」
「脱走した時に事故で亡くしてしまって」
「………可哀相に」
「昔の話です。でもその時は本当に悲しくて、私はずっと泣いてました。友達が慰めてくれて」
 女は友達との絆をつらつらと語っているけれど俺の耳には入ってこない。可哀相なのは事故にあった犬だ。女のことなどどうでも良い。
 犬を脱走するような環境に置いている方がどうかしている上に、そもそも犬が脱走するという行動自体に違和感があった。俺が飼っていた犬は玄関が全開になっていたとしても外に出ることなどなかった。
 リードを俺のところまで咥えてきて、玄関が開いているなら散歩に行くのだろう、とおねだりをしてきたくらいだ。
「鹿野さんのわんちゃんはどんな子ですか?」
 女は俺が話を聞いていないことに気が付いたのか、俺の犬について問いかけてくる。無視されていることにめげてはくれないらしい。
「柴犬です」
「いいですね柴犬!素朴で従順で」
「ええ、飼い主は一人と決めると揺るぎがない」
 日本犬は飼い主に対して非常に忠実で情が厚い。その分他人に対しての警戒心が強く、気難しいところがある。日本人の特性によく似ているなと俺は思っている。
 群れを組むことが多く社会性を持つ生き物である犬だが、家族以外には懐きにくい、自分の懐に入れた相手以外は突っぱねることの出来る日本犬の性格が俺は好きだった。
 おそらく俺も酷似した感性を持っているからだろう。
「可愛がられているんですね。お顔が違います」
「……そうですね」
 女に対して表情を和らげるつもりはなかったのだが、犬のことを思うとつい目元や口元が緩んだのだろう。
 今更引き締めても遅い。それに豆吉のことが可愛いのはまごう事なき事実だ。
「私もわんちゃんに会わせて貰いたいわ。わんちゃんとの相性も気になるし。駄目ですか?」
 首を傾けてそう尋ねてくる女に、俺は自制出来ずに思いっきり眉根を寄せてしまった。
「何故?」
「鹿野さんとお付き合いを始めたら、いずれわんちゃんとも家族になるかも知れませんし」
「頭ん中がお花畑かよ」
「え?」
 堪えきれずに思わず口から本音が出てしまった。小声だったので女は聞こえなかったことだろうか、もはや聞こえても構わないという思いすらあった。
(誰が付き合うか。まして結婚?家族?反吐が出る)
 こんな人間と共に暮らせるわけがない。一人暮らしに慣れてしまってから、家の中に他人の気配がするだけでも落ち着かないのだ。心が安らがない。
 まして人の話を聞かない上に好意を押し付けてきて、俺に対して何も気を遣わないような人間と誰が暮らせるか。
 豆吉と暮らすのだって随分悩んだのだ。だが豆吉は犬でなく人間になった後も、その気配に苛立ちを覚えさせなかった。
 好意をぐいぐい押し付けてきて、たまに人の話も聞かずに暴走して、一人で拗ねて面倒くさい男なのに。それでも。
 俺の斜め後ろ、マンションから足音が聞こえる。ちらりと振り返ると俺より立派な図体が見えた。
(よく見た顔だ)
 知らない女が俺と話している。そのことに豆吉は警戒心と緊張感を抱いていた。穏やかそうな人相が今は険しくなっており少しばかり肩をいからせている。
 日本犬の特性を話した後だからか、その犬らしさに俺は少しばかり笑んでしまった。
「これが俺の犬です」
「……え?」
「俺がここで飼っている犬ですよ」
 豆吉が俺の隣に並び、俺は営業スマイルでそう言い切った。これまで女に向けてきたどんな笑顔よりも美しい形になっているだろうという自負がある。
 豆吉は俺が犬だと言ったことに目を丸くした。唖然としているけれど、否定することはない。それどころか俺よりも半歩ほど前に立っては女がどんな行動を取っても俺を守れるように構えているようだった。
「冗談、でしょう?」
「いえ、僕は亘さんの犬ですよ。飼われているんです」
 豆吉はどうやらこの流れに悪のりをするようだった。背も高く体格もがっしりとしている精悍な顔つきの男の口から、俺に飼われていると言われた女は、ぽかんと口を開けて豆吉を見上げていた。
 間抜けの面は、これまで散々迷惑をかけられてきたことを思うと爽快なものだった。
「柴犬、だって……!」
「柴犬に見えませんか?俺には見えますよ」
 冗談ではなく、本当に思っていることを告げると女の顔が引き攣った。
「俺と付き合いたいならこいつも一緒です。もっとも、忠義心が強すぎて俺以外の人間には尻尾を振らない。手を出せば噛み付く犬ですが」
 おまえなんて認めるわけがない、と女を突き放してやる。女は信じられないと呟いては頭を振った。現実として認めたくないと言わんばかりだ。
「どうかしてるわ」
 吐き捨てるような声に豆吉が身体を強張らせたのが見ていて分かった。傷付けられることに覚悟を決めたその背中を見て、俺は軽く背中を叩いてやった。
「ええどうかしているでしょう。だがそれが俺です。貴方とはご縁がないことも、もうお分かりでしょう」
 これが俺だ、俺の生き方だ。
 躊躇いなくそう言った自分に、これまで胸の奥にくすぶっていたものがようやく落ちた気がした。豆吉の頭を軽く撫でては「帰るぞ」と声をかけてマンションへと入っていく。
 女がどんな様であるのか見ようとも思わなかった。
「いいんですか?」
 豆吉は俺の後ろから付いて来て、耳元にそう囁いてくる。豆吉はちらりと背後を見ては気遣わしげな視線を俺に向けてくる。
「あれでしょう、亘さんのストーカーは。あの女、鹿野さんの職場に良くない噂を言い触らすかも知れません」
 手酷い振られ方をされた腹いせに、俺の誹謗中傷を職場に流して俺の信用を失わせるのではないか。そう心配する豆吉に、どう言ったところで男を犬として飼っていることに違いはないのだが、と少し可笑しく思ってしまう。
「あの女が何を言ったところで俺が迷惑していたことは職場の人間はみんな知っている。俺が堪忍袋の緒が切れて一芝居打ったとでも思うだろう」
「それならいいんですが」
「大体別に俺は間違ってことは言っていない。俺はおまえを飼っているし、俺と付き合いたい人間はおまえのことも受け入れるべきだ」
 無茶なことを言っているという自覚はある。常識どころか倫理観すらも飛び越えている条件ではあるだろう。
 けれど俺にとってはどうしても譲れない一線なのだから仕方がない。
「俺は恋人が出来た、結婚したからと言ってペットを捨てたりしない。一度飼うと決めたんだから死ぬまで世話をするべきだろう。当然ペットにも結婚相手を気に入って貰わなきゃいけない。ペットが気に入らない相手と同居や結婚をするなんて、ペットのストレスになる。良い環境とは言えないだろう」
「僕はどんな人が来ても亘さんの恋人、まして結婚相手だなんて認められません」
 固くなった声音に改めて豆吉を振り返ると酷く思い詰めた目をしていた。最近ずっと犬としての姿ばかり見せていたけれど、その裏ではずっとこんな風にひたすら自分の意思を固めていたのかも知れない。
「ならずっとこのままだ」
「……いいんですか?」
「良いも悪いも、ペットを飼ったら一生面倒を見るのは飼い主の義務だ。恋人とは簡単に別れられるが、ペットとは別れられない」
 口からはすらすらとそんな言葉が出て来た。
 考えてみれば豆吉は人間にもなれるせいで少し戸惑うだけで、ただの犬だったのならば俺は何も迷わずに同じことを言った。
 恋人なんて独立した一人の人間だ。自分の意思であらゆることが選択出来、俺に依存せずとも生きていくことが可能だろう。放って置いても生命活動を続けることは容易だ。
 けれどペットは違う。
 豆吉は少なくとも俺がいなければ、精神的に立ちゆかなくなってしまうことだろう。飼い犬が飼い主を失うことの恐ろしさは想像するだけ胸が引き裂かれそうになる。
 そんな思いを味わわせたくない。
「亘さん。お気持ちはすごく嬉しいですが、俺は普通の犬やないんです。寿命は人間と同じ、つまり一生というのは亘さんの一生とおんなじになるんです」
「そうだな。まあおまえは健康そのものだから簡単に死ぬこともないだろう」
「はい」
「俺は犬を喪う体験をすることもないってわけだ」
 豆吉がいることで、掴むことが出来ない未来があることは分かっている。それこそさきほどまで言っていた結婚だの何だのということは、おそらく諦めることになる。
 豆吉が俺に恋人を持つことを心から許すとは到底思えないのだから、自然と未来は狭められる。だが豆吉がいる未来を俺は握り締めることが出来る。
 これからずっと俺は、俺の犬を大切に可愛がりパートナーとして共に歩いて行くのだ。
(悪くないじゃないか)
 まして人間にもなれるのだから、一人で生きていくよりかは少しばかり面白いかも知れない。そして少しばかり厄介で面倒だ。
 それでも犬の可愛さによって溜息と共に受け入れられそうなものだ。
「亘さんとってペットは、かけがえのないものなんですね」
 豆吉はそれまで強張っていた全身から力を抜いたようだった。僅かばかり図体が小さくなったような気がする。犬が不安で全身を大きく見せようと毛を膨らませているようなものだったのかも知れない。
「犬の幸せは俺の幸せだという話はしただろう」
「はい」
「おまえのこともちゃんと考えている。だから勝手に不安になって拗ねるな。おまえは俺の犬なんだから、堂々と俺に付いてくればいい」
 常に一番近くにいるのが豆吉だ。他の誰も入り込むことが出来ない場所にいつだって存在している。
 なのに他人がやってくるかも知れない心配なんて、あまりにも無駄な悩みではないか。
 ペットという言葉の意味が、俺にとっては特別であることをいい加減理解するべきだ。
 傲慢さすらあるだろう俺の台詞に豆吉は素直に頷いた。
「はい」という返事の中には喜色すらも含まれていると感じたのは、飼い主の欲目ではなかったと思いたい。






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