犬の躾け方 4





 豆吉と呼ぶとくるんと丸まった尻尾を振って愛犬が駆け寄ってくる。その口に骨の形をした玩具が咥えられているのが見えて、俺は笑ってしまった。
(可愛い)
 とっくに成犬になり、俺に何かを命じられた時は気合いが入るのかきりっと精悍な顔も出来るのに。それ以外の時間はいつもふわふわとした表情でのんびりしている。子犬のような性格が抜けきらない犬だ。そんな性格も俺にとっては好ましいものだった。
 家にいる時くらい、自分を癒してくれるものばかりに囲まれていたい。格好良い犬も大好きだが、可愛らしい犬は大好きな上に心が和む。少し間抜けなところがあれば尚更良かった。
「おまえはこの玩具が好きだな。ほら、取って来い」
 骨の玩具を豆吉から受け取っては、部屋の隅に軽く投げる。豆吉は嬉しそうに走って行っては玩具に噛み付き、すぐにまた俺の元に走って持って来た。今日はこの遊びがしたいらしい。
 飽きるまで何度も繰り返しながら、俺は豆吉を良い子だと褒める。だが頭の中では豆吉が人間になっている姿を昨日から見ていないなと思っていた。
 おまえはペットだと言ってから、豆吉は俺の目が触れる場所では犬でいようと努力していた。それが豆吉なりのペットの在り方であり、俺に対する反抗なのかも知れない。
 心からその状況を喜んでいるわけではない、ということは人間の姿をしている時の目からして明らかだった。
 酷く物言いたげな視線を送ってくる。
 言いたいことがあるならば口に出して言うべきだ。人から汲み取って貰い、慰められるのを待つだけの年でもないだろう。幼児でもあるまいし、黙っているだけで相手が全部受け入れてくれるなんて思っている方がおかしい。
 だから俺はその視線に返事をしなかった。
 豆吉は犬の姿になってはいるけれど、大学生としての暮らしはちゃんと続けている。朝はちゃんと人間の姿で通学の準備をし、俺が仕事でいない間も家では人間の姿で過ごしていたのだろうという形跡がある。
 ならば何の問題もない。
 犬の時間が単純に増えただけ。それは俺にとっては都合が良い。豆吉だって犬の姿をしている時は俺に甘やかされてばっかりで、気分は良いはずだ。
(他のペットたちにとっては気にくわないかも知れないが)
 特にあの黒猫は、俺たちの現状を見れば顔を顰めて説教でも始めることだろう。ペットと飼い主はまるで恋人か夫婦のような関係であるべきだと、頭から決め付けている節のある少年だ。
 青春の真っ直中、飼い主である武蔵野さんとの関係しか頭には詰まっていませんという盲目的な考え方は、端から見ていると面白い。だがそれに巻き込まれるのは勘弁して欲しかった。
(その点、テンは見た目の割に冷静なことを言っていたな)
 豆吉が人間の姿になりたがらないことをテンは本人から何か聞いていたことだろう。
「鹿野さんの言い分も分かるけどさ、豆吉も馬鹿だから。ちょっとだけ考えてやって」
 さっき玄関先でばったりと会ったテンにそう言われて、俺はどう返事をすれば良いものなのか迷ってしまった。
(そういえば豆吉が人間だってバレた時も、テンが俺に注意をしてきたな)
 きっと俺がいない間に豆吉はテンに相談事をしているのだろう。テンは人の話を聞かなそうなタイプに見えるのだが、豆吉のことを心配しているということは、以外と相談事には親身になっているのか。
 ならば飯塚さんの話も普段からもう少しちゃんと聞いてやれば良いのに、と思うのは飯塚さんが俺と同じ飼い主の立場だからだろうか。
 豆吉に関しての返事が出来なかったので、俺は「飯塚さんも、テンが自分を恋人だと思ってるんじゃないかってことに悩んでいたぞ」と教えてやった。
 この前鍋を食べた時にちらりとだけ聞いたことなのだが、テンはそれに目を丸くしては自分の家のドアを勢い良く開けて中に入っていった。
 すぐさま隣の部屋から、テンが大声で何か言うのが聞こえて来た。飯塚さんも返事をする間がないほど、絶え間なくずっと喋っている。仕舞いには「ちょっと黙って!」と飯塚さんの怒声が響いた。
 隣は隣で大変なようだ。
「豆吉に恋人か」
 玩具を咥えて駆け寄ってくる子の頭を撫でる。嬉しそうに目を閉じては忙しなくなる尻尾を見て、自然と俺の顔面もだらしなく緩んでしまう。
「誠実そうで真面目で、実家は金持ちで、男前。そりゃモテるだろう」
 俺にとっては可愛い犬に変化する男、という見方しかないけれど。女性達にとっては将来有望で性格も穏やかな男前なんて、喉から手が出るほど欲しい相手だ。よりどりみどりで女を選べるだろうに、豆吉は俺を選ぼうとする。
 飼い主がいるからと、何の躊躇いもない真っ直ぐな瞳で告げるのだ。
(ペットは飼い主と恋人を同時に持つことは出来ないのか)
 飼い主を慕う気持ちと恋人へ向ける心は別、というように分けられないのか。ペットとして受ける愛と、恋人として受ける愛は異なるだろう。
(無理か。飼い主しか見てない生き方だ)
 豆吉は俺がいると、常に俺を意識しているようだった。俺の言動に注目しては、俺の心を読んで俺のために動こうとする。他のペットたちも反応は個々それぞれなのだが、飼い主に対して意識が集中していることは見て明らかだった。始終あれでは恋人など作る隙間もないことだろう。
 飼い主だけに執着して生きるのがペットの宿命か。
(ペットは自分を愛してくれる人が分かるなんて言っていたが、おまえは失敗したんじゃないか?)
 俺は豆吉が納得出来るような愛し方は出来ていない。だからこそ、こうして人間の姿を取ることなく犬としてだけ、構って貰おうとしている。
 頭の中にはショックを受けていた人間としての豆吉の表情が強く残されている。
 今もきっと、あの時の顔をしているのだろう。
「豆吉、今日は一緒に寝るか」
 そう誘うと豆吉は大喜びで俺の胸元に飛び込んで来た。柴犬の突撃に耐えきれず、俺は後ろに引っ繰り返っては声を上げて笑ってしまう。わふわふと豆吉の呼吸が聞こえ来ては顔を何度か舐められた。
「可愛いなおまえは」
 一緒に寝ようなんて台詞も、可愛いなんて感想も、人間相手には決して出せないものだ。だが犬の姿ならばごく自然に出てくる。
「俺の犬だ」
 他の誰のものでもない。俺だけの、たった一匹の愛おしい犬。
 ユエは俺が豆吉のことをペットだと言い切ったことに酷いと返してきた。
 人によってペットという響きにエゴイズムを感じる者がいることは理解している。
 ペットを自分の自由に扱うことが出来る物と勘違いをして、可愛いからと金で買い取り、飽きたら捨てる。自由を奪って虐待する人間もいる。
 虫酸が走る輩どもに対して普通のペットはされるがまま、抗うことも出来ない。
 だがこの犬は違う。豆吉は人間にもなれるのだから、逃げることも復讐することも出来る。一方的に所有されるだけではないはずだ。
 豆吉は愛玩動物としての地位を認め、自ら俺の元にいるのではないのか。
(ペットだからって、おまえは欲張ったじゃないか)
 愛されるために生まれ育った生き物としての特性を存分に活用して、俺に飼われることをごり押しして、俺に世話をさせて、あまつさえ俺にセックスまで求めて来ただろう。
 ペットだから、俺の犬だからと思って結局流されてやった俺の気持ちはどうなる。
 溜息をつきながらも豆吉を抱き締めた。あたかかいふかふかの身体に込み上げる憂鬱もまた少しずつ凪いでいくのだから、この生き物は本当に卑怯だと思う。



 犬の豆吉を抱え込んで寝たのだが、朝目覚めると人間の男に自分が抱き締められていた。
 何も知らない人間ならばパニックになるところだろうが、事情を理解しているだけに呆れるしかない。
 自分を抱える腕は力が抜けていて重い上に顔面が近く、寝息が額のあたりに当たってくすぐったい。せめて背中から抱いてくるならば分かるのだが、向き合った状態で密着されると身じろぎすらも出来ない。おそらく窮屈さに目が覚めてしまったのだろう。
 休日の朝なのだからもっと寝ていたかった。そう小さな苛立ちを持つのだが、あまりにも幸せそうに寝ている顔を眺めていると、そんな気持ちも馬鹿馬鹿しくなってくる。
(間抜けな面だ)
 起きている時よりも幼く見える顔は、大学生という若さを俺に伝えて来る。成人していてもまだ社会の荒波に揉まれたことのない子どもなのだと感じさせるに十分だった。
「……重い」
 俺よりも太い腕が身体に乗っているのが負担で、俺は腹に回っている腕を剥がしてやった。すると豆吉が軽くむずがる。
「ん……んっ?」
 あれ?という微かな疑問に、それは俺が言うべき台詞だったのになと思う。豆吉はうっすら目を開け、俺としばらく見詰め合う。どういう状況なのかよく分からない、という表情だ。
 言葉にせずとも顔を見れば思っていることが筒抜けというのは、犬らしいというか、単純な男だというか。
「犬との同衾は許したが、人間との同衾を許したつもりはないんだが」
「……すみません。すぐに戻ります」
 俺の注意に豆吉は見詰め合っていた数秒間の、ふわふわとした柔い眼差しを氷らせた。人間としての自分を拒絶されたと感じたのだろう。
 その過敏な受け止め方は俺のせいだとは分かっているけれど、苦いものがこみ上げて来ては豆吉の頬を軽く摘んだ。
「今日は寒い。もう少しこのままでも構わない」
 シングルのベッドに二人の男がみっしりと詰め込まれているのだ。狭すぎてベッドも悲鳴を上げていることだろう。寝返りも打てない上に、自分より体格の良い男の腕の中にいるなんて、本来ならば正気の沙汰ではない。
 だが目を丸くした豆吉が、すぐさま嬉しそうに笑っては改めて俺を抱き締めてくる様に、それらの難点が遠ざかっていく。今度はちゃんと腕の重みを俺に感じさせることなく、豆吉は自身の重みの置き場に配慮をしていた。
(……豆吉だ)
 神妙そうな顔や困った顔、悲しげな顔も犬そのものだと思うけれど。こうして喜んでいる姿が最も犬らしいと思う。
 やはり柴犬とこの男は同個体なのだ。
(俺の犬だ)
 犬の時だけに思っていたはずの感想を人間の男に対しても感じる。
 無意識に手が伸びては、豆吉の頬を撫でていた。豆吉は目を細めて俺に擦り寄ってくる。甘えているだろう、その行動に俺は胸の奥底が締め付けられるような感覚を覚える。
 懐かしい、喪ってしまった愛犬に対する思いが込み上げてきては「愛着」という文字が脳裏を過ぎっては消えていった。
 頭より先に、この身体はもうこの男に馴染んでしまったのかも知れない。



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