犬の躾け方 3





「鹿野さん、それって結構酷くないですか?」
 右隣に座っている飯塚さんがしいたけを摘みながら、控えめにそう言った。
 今日はテンがバイトでいないため、飯塚さんの部屋で鍋を囲んでいた。寒い日々が続くので仕事帰りにばったり会った飯塚さんと鍋が食べたいという話をしていた翌日だ。
 メンバーは俺と部屋の主の飯塚さん、武蔵野さんとそのペットであるユエ、豆吉が不在であるためこの面子になった。
「最低だな」
「ユエ、その言い方はちょっと」
 俺の正面にいる黒猫のユエが吐き捨てた台詞に、飼い主である武蔵野さんが注意しているがユエはつんっと冷たい表情をしたままだ。さすが猫、飼い主以外に媚びるということを知らない。
 一昨日、豆吉と交わした話の内容を三人に話したのだが。飼い主二人はやや気まずそうな表情を浮かべ、ペットであるユエからは睨み付けられた。ここまで反発を貰うとは思っていなかっただけに、少し意外ではある。
「だが事実だろう」
 豆吉はペットだ。武蔵野さんにとってのユエだって、飯塚さんにとってのテンも、ペットであることに違いはないはず。
 彼らも最初はペットたちが動物の姿である時に出逢い、同居を決めていた。飼い主とペットという関係から始まっているはずだ。だからこそここに住んでいるのだから。
「事実ではあるけど、今は別の意味だって加わってくるだろ」
「別の意味とは?」
「恋人関係だよ。アンタだって豆吉と寝てるんだろうが」
(嫌なところをつく)
 ユエは言葉を濁すことなく、俺と豆吉の関係を指摘した。セックスをするような関係がペットと飼い主とくくりのみに限定されるのか、ユエは俺を責めているらしい。
(だが肉体関係も俺から始めたわけじゃない)
 豆吉に求められて、それすら飼い主の役割なのかどうなのか悩みながら始まったものだ。未だにどこか納得出来ていない部分がある。
「そういう面もあるが、おまえたちは俺たちに対して恋人だって宣言するのか?ペットじゃない、恋人だと」
 そういうつもりならば最初から、それこそ出逢った時にでも自分たちは動物の姿をしているが普段は人間として暮らしていると。そして飼い主には恋人関係も求めると説明するべきだろう。
 そんなことは一切言わず、ただの犬のようなふりで俺に擦り寄ってきては、懐に入ってから人間だと暴露した上に、セックスを求めて来て、更に恋人になりたいと飼い主を束縛するなんて欲が過ぎるだろう。
「ペットと恋人が両立してもいいだろうが」
 ユエは鍋を食べるのを中断して、俺に対して真剣に言い返してくる。きっと飼い主である武蔵野さんと恋人になっている、もしくはなりたいからそうしてムキになっているのだろう。
 武蔵野さんは俺とユエが言い合っている様を、心配そうに見ている。会話が気になって箸を持つ手が動いてないようだ。
 飯塚さんだけは一人マイペースに鍋を食べている。テンのように始終落ち着きのない生き物と暮らしていると、これくらいに騒ぎでは何とも思わないのだろう。どんどん腹が据わって様は、飼い主もペットによって変えられてしまうのだなと思わせられる。
「俺は両立なんて考えには同意しかねる」
「どうして!」
「ペットはペットだ」
 俺にとっては当然の発言だったのだが、そのペットであるユエは気色ばんだ。
「じゃあアンタはこれから恋人を作る可能性があるって言うのか」
「豆吉と暮らしている以上その可能性はものすごく低いだろうが。無いとは断言しない」
 世の中には何があるのか分からない。
 恋人はいらない、結婚もしない。と俺は心に決めたわけではない。そんな気持ちがわいてこないことは確かだけれど、誰かに口頭であっても約束出来るものではなかった。
 ユエは肩を怒らせてはこたつの天板をバンッと叩いた。鍋の中身が揺れて、俺ではなく飯塚さんが動揺して「わ」と声を上げている。武蔵野さんに至っては飼い猫の行動に「落ち着いて」と小さく叱っていた。
 ユエはそんな飼い主の声を完全に無視していたが。
「それは飼い主としてどうなんだよ!」
「ペットを飼っている者が全員恋人を作らない、結婚もしないわけじゃないだろう」
「俺たちはただのペットじゃないだろう!?」
「そうだな、だが入居時に恋人を作らない、結婚をしない、なんて契約書は交わしていない」
 束縛される筋合いはない。そう突っぱねるとユエは不服そうな顔で溜息をついた。
「俺は始にそんなことは許さない。恋人だの、結婚だの。俺がいるのに」
「それは個人間でやってくれ。少なくとも俺と豆吉の間ではそんなものは取り決めていない」
 ユエと武蔵野さんがどんな関係を築くのか、どんな約束を交わすのか、そんなことは第三者である俺には何の関係もないことだ。
 二人の間だけで成立していれば良いだけのことではないか。
 武蔵野さんはユエの独占欲を聞いて苦笑いを浮かべていた。拒絶感も、不安もないらしいその表情を見れば、ユエの言っていることを認める心構えがあるのだろう。
「少なくとも俺はそういう取り決めをしていない」
「するつもりもない、ですか?」
「そうですね」
 武蔵野さんに問われ、俺はすっぱりと言い切った。それにユエがまたも顔を顰めたようだが、生憎男の機嫌取りをするつもりはない。代わりに飼い主がユエのお椀の中に豆腐を入れているので、それで十分だろう。
「それで豆吉君が拗ねたんですか?」
「たぶんそうでしょう。ずっと犬の姿でいます。俺にとってみれば犬の豆吉の方がずっと可愛いので問題はないんですが。拗ねているというポーズを取られるのはどうにも気に入らない」
 おまえはペットだろうと言った途端に、豆吉は犬の姿で過ごすようになった。普通の柴犬だと思い込んでいた俺に、本当は人間にもなるのだとバレた直後のような暮らしだ。
 あの時は本当に四六時中ずっと犬の姿になっており、大学も行かなかったようだが。現在はちゃんと大学には行っている。学生が学業をおろそかにするな、学費が勿体ないと言ったせいだろう。
 人間として最低限の暮らしはちゃんと営んでいる。だがそれ以外の時間は全て犬であり、それはペットだと言った俺に対する無言の抗議でもあるようだった。
 人間としての自分を認めていないのかと、責められているような気分になる。
(まあ、別に責めてこようが何だろうが。俺に聞くつもりがないから無駄だけどな)
 罪悪感に訴えたいのかも知れないが。生憎俺は自分の考えを改めるつもりも、人間としての豆吉と暮らしたいという気持ちもないので。現状に問題はなかった。
 ただ時折酷く物言いたげな目でじっと見詰められるのが面倒なだけだ。
 そんな豆吉は健在大学のコンパに連行されているらしい。友達のしがらみで逃げる事が出来なかったらしい。
「モテる人は大変ですね」
 飯塚さんが他人事のような顔をしていた。春菊って苦手なんですよ、と鍋の中身について喋り始めた人に、彼のペットのことが頭を過ぎった。
「テンはモテるでしょう」
 焼き肉屋でバイトをしている飯塚さんのペットは顔面が整っている上に背も高い。姉弟のツテでモデルのバイトもしているというのだから相当なものだ。
 性格も明るく活発なので、人からの好意も惹き付けやすいだろう。
「まあ……モテるみたいですね。女の子に告白されているところも見たことがあります。付き合って居る人がいるからって、断ってましたけど」
「飯塚さんと付き合ってるんですか?」
 テンは口を開けば自分の飼い主である飯塚さんのことばかり喋る。とにかく「亮平」という単語をあらゆるタイミングで出すのだ。
 仲がよろしいことで、と微笑ましくなるレベルをぎりぎり超えるか超えないかの線で会話をしてくる。もう少し頻繁だと「鬱陶しい」と感じるのだが、その辺りの線引きが上手いのも、人付き合いが上手な人間の特徴かも知れない。
 そんなテンにとって、付き合って居ると言える対象は飯塚さん一人だろう。だが飯塚さんは苦笑した。
「付き合って居る人がいるっていうのは、告白を断る時の決まり文句らしいです」
「テンは絶対飯塚さんと付き合って居るって思ってますよ」
 ユエが飯塚さんにそう強く言った。俺が豆吉の気持ちを汲み取らないのを聞いて、飯塚さんまでテンを無下にするのではないかと気分を害したのだろう。
「……まあ、そうかも知れない」
 飯塚さんは俺とは違って否定しなかった。曖昧な返事をしながら大根を口に運んでいる。だが少し困ったような表情を、俺だけでなくユエも見逃さなかったらしい。
「付き合って居るってことは、飯塚さんにとっては嫌なことですか?」
「嫌じゃないんだ。テンがそういう気持ちかも知れないっていうのは、さすがに分かるし。でもテンはあんなにも格好良いのに、僕が恋人って」
 釣り合わないのでは、と言いたいらしい。
(いや、貴方たちはお似合いだろう)
 テンは見た目は格好良いのだが、よく喋って落ち着きがなくテンションが高い。親しい人間を無意識に振り回しては、勝手に手を掴んでどこかに引っ張って行く。飯塚さんはそんなテンを叱りながらもしっかり手を握り返して、一緒に走るのを楽しんでいるようだった。
 目的地が分からない道を走ることになっても、飯塚さんは文句を言いながらも楽しめるタイプのようだった。
 俺では到底無理だ。というか顔面に釣られただけの女だってそんなのは無理だろう。楽観性と度胸と、深い愛情がなければ付き合えない。そんなもの飯塚さんくらいしか持っていない。
「飯塚さんがいいんですよ!」  ユエはテンの気持ちを知っているのか、それともペット代表のつもりなのか、飯塚さんに力説している。だが飯塚さんは「うーん……」と簡単には納得出来ないようだった。
「だったらテンが他の女を恋人にしてもいいんですか?」
「……どう、なんだろうね」
 飯塚さんが箸を止めて考え込んだ。駄目だと即座に断言出来ないところにユエが明らかにじれったさを覚えている。唸る飯塚さんに溜息をついては、睨むようにして俺に視線を戻して来た。
「鹿野さんは豆吉が彼女を作ったら歓迎するんですか?」
「俺の犬でいるなら」
「心は別の女のところにあったとしても?」
「犬の心が俺に元にあるならいい」
「人間の心と犬の心は同じです!豆吉の心は一つしかないんだ!」
 あくまでも人間と犬を切り離そうとしている俺に対して、ユエは切りつけるようにしてそう声を荒げる。「食事中だよ」と少し強めに注意するとユエは深く息を吐いて勢いを落としたけれど、それでも不満そうな顔は改めなかった。
「まあ、心は一つでしかないんだろうな。それは分かるが人間と犬の両方を全部認めて、向けられる気持ちを素直に受け入れろっていうのは無茶が過ぎるだろう」
「僕もそれは分かります。だって僕たちが選んだのはあくまでもペットですから。人間の男の面倒まで見ろ、慕われているから恋人にもなれ、って言われたら迷いますよ」
 俺や飯塚さんはあくまでもペットだけに惹かれたのだ。人間の男には興味もないし、出会い頭に人間の男である豆吉やテンに言い寄られてもなびかなかったことだろう。
 武蔵野さんはその辺がとても怪しく、ユエの顔面に押し切られた感があるらしいので、俺たちとは別だと判断しているけれど。それでもやはりきっかけは黒猫であるユエが可愛かったからだ。
 男を恋愛対象にして、ずっと一緒にいなければならない。それこそ死ぬまで世話をするんだ、なんて決められれば反発したくもなる。
「いつまで迷ってるんですか。テンと出逢ったのは昨日今日じゃないでしょう」
「人生最大の決断になるかも知れない問題だ。何年かかっても仕方がないだろうが」
「僕たちは恋愛対象は女性限定だった、ごくごく有り触れた男でしかないからね」
 俺と飯塚さんの真っ当な正論に、ユエは首を捻る。こいつの感性は一体どうなっているのか。
 呆れる俺たちの前でユエは自分の飼い主をちらりと横目で確認した。飼い主もまた迷っているのか気になったらしい。
 武蔵野さんはユエの視線に気が付いて顔を背けている。そこには俺たちと同じ躊躇が見て取れた。
(当たり前か)
 どれだけユエに押し切られたとは言っても、こんなおかしな生活を死ぬまで続けるのか、ユエとだけ暮らし続ける生き方で満足出来るのか。すぐに答えは出てこないものだ。
 しかし飼い主の反応にユエは目を座らせた。
「始?」
「怒るのは止めて欲しい……」
 今にも噛み付きそうなユエに武蔵野さんは小さくなっている。
 飼い主なのにそうしてペットの機嫌を伺うなんて、俺には出来そうもないなと思う。これを豆吉がやっていたのならば、態度がでかいと注意したことだろう。
 俺にはやっぱり猫を飼うのは向いていない。
「おまえたちは飼い主が男であることに不満とか、女が良かったとかはないのか。恋愛には到底ならないなんて気持ちもどこかにあるんじゃないのか」
「飼い主は飼い主だろう。女も男も関係がない。ペットになるやつの中には飼い主に性欲は抱かないタイプも結構いるけど、だからって飼い主が恋人を作ったり結婚するのを許すかってのは全く別の問題だからな」
 ペットになれる人間にとって、飼い主は男女の差を超えたものであるらしい。もはや飼い主という生き物として見ているのだろう。
 それだけでもペットにとって飼い主がどれだけ特別な存在であるのかは分かる。
(というより、ペットに性欲を抱かれなくても飼い主は結婚出来ないのか)
 恋人も結婚も出来ないのならば結果的に性欲があろうが無かろうがペット以外と生きていく道はない。
 それに納得する飼い主ばかりなのだろうか。
 俺の周りには現在、ペットの関係に関して嫌気が差している人間がいないので分からない。
「……おまえたちに迷いはないのか」
「ない。俺だけじゃない。豆吉もテンもない。それはもう俺たちの間ではすでに話し合ったことだ」
 そんなことは当たり前のことだと言わんばかりのユエに、俺はもう問いかけはしなかった。何を訊いても、結局俺の中にある靄のような感情が深くなるだけのような気がしたのだ。



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