犬の躾け方 2





「ストーカーがいるんですか」
 散歩が終わり、自宅に戻ると豆吉はすぐに人間になってはそう問いかけてきた。玄関で汚れた足を拭った途端、自室に走って行ったので予感はしていた。深刻そうな表情に、やはり路地さんとの会話を聞いていたのだなと知る。
 コートを脱いでコーヒーを入れたばかりの俺の隣に立って、豆吉はただでさえ大きな図体を一回り膨らませるようにして意気込んでいるようだった。
 あの耳の注意深さは確かだったわけだ。
「ストーカーじゃない。客だ」
「言い寄られていると聞きました」
「そう言えなくもない」
「そんな客がいるなんて知りませんでした」
 客に言い寄られることはままある。なのでいちいち気にするほどでもないのだが、そんなことを豆吉に言えば今よりも更に厳しい顔つきになることだろう。
 分かりきっている面倒事をわざわざ自分から引き寄せる馬鹿がどこにいるのか。
「言ってどうする」
「仕事の愚痴はよく聞かせてくれるのに、どうしてその女の人については話してくれないんですか」
「愚痴るのも面倒だったんだよ。思い出すのも憂鬱っていうか」
(厄介なことになりそうな気がしたんだ)
 丁度今のように。
「大丈夫なんですか?」
「何が?」
 豆吉の分のコーヒーを入れてやりながら、背中で話をしていた。振り返ればじっと俺を凝視する目があるのだろうなと思うと、気が重くてこのままそっぽを向いていたくなる。
「その人、ずっと亘さんのところに来るんでしょう?亘さんの気を惹くために」
「部屋を探すため、という理由はある」
「そんなの口実になっているって、あの路地さんも言ってました。接客から外して貰うことは出来ないんですか?」
「接客ならとっくに外れている」
 いつまでも付き合うことはないだろうと、少し責めるような口調に聞こえてさすがに豆吉の顔を見た。案の定思い詰めるような目をしている。
 コーヒーの入ったマグカップを押し付けると「ありがとうございます」と小さく答える。その時だけは少し目元が和らいだ。
「俺だってあんなめんどくさい客は嫌だ。他の担当に変わったが、それでも来る。俺しか手が空いてない時を狙ったかのようにな」
 もしかすると店の外でずっと監視しているのではないかと思うほど、あの女は俺だけしか接客出来ない状態の時にやって来ることがある。路地さんがストーカーかと疑ったのも、そのタイミングの良さがあるからだろう。
「追い返すことは出来ないんですか?」
「客商売だぞ。それにこれといった問題行動はないからな」
「亘さんに言い寄ってるじゃないですか」
「部屋について悩んでいるから俺に相談していると言える」
「言えますか?」
 俺のプライベートを聞き出そうとしている、と耳にしてしまった豆吉はとても懐疑的な目を向けてくる。気持ちは分かるのだ、俺だって文句は言いたい。だが仕事であるため、そう簡単に女を切り捨てられない面もある。
「言い逃れが出来るってことだ。暴力を振るっているわけじゃない。他の客に迷惑もかけてない。営業妨害だとは認識されないだろう」
 ひたすらに喋っているだけだ。
 部屋をなかなか決められずに悩み、いつまでも不動産屋の手を患わせる人もたまにはいる。その内の一人だと言われると、こちらも強く出られない。
「仕事だ仕事」
 豆吉にそう言いながらも、内心はものすごく不快感が溜まっていた。あれが仕事と言えるのか、という鬱憤が自分の中にあるからだ。それを他人に対して「仕方がない」と言わなければいけない不満は、結構辛いものがある。
 苦みを噛み締めながらコーヒーを飲んでいると豆吉が溜息をついた。
「亘さんはモテはるんでしょうね」
 方言の混ざった口調は、豆吉の感情が随分揺れ始めたからだろう。最初は耳馴染みのなかったイントネーションにも、俺はとっくに違和感を捨てていた。
「別に、そんなことはないが」
「いえ、男前なんは分かってます」
「おまえだってモテるだろう」
 大学の卒業を控えている豆吉の元には、毎日女からメッセージが送られてきている。コンパだの飲み会だの、長期の休みにもなれば旅行の誘いが幾つも入って来ていた。
 ゼミの飲み会があれば、夜中には八割の確率でマンションの近くまで女が付きまとってきていた。そのまま部屋に上げてくれと願われては、断るのに苦労しているのを目撃している。
 この男にモテるだろうと言われたところで失笑するしかない。
「僕はきっぱり断ってます。それらしい素振りがあったら距離も取ります」
「まるで俺がそうしていないみたいな言い方だな」
 距離を取ってもあれなのかと思うと、金持ちのぼんぼんでしかも顔立ちの良い男は大変だなと思わされる。
 しかし俺がまるでされるがままだと言わんばかりの台詞はどうにも聞き流せない。軽く睨むのだが、普段ならばそこで大人しく引き下がる豆吉が顔を強張らせた。
「お仕事やからしょうがないとは思てます」
「そんな顔じゃない」
 不満が全面に出ていると指摘すると豆吉がぐっと押し黙った。自分を落ち着けるためか、コーヒーを一口飲むのだが、二人してキッチンで立ったままこうして話をしていること自体、冷静さに欠いていることだとは理解していた。
「亘さんが恋人や結婚や言われる年なんは分かってるんです。なんもかも、分かってはいるんです。それでも俺はそういうのが嫌なんです」
「自分がいるだろうって言いたいのか?」
 あえて遠回しな言い方はしなかった。
 豆吉は叱責されたような表情で視線を落とす。
「……望みすぎですか」
 犬でいいからと、すがりついてきた豆吉を思い出す。
 俺たちの出逢いはあまり良いものではなかった。
 俺は柴犬の豆吉と暮らしたくて、この部屋に引っ越して来た。豆吉が人間になるなんて思いもよらなかったし、赤の他人と同居するなんてまっぴらごめんだったのだ。それがたとえ柴犬になる人間であったとしても。
 だいたいどうしてむさ苦しい男の面を見ながら生活をしなければいけないのか。体格も俺より良いので部屋も狭くなる。冗談ではないと突っぱねたのだ。
 だが豆吉が俺以外に飼い主は存在しない。捨てないでくれ、犬でいいから、犬のままで生きていくからと言って辛うじて同居を継続させたのだ。
 だが人間として生きてきた豆吉が、完全に犬になることなど出来るわけもなく。俺は渋々人間としての豆吉も受け入れて、妥協でここまで暮らしてきた。
 その妥協の上に、豆吉は価値を付けたいらしい。
「僕は自分が亘さんの恋人やそれに近いもんやって顔をしたいんです。そうやないと今日会った路地さんやって、亘さんにこれから女の人を紹介しはるんとちゃうますやろか?」
「あの人にそこまでの親切心はない」
 俺に彼女を作れなんて言うけれど、あの人が女を紹介してくることはないだろう。そこまで他人に対してまめな人間でもない上に、結婚したところで俺が喜ぶような人間じゃないことも察しているはずだ。
 彼女だの結婚だのということは、世間話の延長や、からかいでしかない。豆吉にはまだその辺りの意味のない大人たちのやりとりがぴんとこないのだろう。
「路地さんにはなくても、他の人にはあるかも知れません」
「それは止めようがない」
 お節介な人間にこれから出会うか出会わないか、なんてことは俺にだって分からない。
「僕がその抑止力になりたいと思うんは、自惚れですか?」
 マグカップ片手にそう問いかける豆吉に、どうにもしっくりこなかった。
 豆吉は自分を恋人だと認めて、俺の周囲に紹介しろと言いたいのだろう。
(こいつが、俺の恋人ねえ)
 立派な成人男性を改めて見て、恋人だと言うのに抵抗感がある。俺がこれまで過ごしてきた中で「恋人」というのは常に女性で、自分より華奢で可愛らしいものだった。
 それがいきなり真逆な生き物になったのだ。顔立ちは良いけれど、俺が求めてきた可愛さにはほど遠い。
 それに豆吉を恋人だと言われた周囲の人々も当惑することだろう。路地さんがぽかんと口を開ける姿が思い浮かぶ。
(別に他人がどう思おうが構わないんだが)
 それはそれで面倒事ではないだろうか。
 だが豆吉はそうして欲しいのか。恋人だと言って俺を友人に紹介したいのか、連れ回したいのか。
 どう想像してみても、全く納得が出来ない。 「自惚れというか……おまえは俺のペットだろう」
 結局思ったままの言葉を告げると豆吉は凍り付いた。
 黒目がちの瞳が見開かれ、息を呑んだようだった。
 どうしてそこまで驚愕するのか、俺には分からなかった。ただ空気が張り詰めていくのだけは肌で感じる。
(何故だ?)
 俺たちの関係は飼い主とペットであり、それを望んでいたのは豆吉ではないか。俺に飼い主になって欲しいと言っていたのは豆吉の方だ。
 疑問は沸いて来るのだが、軽率に口を開いてはいけない雰囲気だった。何か一つ間違えば、取り返しの付かないことになりそうな、そんな緊張感がある。
 俺たちの間にそんなものが漂うことだって、俺にとっては不可解だ。
 豆吉は見開いた瞳をゆっくり閉じた。そして肩を落としてはマグカップをキッチンのテーブルに置いた。
 中身はまだたっぷりと入っているが、飲む気になれないのだろう。
「亘さんの言う通りです」
 貴方が正しいと言っている。けれどその声の響きは到底その正しさを受け入れているとは言い難いものだった。むしろ間違っていると言いたいのを押さえ込んでいるような、苦しげなものだ。
「すみません」
 豆吉が頭を下げて自室に戻っていく。身体が一回り小さくなったような有様だが一体何に謝ったのかは分からない。
 バタンとドアが閉まる音がして、俺はまだ持っていたマグカップに口を付ける。少しばかりぬるくなったコーヒーを飲みながら、たぶん自分が失言をしたのだろうということは感じ取っていた。
 だがあの発言がまずかったのだとは、思えない。
(あいつは分からんことばっかりだな)
 柴犬の時には感情が全て尻尾や顔に出ていたのに。人間になると途端にその心の機微が見えなくなってしまう。
 それは感情を抑えることや、隠し事、嘘がつけるという人間の特性のせいだろうが。こうもがらりと心を閉ざして突き放されると、居心地の悪さを覚えてしまう。
(人間は厄介だな)
 犬だったならば、と思ったけれど何もかも今更だった。



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