犬の躾け方 1





 休日の真っ昼間に豆吉の散歩に行くのは気分が良い。真冬の空気も昼下がりには多少は穏やかになっている。
 日光が地面を明るくてゆっくりとぬくめているのだと実感が出来た。
(朝の散歩は凍り付きそうだからな)
 仕事がある日は出勤前の早朝に軽く散歩に出るのだが、風はあまりにも冷たく顔面に突き刺さり、心が折れそうになる。それでも口からはっはっと真っ白の息を吐いて尻尾を振る豆吉を見ていると、散歩に行かずにはいられなくなるのだ。
 可愛さと寒さの板挟みのようなものだった。けれど休日は寒さも和らぎちゃんと可愛さが先に立つので、精神的にも落ち着いていられる。
「あれ、路地さん」
 近所の公園を通り過ぎたところで会社の上司の姿が見えた。体格が良く、顔立ちが強面、しかも仕事中にはくたびれたスーツを着ているせいで、ぱっと見怪しい人にしか見えないのだが。休日は多少カジュアルな格好をしているだけに、やくざからただの職業不詳の中年になっていた。
「鹿野〜」
「何やってるんですか、こんなところで」
 路地さんは俺を見付けると片手を上げる。路地さんの自宅は近所どころか電車で十数駅離れている。職場を中心として俺とは正反対の位置に家があるのだ。
 意味もなくこんなところにいるわけがない。
「友達がこの辺で飲食店やってんだよ。オープンしたばっかだから冷やかしに来てくれって」
「そうですか」
 近所にラーメン屋がオーブンしたと豆吉が言っていたがそれかも知れない。路地さんの友人が経営していると思うと、途端にうさんくさく感じる。
「おまえはわんこの散歩か、仲良くやってるか?」
「平和に暮らしてますよ」
 ペットと同居することが条件の部屋を紹介してくれたのは、上司である路地さんだった。不動産屋に勤めているので部屋ならば選び放題だったのだが、あの部屋ほど俺を惹き付けたものはなかった。
 何しろ俺の大好きな柴犬が俺を選び、同居をしてくれと招いてくれたのだから。
(その柴犬が人間の男になるっていうのは、想定外だったけどな)
 やはり可愛い柴犬と立地条件の良いくせに家賃三万などという破格の部屋が何のリスクもなく手に入るわけがないのだ。
 甘い話には裏がある、そんなことは不動産屋に勤め始めてから嫌と言うほど分かっていたはずなのに、柴犬の可愛さに目が眩んでいた。
「撫でてもいいか?」
 散歩をしている犬を見て、勝手に触ってくる人間が多い中。路地さんはちゃんと許可を求めてくる。ましてしゃがみ込んで豆吉と目線を近付けようとしてくれるので、この人がきちんと犬と飼い主に配慮が出来る相手なのだと感じた。
 見た目はろくでもないのに、こういうところは決して人の神経を逆撫でしない上司だ。
「豆吉」
 ただの犬ではない豆吉は俺が声をかけると路地さんの手に頭をすり寄せた。気に入らなければつんと澄ました態度で顔を背けるなり、俺の足下に寄って来ては相手と距離を取るものだ。
 人懐っこい子なので、あまり素っ気ない態度を取ることはないのだが。自分から頭をすり寄せるという歓迎をするのも珍しい。俺の上司だからとサービス精神を出した可能性もある。
「お、人懐っこいな〜。鹿野はどうだ?優しい飼い主か?人間は好きじゃないが、犬は大好きらしいからな。家では赤ちゃん言葉で喋ったりしてんのか?」
「喋りませんよ、そんな自分の知能が著しく低下しそうな自虐」
 ペットに対して幼児語を使う人間は多いらしいのだが、俺はあの感覚がどうも理解出来ない。ペットにとっては幼児語も敬語も「人間が使う言語」だ。理解するのが困難であることに代わりがないというのに、普段自分が日常で使っている言葉遣いから変えてしまえば、益々ペットは理解しづらいのではないか。
 常に耳馴染みのある言葉遣いの方が、まだ微かに分かりやすさがある気がする。
「家賃は相変わらずまだあの破格の値段なのか?」
「まあ……管理費がそこに加わるんですけどね」
 家賃三万という値段の異常さは、路地さんも気になっているようだ。駅から十分の2LDKが敷金礼金なしで三万円なわけがない。不動産関係の仕事ならばまして、それがおかしいことは分かっている。
(実質家賃は八万なんだよな。豆吉が五万払ってるから)
 飼い主は三万、ペットが五万払っているというのがあの家賃の仕組みだ。ペット側の家賃が高いのは、飼い主側の家賃を安くして、その分契約し易くするためだ。
 飼い主を釣っているのだ、家賃の安さで。
「瑕疵物件じゃないのか?」
 家賃が安すぎる部屋は、ほぼ全部が何かしらの問題を抱えている。殺人事件があった、自殺者が出た、心霊現象に悩まされている、もしくは治安が悪すぎる等々だ。
「部屋にあるのはペットの爪痕か噛み跡くらいですよ」
「瑕疵って言うには、可愛すぎるだろう」
 なあ?と路地さんが豆吉の頭を撫でている。確かに言う通り、瑕疵というには可愛すぎる存在だが、人間に戻ると可愛さがどこにもないので俺にとっては瑕疵とも言える。
「おまえにとっては居心地良さそうだな」
「まあ……そこそこ」
「でも一人暮らし限定、来客も基本駄目なんだっけ?彼女も呼ぶことが出来ないなんて変な部屋だな」
「ペットが付いている時点で変ですから。今更それくらい何でもないですよ」
 入居契約の際、一人暮らししか認められないというのはままあることだが、来客にまで制限がかけられているのは俺も当初は不思議に思っていた。
 部屋に招くことが出来るのは親族のみだ。友人は勿論、恋人も呼ばないで貰いたいと大家に言われた時には何故なのかと尋ねたのだが。ペットが嫌がるからだと答えられた。
 そんなものは個体差によるだろうと、その時の俺は思ったものだが。今ならば分かる。
 ペットが人間に戻る場合など、飼い主以外に見られると問題が生じるからだろう。それに飼い主と二人暮らしの空間に他人が入ることを、ペットたちはみんな嫌がるらしい。
 おかしな契約の中身も、後になると色々見えてくる。
「そんなのじゃ彼女も出来ないぞ。犬がいればいいって、独身貴族みたいな台詞を言うつもりか?」
「まあ……」
「あの部屋に引っ越してから誰とも付き合ってないんだろ?いいのかよそれで。性格は悪くても見た目は悪くないから、女だって寄って来てただろ」
「性格が悪いっていう一言は余計です」
 彼女を作らないのか、という問いかけは以前ならば聞き流していた。
 彼女がいることは俺にとっては特に不利益でもなく、これまでの人生の中で何人かの女性と交際もしてきた。
 ただ仕事が忙しくて彼女に構っていられなくなって別れる、彼女の要望に応える気がなくなり別れる、そもそも相性の悪さを感じて付き合って居られなくなる、飽きる、等の理由で長続きはしなかった。
 長続きさせるつもりもなかった、というのが正解かも知れない。特定の誰かとの付き合いを大切に、いつまでも継続させたいと思ったことがない。
「おまえもいい年なんだから、身を固めてもいい頃だろ」
「路地さんが言うんですか」
「俺は一回結婚しているからいいんだよ」
「すぐに離婚したバツイチですけど」
「バツイチでも一度結婚したという経歴は残る。結婚に向いてないという学習も出来た」
「そういう経歴が役に立つとは思いませんが」
 バツイチというものは嫌がられるものではないだろうか。その経歴をわざわざ口にして誰かに教える必要もないだろう。
「結婚にトラウマがある、結婚する意義が分からなくなったっていう免罪符にはなる。言い寄ってくる奴を払いのける一つの手段にはなるだろう」
「苦労されているんですか」
 免罪符だの、払いのけるだの、随分と穏やかではないことを言っている。
 路地さんの見た目は厳ついけれど、顔立ち自体は悪くない、むしろ野性的な容姿を好きだと感じる女性は多くいるだろう。
 恋人になりたいと迫ってくる面倒な女も、いておかしくはないだろう。
 そんなどうでも良いことを考えていた俺に路地さんは呆れた目を剥けてきた。
「苦労してんのはおまえだろう。あの客、おまえ目当てにずーっと通って来てんじゃねえか」
「……ああ」
 最近、よく店に来る独身の女がいる。引っ越しを考えており、物件を見に来ているはずなのだが。俺が接客を始めてから、希望の条件がころころ変わっているのだ。
 駅から近いところがいい、家賃はこれくらいがいい。から始まったはずなのに、最近では物件の話より自分のプライベートの話ばかり延々喋っている。
 仕事の話はまだ多少分かる。収入の具合や、勤務時間が何時間であり、昼勤務か夜型なのかによっても住みたい部屋の条件が変わってくるだろう。夜型ならば深夜まで営業しているスーパーがあると便利であり、コンビニの有無も気になる。
 もしくは特殊な仕事なので、仕事に関係のある施設が近くにある方が良い。肉親や兄弟の近くに住みたいなどの希望も人によってはある。
 なのでプライベートの話もよく聞くのだが、女の話は到底部屋に関係するとは思えない。子どもの頃の思い出や、自分の食事や服の好み、これまで付き合った男の話までされるとさすがにうんざりする。
 何よりうんざりするのは、俺の個人的な情報を引き出そうとしてくることだ。
 職場の同僚にもしないような私生活の話題を、どうして客の女にしなければいけないのか。教えたところで俺に何のメリットがある。むしろ不快感しかない。
「あれ、そろそろ付き合って下さいって来るぞ」
「その一言を出せないのも、腕なんで」
 相手に決定的な台詞を出させてはいけない。出た瞬間断らなければいけないからだ。
 好意を無下にすれば客によっては怒り狂い、面倒なクレーマーになるかも知れない。だが告白されて付き合うなんてまっぴらごめんだ。死んでも回避する。
 ならばその前段階である。告白自体をさせなければ良い。
 それらしい台詞が出てくればすぐさま会話をぶった切り、出来るだけ淡々と退け、激高しないように抑えながら距離を取る。出来れば俺以外の社員に早々に女の部屋を決めて欲しいものだが、女自身が部屋を決める気がないのだから難しい。
 女の接客に当たらないように逃げてはいるけれど、いつまでも続けるわけにもいかないのが実情だ。
 実のところ、ものすごく憂鬱にはなっている。
「おまえの努力もどこまで続くか」
「さっさと諦めて欲しいと思ってますよ」
「あの女、目が怖ぇんだよなぁ……あれ、ストーカーになるぜ」
 路地さんの余計な一言に「止めて下さい」と言いながら、目の前で大人しくお座りをしている柴犬の耳が小刻みに動いているのが見えた。
(めんどくさいことになった)
 豆吉は犬の姿になっている時は、人間としての意識がほとんどないらしい。だが犬の間に見聞きしたことも、半分くらいは人間に戻った時もおぼろげに記憶しているそうだ。
 あの耳の動きや、ぴくりとも動かずじっとしているところからして、豆吉は俺たちの会話に集中している気がする。そしてこれほど集中して聞いていることは、人間に戻った時もその頭の中に残ってしまうのではないだろうか。
 もしそうなったら、豆吉はきっと俺のことを心配することだろう。



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