猫の気持ち 7
それから大半を人の姿で過ごした。 結局のところその方が都合が良いのだ。 テンの部屋から自分の荷物を運び入れ、実家からも日常でいずれ必要になるだろうものを持ってくる必要があった。 猫で過ごすならば自分の身体があれば充分だが、人間ではそうもいかない。 俺は前の暮らしを取り戻したようなものだが、始にしてみればどれもこれも初だ。 そのせいか戸惑っているのが感じられた。 そして時折しょんぼりとしている。肩が落ちているのをよく見かけるようになった。 目を合わせてくれることも少なくなった。もしかして俺が人間になることに対して不満なんだろうかと思ったのだが、殊更嫌がる素振りも、拒絶するようなことも言わない。 真剣に嫌ならば出て行けと言うだろう。 近くにいれば話しかけてくるし、挨拶の類もきちんと交わしている。同居人としては何の支障もないだろう。 ただ猫の時のような陽気さはなくなっているかも知れない。 笑顔は減ったような気がして、それだけは気になった。 猫が好きだからと思い猫の姿を取ると、舞い上がる。踊り出すような勢いで俺を構う。構われすぎると苛々するのに、そんなことは始だってよく知っているはずなのに、やたらとべたべたしてくる。 鬱陶しくなるタイミングを始はちゃんと計ってくれていた。なのにそれがここのところ完全に無視されているような気がした。 適切な距離を知っているはずなのに。 これといった爆弾ではない、ただ小さな引っかかりが積み重なっているだけ。 我慢出来る。あえて目を逸らすことも出来る。 だがそれはいつまで続くのだろうかという漠然とした不安があった。 他のペットたちもこんな感じだったのだろうか。自分が人間にもなれるとバラした直後はこんな気まずさがあったのだろうか。 しかしそうは思っても相談など出来ない。自分は上手くやる、始は俺を溺愛してるからと胸を張ったのだ。 蓋を開ければ始とぎくしゃくしました、なんて滑稽だ。 難なく出来ると言っていたじゃないか、と笑われた日には首を吊りたくなるだろう。 時間が解決するかも知れない、お互いに慣れれば自然と良い距離が掴めるだろう。 そんなことを自分に言い聞かせながら、また一日、一日と押し流していた。 自分だけの問題なら、どうとでも解決が出来る。けれど始の気持ちが大切なのだ。 一人で何かして、解消されるような現状ではない。 もどかしさを覚えながらも少しずつ自分の生活を整えようと実家に戻ったり、友達に会ったりしていた。しばらくメールもろくに送れなかったのだ。 少しの間音信不通だった俺に友達たちは事情を知りたがったが語れるようなことは何もなく、山ごもりをしていたなんて適当なことを言った。 実家では親に様々なことを報告した。こちらは隠し事がいらないので全て話し、母親にな意見を求めたりしたのだが。 「人それぞれ」という素っ気ない返事で終わってしまった。 だがその返事も尤もだと俺だって理解している。 母親と父親がこうだったから、始だってこうに違いないと判断するのは間違っているのだ。 始の心は始だけが持つものであって、会ったことも見たこともない他人が探れるはずもない。 漠然とした不安を抱えたまま、俺は実家からまた衣類や細々とした私物を運び出していた。 両手に鞄をぶら下げまるで家出のような格好でマンションに戻り玄関のドアを開ける。 するとそこには俺よりも大きな荷物を作った始がいた。 まるで同じ意識を持った者同士であるかのような情景だ。だが中身は全然違う。 家に荷物を入れようとしている俺に対して、始は出そうとしているのだ。 「何…してんだよ」 どくりと心臓が鳴った。そしてすぐにそれは警鐘のごとく脈を速めていく。 はっきりとした恐怖が全身を縛るようだった。 「君に話がある」 始は初めて見せるような、緊張した面持ちだった。 普段はのんびりしていて穏和な表情ばかりだから、その違いは恐ろしいほど差があった。 「出て行く、なんて言うなよ?」 そんな悪夢のようなことは言わないで欲しい。聞きたくもない。 俺はその場に荷物を落とし、始に詰め寄った。 「俺が嫌?人間になる猫は駄目か。俺と一緒に生きるって言ってくれたのに」 嬉しかった。 これまで耳に入ったどんな愛の告白よりもずっとそれは尊いものだった。俺の歓びだった。 「前の猫とのことだって乗り越えられそうだって、幸せだって言っただろ?」 猫は人間の言葉など明確には記憶出来ない。だがそれらしいことを言ってくれたと、俺は覚えている。 それだけ嬉しかった。猫を失う痛みは考えるだけで絶望に似ている。俺なら耐えられないだろうという傷だ。 それを俺が癒せるかも知れないと思ったのだ。癒せると信じた。 「人間になる猫じゃ駄目だってことかよ」 普通じゃないから、特別だから。異端だから。 だからおまえは駄目なのだと言うのか。 「そうじゃない」 「出て行くならそうだってことだろ!?」 口には出していない。けれど行動がそうだと示しているではないか。 「アンタの愛情ってそんなもんかよ!俺が世界で一番って!」 そう言った癖に、そう怒鳴りたかった。だが声は詰まってしまった。 みっともないと感じた。 もう始の心がここにないとしたなら、それを責めるのはもう遅いのだ。去っていく人を無様に引き留めるのは俺の性格が許さなかった。 だがそんな意識も爪を立てられたように乱される。 「気に入らないなら初めに言えば良かっただろ。なんで今、これまでどんな気持ちで一緒にいたんだよ」 もう無理だ。もう行ってしまう。だから喋ったところで自分に痛みを与えるだけ。そう理解してしまっているのに、黙ることが出来なかった。 こんなことは初めてだった。親と喧嘩をした時だって、友達と言い合いになった時だって無駄だと感じればすぐに口を閉ざして相手のことを完全に拒絶した。 そして感情が収まり、怒りに飽きるまで相手のことを無視していた。 それが正しい対処だと思っていた。それが自分にとっては一番合っている、傷にもならないやり方。 なのに始に対してそれが出来ない。 「僕は……君が人間になるなんて、知らなくて」 始は問い詰める俺から顔を逸らした。もう正面から見詰めることも嫌なのだろう。 口籠もり、はっきりとしない口調にも神経が逆撫でされる。罪悪感か、ここから逃げたいという気持ちの表れなのか。 「分からなくて……」 完全に俯いてしまって俺からは始の頭しか見えなくなった。 小動物みたいに小さくなられては怒りを向けることも非道である気がする。狡い。 「人間になったら、嫌いになった?普通の平凡な猫が良かった?」 「そうじゃないよ。そうじゃない、でも……特別って意味が分からなかったんだ」 「言わなかったからな」 どんな特別であるかなんて、出会ってすぐに明かせるはずがない。 そんな軽々しい真実じゃない… 「……言えなかった、俺は、アンタが」 同居して、俺のことを大切にしてくれる始に飼われたいと思った。 やはり飼い主はこの男なのだと思った。信じた。だから、だからこそ俺は自分のことを早く言いたかった。こういう猫であり、人間だと本当の自分を知って欲しかった。 だが同時にそれをずっと躊躇っていた。 「アンタが俺のことを知って、出て行くのが怖かった」 怖いだなんて。とても弱く間抜けで、情けない台詞だ。 絶対に言いたくないことであり、俺はこんな言葉を言うのは極力避けてきた。 だが今はそれを言わざる得なかった。 俺の本音だったから。 これが終わりになるとしても、ならないとしても、俺の気持ちを始に聞いて欲しかった。 「でも俺を一番だって、俺を大切にして受け入れてくれるって思ったから。だから言ったんだ」 だが現実が目の前にある。 「見当違いだった」 自分で、自分を傷付けた。苦しい言葉をあえて口にした。 痛みが走ったけれど、始と決別をつけるための第一歩にはそれが必要だった。 「出て行けば?俺は新しい飼い主なんて見付けられそうもないけど、アンタは別の猫をいくらでも飼えるだろ。十年そこそこしか一緒にいられないけど、人間にもならない平凡なただの猫が」 自分の飼い主は始だけだ。きっとこれからもずっとそうだろう。 運命なんて鼻で笑ってしまうようなことを信じていたから。夢見がちで生きてきたから。きっと今更それを捨てることは出来ない。 けれど始は別だ。生まれた時からずっと何かを探してきたわけじゃない。 ただ猫が好きなだけの男だ。 代わりならいくらでもいる。 残酷な違いだった。 「何年でも、何十年でも、俺は人間のスピードで年取るからずっとアンタの猫でいてやれるのに!」 あんな風に嗚咽を零して、息をするのも苦しいと言うような泣かせ方はしない。 何よりも辛い、遠すぎる切ない別れをすることもないのに。 ずっと始に甘えた声で擦り寄ってやれるのに。それでも始の猫は俺じゃない。 勢いに任せて懇願のような怒声を浴びせると、始は固まっていた。 そして唇をわななかせる。 泣き出す一歩手前の反応に、俺は怒りを収めてぎょっとした。 「ほ…本当に?」 「え?」 「き、君は。人間のスピードで年を、取るの?」 「当たり前だろ。俺は人間だからな」 猫だ猫だと主張しても、所詮拒まれるのならば人間だと言った方がまだ自分に対する慰めになる。 当てつけのように人間だと言うと始の表情が歪んだ。 「い、一緒、側にいてくれる?さよなら、しない?」 始の双眸には見る見る内に涙が溜まっていく。それはあの日、電車の中で見た顔によく似ている。 寂しくて寂しくて死んでしまいそうな瞳だ。 「……しないよ。アンタが大切にしてくれるなら」 前の猫の痛みを乗り越えられたなんて嘘だ。 だって始はまだ、こんなにも痛がっている。こんなにも寂しがっている。十八年の歳月はまだまだ始の中で生きているのだ。 「僕より、先に、死んだりしない?」 涙が頬を伝っていく。 その涙をかつては拭った。けれど俺の手はまだ惑っていた。 出て行く人を引き留めるような動きに思えた。 「アンタが必要とするなら、俺はアンタの猫だから」 そう願っているから。 そう告げると始は膝を折った。そして手で顔を覆って呼吸を震わせた。 もう置いて逝かれたくない。その丸まった背中はそう言っていた。 まるで家族を、恋人を失った人のようだ。それだけ猫を愛していたのだろう。 見たこともない猫が始の中にいる。 俺は唇を噛んでざわつく精神を必死に抑え込んだ。 その猫が羨ましくて、自分の無力さに腹が立った。 もうここで終わってしまうなんて。 |