猫の気持ち 8





 顔を覆った掌に、きっと涙が落ちている。
 目の前で懺悔のように膝を折って丸くなる男を抱き締めたかった。
 けれど口からは正反対の、冷えた声が出てきた。
「でもどれだけ俺がアンタの猫になりたくても。アンタは俺を捨てるみたいだけど」
 ユエ、と呼んでくれた声をもう一度聞きたい。
 だが届いてくるのは震える吐息だけだ。
 そんなに過ぎた願いだっただろうか。大それた夢だっただろうか。
 泣きたいのは俺だって同じだ。
 悲しいのか恨めしいのか、恋しいのか腹立たしいのか。感情がごちゃ混ぜになって整理出来ない俺の前で始は首を振った。
「い、いか、いかない」
 嗚咽のせいでなかなか上手く喋れないらしい。
 だが捨てられると思った俺の耳に、それは光のように届いてくる。
「行かねぇの?」
「い、いかないっ」
 今度はちゃんと力のこもった声だ。
 どうやらここから出て行く気は失せたらしい。
 脱力した。
 どうやら今すぐお別れということにはならないらしい。ひとまず最悪の事態は回避出来たらしい。
 だが素直に喜びを見せるのは癪だった。
「なんで?一緒に生きていけるから?先に死なれる確率が低くなったから?都合いいな」
 意地の悪い言い方をした。だって振り回されたまま、やられっぱなしで元の木阿弥になるなんて嫌だったのだ。
 泣きたくなるような気持ちにまでさせられて、はいこれまでのことはなかったことにして下さいなんて、頷けるはずがない。
「ちが、出で行くつもりなんて……」
 ひくっと喉がしなる音に俺は気まずさを覚える。責めててしまえば始はもっと泣くだろうか。
 痛そうな様はあまり見たくない。
「なら、なんで」
 完全に見下ろしている体勢も後ろめたくなって俺はしゃがんだ。
 始は掌を顔から外して目元をこすった。
 赤くなった目尻が見えて、舌を這わせたくなる。
「きょ、距離置いた方が、いいと思って。冷静に、なりたかったんだ」
「なんで、てか今冷静じゃないの?」
 距離を置く、という表現に良い印象はない。
 これから疎遠になろうとしている相手に取る行為ではないか。しかも冷静になりたいだなんて、これが何の考えもなくただ流されただけの現実みたいだ。
 そういう風にしてしまったのは俺かも知れないが。
「だって実感が、ないんだ」
 始は泣いているのが恥ずかしいのか片手で目元を隠す。
 惜しんでしまうけれど、それを無理矢理外すと怯えられそうだ。
「俺のことが信じられないか」
 まだ猫と人間が繋がらないだろうか。自分の身体がどうなって猫に変わっているのか、実際に変化の場面を見せられればいいのだが。本能がそれを許さなかった。
 ベッドの中に潜り込んで、全身を隠さなければ変化が出来ない。そのせいでまだ半信半疑なのだろうか。
 だがいくら直接見ていないと言っても、ベッドに猫が入って行って出てくるのも人間だけという様を何度も見ていれば嫌でも納得しそうだが。
「そうじゃない、君が、猫なのは分かってる。君が嫌なわけでも、ない」
 戸惑うけど……と言いながら始は大きく息を吸った。
 少しずつ呼吸が整ってきているようだった。
「でも…君は、これでいいの?」
 始は手を外し、ようやく俺を見た。
 濡れた瞳は舐めると美味しそうで、こくりと喉が鳴った。
 何をされたわけでもない、殊更エロいことを言われたわけでもない。なのに始の姿にはどこか誘われていると感じた。
「まだ高校生だろう?これから色んな人に会うだろう、君なら他にも飼い主になりたいと思う人はいる。今は初めて飼い主を持ったら舞い上がっているけど、冷静になったら後悔するかも知れない」
 俺の唯一の飼い主はそんなことを真面目に語っている。
 一生懸命俺のことを考えてくれたんだということはしっかり伝わってくるのだが、嬉しいというより「馬鹿じゃねぇの」というのが本音だった。
 おかげで眉と眉が寄ったことだろう。
「俺の飼い主はアンタだけだ。若いからって自分の飼い主を間違ったりしない」
 始は猫じゃないから、ペットじゃないから分からないのだ。
 自分にとってのたった一人の飼い主と出会った時、どんな衝撃を受けることか。それは他の誰にも感じることのない感動だ。
 本人すら一度も疑ったことのない、間違いだの、他の飼い主だの、という不安を始が抱くなんて呆れてしまう。
 どこか抜けている人だと思ったけれど、こんなところまで間抜けだなんて。
「アンタだけが飼い主だ。だから俺はあんな電車の中でアンタに声をかけた。絶対に、始しかいないから」
 まるで愛の告白だ。けれどそう取られても、事実そうなっていても構わないと思った。
 だってこれから先、別の誰かに言うつもりもなく、そして始がこれで俺と生きていく事を決めてくれるなら簡単なことだった。
 嘘偽りのない感情を言葉にしただけのこと。
 始は俺が言い終わる前に顔を背けた。もう言わないでくれ、という拒絶に俺は駄目なのかと内蔵が冷えていくような心地だった。
 だが何故か始は次第に耳を赤く染めた。
「君は、怖い。そんな顔で、そんな真っ向から……怖いよ」
 怖いと言われる理由の見当が付かず、はぁ?と疑問の声を上げる。
 すると始はぎゅっと拳を握った。
 殴りでもするのかと思ったのだが、硬直したままだ。
「猫は美人過ぎるんだ。しかもその破壊力を知ってるからたちが悪い。猫の時だって御飯ねだるのに人の足に伸び上がってあんな可愛い声で鳴くし。人間の君だって自分が格好いいこと分かってるんだろ?」
 うぅと恨めしそうな声を漏らしながら、始はぼそぼそと喋る。
 怖いだなんて言い出すから、一体何を思っているのかと思えば人が格好いいだの何だの。褒めるならもっと分かり易く、そしてもっと嬉しそうに褒めてくれれば良いのに。猫の時はちゃんとそうしてくれていた。
 人間同士だから照れるかも知れないが、飼い主なんだから褒める時は目一杯やって貰いたい。
「分かってるそんなの。ぶっちゃけ使えるもんは使うだろ」
 頭だって顔だって、自分自身のものだ。有効であると判断したなら最高に引き立てられる方法で使用するに決まっている。
「ずるいよ、卑怯だ」
 そっぽを向いたままだが、始の顔が真っ赤であることは首まで染まってしまった肌でよく分かる。
 そして俺は溜息をついた。
 なんて阿呆らしいことか。
 つまりこの飼い主は俺のためを思って、一時的に離れようと思っていたのか。そして俺の格好良さに落ち着かなくなってきていた。それもこれも他人事なら「馬鹿か」と吐き捨てるところだ。
 だがそんな馬鹿っぽいところも、自分の飼い主であるのならば好ましく思えた。
 馬鹿な子ほど可愛いというのは何もペットに対して限定されるものではないのだ。
「そんな猫が好きなくせに」
 自分が大切にされている、求められているという事実は揺るがないものだ。怖がることなんて何もない。そう信じられた自信が、俺にそんなことを言わせていた。
 そして始はその自慢を後押しするように、しばらくしてからゆっくりと頷いた。



「明日卒業式だから。今日は実家に泊まってくる」
 仕事が休みであり、のんびりしている始にそう告げる。
 二人でコーヒーを飲みながら始は猫雑誌、俺はパソコンを開いていた。
 のんびりとした、どんな悲しみも入り込んでこられないと思えるような優しい時間だった。昼下がりの暖かそうな日差しが差し込んできているのも、そんな心境を増長させていた。
「高校の卒業式?」
「そう。ここから行けないこともないけど時間かかるし。制服着ないといけない」
 高校の制服は実家に置いたままだ。持ってくる必要がなかった。
 試験が終わった後も登校日というものはあったのだが、数日無視している。別に登校しなくとも問題がなければ始の側にいるのが当然だ。
 始は俺が制服を着ているところが想像付かないのが、まじまじと眺めては「不思議な感じだ」と呟いた。
「卒業式が終わったらずっとここにいる」
 もう実家に戻ることもない。毎日この部屋から出掛けて、この部屋に帰ってくる。
 これから二人で暮らしていくのだ。その決意を込めて告げると始は少し微笑んだようだった。
「大学生になるんだね。宮園に行くんだっけ?」
「ああ」
 結局大学は受かっていた。落ちることを考えていなかったので、合格を目にした時には嬉しさよりも当たり前だなという感想しかなかった。
 この辺りが嫌味な人間と言われる証拠だろうが、性分なので仕方がない。
「お祝いしないと。何が欲しい?スーツとかもう買った?」
 入学祝いということだろう。予想していなかったので、答えがとっさに出てこなかった。
 始はスーツというが、今日の夜に出掛けた際親がオーダーメイドで作ると言っていた。
 見栄えのする、しっかりとしたものを作らないとね。と母親は気合いを入れていた。人を着飾るのが好きなのだ。
 しかし始に何かを買って貰う、というのはとても魅力的だった。
「それともキャットタワーにしようか?」
「いや、スーツ。まだ買ってないし」
 キャットタワーはすでに家にある。前の猫の物なので俺はあんまり好きじゃない。それを始も感じているから新品の物を買ってくれようとしているらしいが、せっかく人間の俺も嫌じゃないと分かったばかりだ。
 猫ならもういっぱいプレゼントを貰った。だから今度は人間のプレゼントが欲しかった。
「なら今度の休みに一緒に行こうか」
 その誘いに俺は内心舞い上がっていた。初めて二人で目的を持って出掛けるのだ。
 これまでコンビニに行くくらいしか、二人で並んで歩いたことがなかった。
 またこれで始に近付ける気がする。
「吊しの服なんか着ないからな」
 嬉しい、それこそ犬ならぶんぶん尻尾を振っていたところだろう。だが俺は猫だ。つんっと澄ました顔のまま、そんな可愛くない台詞を口にする。
「う……あんまり高いのは無理だよ。高給取りじゃないんだからな」
 胸の辺りに手を当てながら、始は表情を陰らせる。
 しかし次の瞬間には何か思い付いたように「あ」と言った。
「どんな安物でも君が着たら上品に見えるから大丈夫」
 笑顔でそんなことを俺に向かって言う始は、完全にペット自慢している飼い主の顔だった。
 うちの猫は美人だ。そうとろけるような声と共に言う時と全く同じ表情に俺まで笑ってしまう。
 やはり褒め言葉は耳に心地良い。まして始が俺を見て幸せそうに目を細めている。
「当然だろ」
 この飼い主が好きだ。そう感じながらも、俺の口から出てきたのはそんな素っ気ない返事だった。





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