猫の気持ち 6
腰を振りすぎて、かなり下半身が怠い。 深夜まで頑張って始を喘がし続けた。もう最後の方は声が掠れて、泣きながら許してと言っていたような気がする。 絶対に嫌だ、と切り捨てたけれど。 大体人のもんをちゃんと気持ち良さそうにくわえ込んで置いて嫌も何もあるか。 くあ…とあくびをしながらリビングを歩く。 昨日人間に戻ると決意していたから、自分の服をクローゼットの奥に隠して置いたのだ。だから今日はちゃんと全裸ではなく服を着ている。 まだちらりと雪が降るかも知れない気温中。全裸で歩き回るなんてもう勘弁したい。 朝と言うには遅い時間。だが目覚めてすぐに食べる飯は朝飯だろう。 軽くパンでも焼いて腹拵えをする。 今日始が休みであることは把握しているので、無理に起こす必要はない。 むしろ寝かせてやる方がいいだろう。 それにしてもずっとここで暮らしていたはずなのに、人間の姿で椅子に座って周りを見渡すと新鮮だ。 目線が変わると、受ける印象も異なる。液晶テレビはそんなに大きくなかったし、キッチンには思っていたよりものが少ない。冷蔵庫の中身も乏しく、そういえば始はあまり食事に興味のある方ではなかったかも知れない、と気付く。 始のマグカップにコーヒーを入れて勝手に飲む。客用の食器などなく、あるのは始の物だけなので仕方がない。 チーンと軽快な音がしてパンが焼けたことを知らせる。 毎日パンを食べているのに苺ジャムしかなく、マーマレードならばともかく苺ジャムはなぁとやや萎えながらもそれを薄く塗っていると寝室から始が現れた。 ドアに寄りかかり、疲れ果てた顔をしている。 あれだけヤったらきついらしい。 当然と言えば当然。そしてどうも始は男とヤったことなどなく、始終困惑していたのでまして、なのだろうと思いながら眺めていると、始は俺を見て凍り付いた。 その反応に、俺はものすごく嫌な予感がした。 しかし初めて人間の俺を直視し、勢いで寝たのだ。 翌朝気まずくなる、ということもあるだろう。 それにしてもあまりに直視されるので、俺は先に目を逸らしてしまった。 どうも視線を交わし続けるのは神経がざわつく。 「……君……ユエ、だよね?」 うわっ、と思わず言いかけた。 やはりそうだ。この男、またあれが夢じゃないのかと思っているのだ。 あんだけヤっといて夢じゃないのかと思っている時点がどうかと思う。 「そうだよ」 ぶすっと膨れた態度でそう答える。 「本当に…?」 「だからそうだって」 パンに齧り付きながら、投げやりに答える。 どれだけのことをすれば、すんなり現実だと認めるのか。 「夢じゃなかった、のか?」 「現実だっての。腰とか色々痛いだろ。それとも中に残した方が良かった?」 礼儀としてゴムを使用したのだが、いっそ使わない方が現実味が増したのではないか。 始の負担になるので止めたのだが。こんな質問を受けることくらいなら出して、朝になったら掻き出すなり何なりすれば良かった。 しかしむっとしながら始へと視線を戻すと、始は顔を真っ赤にしていた。 羞恥を感じているだろうその様子に、俺はコーヒーを吹き出しそうだった。 思春期の女のような反応ではないか。そんな時期は十年くらい前に過ぎているはずだが。 口元を手で覆い目線を斜め下に向けているので眼差しが重ならないのを良いことに、まじまじと見詰めてしまう。 「でも、猫、だったじゃないか」 羞恥を押し殺したのだろう。掠れる声にそう尋ねられ、俺ははっと我に帰る。 「人間にも猫にもなれる。俺はそういう生き物なんだよ」 「嘘だろ……だって、目は金色じゃない」 怖ず怖ずと上目遣いをされ、昨日散々使ったはずの下半身のものが疼くのを感じた。自分はそんなに盛る方ではないと思っていたのだが、違ったらしい。 「人間の姿で目が金色が目立つだろ」 「そうだけど……」 どこからどう見ても日本人、という見た目でまして黒髪だ。目だけ金色だなんておかしいだろう。猫になれるという特質を持っている上に容姿まで奇妙だったなら生き辛い。 「コーヒー煎れてやるから座れよ。パン食うだろ」 動きたくないだろう始を促して椅子に座らせた。俺は立ってお湯を再び沸かしたり、パンをトーストに入れる。 そして残念ながら椅子は一つしかないので必然的に俺は立ったままだった。 こうして見ると始も思っていたより小柄だ。 「ここにいるペットはみんな人間の姿になれる。そういう奴らを集めたマンションなんだよ」 始はあんぐりと口を開けた。舌の上に何か載せてやりたくなるが、生憎手元にはぽいと放り込めるようなものはない。ジャムでもいいかと思ってスプーンですくった時にはもう口は閉ざされていた。 「本当に…?」 「疑うなら後で他の住人に訊けばいい」 すくってしまったジャムをそのまま、俺は答える。パンが焼けた時にこれを塗ればいいだけの話なのだが、無性に悔しかった。 「……鹿野さんも猫だったりするの?」 マンションの住人たちがペットになれると知った瞬間、始は間違いなく他に猫がいないか探るだろうと思ったのだが思った通りだ。 そして鹿野さんに目星を付けるところまで予測していた。 「あそこは豆吉が柴犬になる。鹿野さんは普通の人間」 どれだけ性格も見た目も猫っぽくても、ペットは豆吉だ。 しかし始は「そう……」と明らかに落胆していた。 他の人に興味を示すのは正直面白くないので、その落胆も少しばかり引っかかった。だが鹿野さんは猫じゃないし、目くじらを立てるほどでもない。 そして鹿野さんは人間はあまり好きじゃないと言っていたし、事実そんな感じの人だから始と特別仲良くなることもないだろう。 むしろ鹿野さんは愛犬家繋がりで荻屋さんの方が相性がいいらしい。 「大家さんはルディさんがペットだってよ」 「そうだろうなぁ……大家さんは飼い主さんぽいし。ルディさんは……うさぎ?」 始はペット当てに関心を向いたらしい。 コーヒーを渡してやると、口を付けながら思案している。 「犬のゴールデン」 「ああ…そんな感じだ」 金色の毛並みをした大型犬を示すと始はその姿を思い浮かべたのだろう。よく似合っているというように頷いた。 「もしかして、そういう変わったマンションだから家賃三万なの?」 「家賃の半分は俺が払ってるし」 破格の値段だと思っていた家賃は、実はその倍だったのだと説明すると始は「だよな」と苦笑した。 そしてトースターが軽快な音を立てたのをきっかけに俺は程良く狐色になったパンに先ほどのジャムをこれでもかというくらいに塗りたくった。 俺が食べるなら絶対に勘弁して欲しいというような量、一面真っ赤なパンを作って始に渡す。 始はそれをごく自然に受け取り、嫌な顔一つせずにかぶりついた。 これが始にとっては普通の朝食だからだ。 こっそりと心の中で引く光景だった。 「ユエに御飯あげないと」 一口パンを食べたところで思い出したように始はそう言った。がたりと椅子から立ち上がる。 「もうパン食った」 わざわざ心配して貰うようなことではない。人間なのだから勝手に食事くらい取る。それ以前に始の飯を出してやるくらいだ。 「しょんぼりすんな」 食べたと言うと始はあからさまにがっかりして力無く椅子に戻った。 楽しみを奪われたと言う顔だ。 「にゃーにゃー鳴いてねだってくれたのに……」 餌をねだる猫は最強に可愛い。たちが悪いほど可愛いと聞いたことがある。 どうやら俺も例に漏れていないらしい。自覚していないので何の感慨もないが。 溜息をついてまたパンをもしゃもしゃ食べる始を眺めながら、どうしてもパンのごってりした感じが気になった。 「アンタさ、そんなにジャム塗って大丈夫なのか?」 「朝はカロリーの高いものを取らないと」 「そりゃ…推奨されるのはそうかも知れないが」 だからといって寝起きからそんなものを食べたいかと訊かれると首を振る。朝は出来れば重くない物を食べたいものだ。 だが始はそうではないらしく、落ち着かない陽に視線を彷徨わせながらも躊躇いなくパンを食べていく。 「君、さ」 「何」 「本当に、猫なんだよね?」 くどい。そう思ったけれど、ただの人間には信じられないことなのだろうと自分を宥めた。 もういい加減諦めて納得すればいいのに。 「猫だよ。アンタの右手にひっかき傷を作った猫」 手の甲を指さす。そこには一昨日俺が引っ掻いた傷が残っている。 じゃれついた時に、つい加減を間違って付けてしまったものだ。 痛いと言った始に酷く驚いたのをよく覚えている。飼い主を傷付けた後ろめたさは猫にもあるのだ。 ひっかき傷について口にすると始は淡く微笑んだようだった。 その表情が優しくて、つい目を奪われてしまう。 可愛いでも、綺麗でもない。始はそんなに悪くない見た目だが、それでも男に対してそう評すのはやや問題だろう。 だからどう表していいのか分からない。 だが確実にその顔は俺の心を乱す。 始に何かしたくてうずうずするのだ。それは卑猥なことだったり、そうじゃなかったりするだろう。今はそのどちらであるかは判別が付かなかった。 だがなんとなく手を伸ばそうとした時、始はふと俺を凝視した。 突然真顔になってそうされたので、どうかしたのかと身体を緊張させてしまう。 「……君さ。僕に会って欲しい猫がいるって紹介してくれた人じゃない?」 「気付くの遅いだろ……」 この顔を見てから何時間経っていると思っているのか。 昨日は抱くことに夢中で自分の顔を覚えているかどうかなんて頭から抜けていた。 割と人の印象に残る顔立ちをしていると思っていたのに、まじまじと見詰められて悩んだのであろうと思われる後に指摘されるなんて。 薄々感じていたことだが、始はちょっとどころじゃなく鈍くて抜けていると思う。 |