猫の気持ち 4





「有り得ねぇだろ」
 俺はコーヒー片手にそう力強く言い放った。
 当然猫の姿ではなく、パーカーとデニムという軽装だ。自分の服であり、どこに置いてあったものかというとテンの部屋に置かせて貰っていた。
 自分の部屋といっても始にまだ自分が猫だと教えていないのに人間の荷物を置いておくわけにもいかず、一時的に俺の荷物はテンに預けてあった。
 こういうところは持ちつ持たれつらしい。テンも自分の飼い主と暮らし始めたばかりの頃は豆吉のところに預けていたらしい。豆吉は当時まだ一人きりだったテンのところ。
 マンションの住人たちみんなで飼い主とペットの行方を見守っているようだ。
 年も近く、ペットになれる人間という特異な共通点のおかげで俺はすぐに二人と仲良くなった。
 一応二人の方が年上なので敬語を使っていたのだが、敬語が似合っていないと言われたタメ口にした。
「天然なんじゃね?」
 今日発売したばかりの週刊誌を読みながら、テンは軽く返事をしてくる。
 コンビニに行ったついでに買ってきたお菓子をテーブルに広げ、俺たちはだらだらと時間を過ごしていた。
 俺の隣には豆吉もいる。どうやらDVDを見る約束をしていたらしい。ついでに俺も見ていけばいい、と誘われてここに居座っている。
「天然っていっても普通あれを夢で済ますとか、有り得ない」
 俺は昨夜の話を二人に語っていた。
 あれから寝入ってしまった俺はいつの間にか猫に戻ってしまっていた。ここのところずっと猫で過ごしてたし、始と一緒に寝る時は猫だったから無意識にそうしてしまったのだろう。
 すると始は何事もなかったかのように仕事に行く仕度をして、変な夢を見たというようなことを俺に喋って普通に仕事に行ったのだ。
 あんな夢を見るものだろうか。
 いや、見たとしても朝起きたら自分のズボンがベッドの下に落ちていて、サラダ油がその隣に放置されていたらおかしいと思うだろう。どんな夢遊病だというのか。
 しかし始はさして気にしなかった。
 寝ぼけて変なことをしたのだろうという程度だったのだ。
 この男の寝ぼけるという度合いはどれほどのものなのかと、人間に戻って真剣に心配になった。
 欲求不満かな、という苦笑したところはよく覚えている。きっと猫になっていてもその台詞に衝撃を受けてしまったからだろう。
「最近全然抜いてなくて欲求不満だったら、飼い猫が人間になってアンタに襲いかかる夢を見んのかよ」
 まさかこんなに簡単に夢と処理とされるとは思っていなかった分。苛立ちは大きい。
「現実味が全然なかったから、頭がそう処理しはったんやろ」
 関西の出身であるらしい豆吉は独特のイントネーションでそう判断した。飼い主である鹿野さんに人間になれるという事実をばらした時、かなり騒ぎになったらしい犬は俺の現状も微笑ましいくらいなのだろう。
「ショックでかすぎたんだろー」
 ぱらぱらと週刊漫画をめくりながら、それでもテンは会話に参加してくる。
「猫に戻ったのか間違いか」
「そうやろうな」
 やはり人間のまま同衾していれば、嫌でも現実だと認めざる得なかったはずだ。
 しかし猫になっていれば、頑張れば夢であると思い込めてしまう。逃げ場を与えたのが失敗だったのだ。
「素面で見たら、さすがに否定出来ないだろ」
「なら今日にでも人間で襲いかかるか」
「早っ!」
 テンは漫画から顔を上げて複雑そうな目で俺を見た。
「怖くねぇの。いきなり人間に戻って、実は猫は人間でしたなんて種明かししてさ。喧嘩になるとか」
「テンが言うんもどうかと思うけど」
 俺と大差ないことをしたらしいテンに、豆吉が苦笑している。
 朝っぱらからいきなり人間に戻って、平和な早朝に悲鳴が響き渡ったらしい。
「だって我慢出来なかったし。亮平は俺のこと丸ごとちゃんと認めてくれるって分かってたし。寝起きが可愛かったからついつい」
 へらりと笑ってテンは語る。モデルのバイトもしているという男はそうやって笑うと甘い顔立ちが更に強調される。
 しかし飼い主がどれだけ自分を溺愛しているのかという自慢ならば、俺だって負けていない。
「そんなの始だって俺のこと受け入れるに決まってる。毎日でれでれに俺を甘やかしてるし、こんなに綺麗で可愛い猫はいないってよく言う。第一俺は見た目だけじゃなくて頭もいいからな」
 理想的過ぎて怖いくらいだと始に言わせるほどだ。
 胸を張ることが出来る。
「でも飼い主馬鹿っていう人種はさペット溺愛し過ぎて、人間の姿になるとがっかりするってのもあるからな。うちの亮平も最初の方はずっとそれだったし。ペット大好き過ぎて四六時中ペットの姿の俺といたがったし。ペットの姿じゃない時間があるだけで減点対象だったりするぜ」
 人間なんて見慣れている、と文句も言われるらしい。
 見た目ならは俺と同じく格好いい部類に入るだろうテンだが。飼い主馬鹿には見た目も通用しなかったのだろう。
 猫の時もそうだが、人間でいる時も容姿は整っており、頭も良く、褒められるところばかりだった俺は、そんな視点があるということは気付いていなかった。
「でも人間の俺だってかなりのもんだから。一挙両得だろ」
 猫も人間も高得点な存在だ。それが手に入るのだから、二度美味しいと言って貰いたい。
 だがテンは手を振った。
「ならないならない。俺んトコなんて未だにフェレが少ないって怒るし。もっとフェレと触れあいたいからフェレになれって叱られるんだぜ。ま、俺は抱き締められるより抱き締めたい派だから、結構それ無視してぎゅうぎゅうしてるけど。豆吉んトコだって似たようなもんだろ」
「亘さんは愛犬家やから」
 人間ではなくペットに、と望まれている彼らはやや力のない笑みだった。
「人間と同居なんて冗談じゃない、出てくー!だもんな」
「死ぬかと思った」
 今ならば笑い話に出来るけれど、同時の豆吉は真剣に怯えたのだろう。思い出しただけなのに青ざめている。
 大袈裟なと少し前までの俺なら思った。だが今は気持ちが分かるような気がする。
 こんなにも満たされ、日々歓びが溢れている暮らしをいきなり手放せるはずがない。
 人間と同居なんて冗談じゃない。始もそんなこと言うのだろうか。
 言いそうもない見た目だが、でもあんな性格で人間嫌いというのも完全に否定は仕切れない。
 過去にトラウマがあって他人とあまり深く付き合いたくないとか。
「……でもあいつは俺がいなきゃ生きていけないって言うし。男でも大丈夫だろ」
 前の猫を失った痛みから立ち直るのは、やっぱり猫がいなきゃ無理なんだと寂しそうに言っていた。だがその寂しさもここのところ見えなくなっている。
 その分俺に対しての依存度が上がっていた。
 欠けた部分を埋めるために必要だってのは業腹なのだが、それでも俺が必要だという事実はそんなに悪くないものだ。そのためなら性別だって構わないだろう。
「根拠は?ふつーこだわるトコじゃない?」
「男がいけるっていうのはなんで?やけに自信あるみたいやけど」
 二人の質問に俺はスナック菓子を摘みながら昨日のことを蘇らせていた。
「だって俺がしごいたら出したし。嫌がってなかった」
 そう言いながら空中で何かを掴むような手つきをして見せる。
「即物的……やなぁ。分かり易い言うたら分かり易いやろうけど」
 それでいいのかと言うような視線をするりと受け流す。別にそれが判断材料であっても問題ないだろう。完全ノーマルなら男に抜かれるなんて嫌がるはずだ。
「早く人間の姿でも会いたい」
 俺という生き物は猫だけではないのだ。人間だって俺なのだ。
 始のことは気に入っているから、だから全ての俺の姿を見て欲しい。見るべきだとも思う。
「春休みだから今はいいけど。まだ卒業式だってあるし、大学だって行かなきゃいけねーし。とっとと色々ヤりたいしな」
 最後の欲望が一番だということは、力のこもった声で分かったはずだ。
 豆吉が自然と俺から目を逸らした。
「テンだって俺の荷物邪魔だろ?」
「まー俺はいいんだけど。フェレになった時にあさってるらしいから、なんかあってもごめん。一応亮平が止めてくれてるみたいだけどさ」
「なんかってなんだよ」
 俺の衣服がフェレットの匂いに染められていくのは勘弁して欲しいのだが。
 猫の服がいたちくさいのは根本的に間違いだろ。
「あ、亮平からメールだ」
 テーブルの上に置かれていたスマートフォンが音を立てる。亮平という文字が浮かび上がっていた。
 満面の笑みでそれを手に取り、テンは通話を始める。
 嬉しくて嬉しくて仕方がないという表情だ。数時間前までこの部屋で一緒にいたはずなのに。
「……くそ」
 思わず悪態をついてしまう。
 俺だって始とあんな風に話をしたい。話しかけられるだけじゃなくて俺の言葉を伝えたい。鳴き声だけで始は多くのことを察してくれるけれど。それだけじゃ足りない。
「亮平、今日早く帰って来られるらしいから飯連れてってくれるって。俺焼き鳥がいいなー。駅前に新しい焼き鳥屋出来たじゃん、あそこ美味いんだぜ」
 にこにこと話してくれるテンにとうとう舌打ちをしてしまった。
「なんだよ、羨ましいかー。俺と亮平のらぶらぶっぷりが、舌打ちするくらいねたましいかのよ〜。そーだよな。うちは仲良しだからな」
 自慢してくるテンに再び舌打ちをしては睨み付けた。
 これまで誰かを羨ましいなんて思ってこなかった。俺は人が羨むようなものばかり持っていたし、不自由を感じることもなかった。
 恵まれた環境にいたのだ。
 それが飼い主に自分の姿をまだ教えていないというだけで、様々なものに羨望を覚えるようになってしまった。
「腹立つな。俺もすぐにそういう関係になるから、いいけどな」
 すぐだすぐ。それほど時間はかからない。
 むしろかけてたまるものか。
「焦って急ぎすぎたら引かれるかも知れねぇよ。俺は高瀬さんのことよく知らないから、適当なこと言ったら駄目かも知んないけど。どん引きされたら後が辛くね?」
 今日にでもまた行動を起こそうと画策する俺に、テンはそう尋ねてくる。心配してくれているのが分かるので、笑い飛ばすことも出来ない。
 見るからにしてチャラい男だと思っていたのだが、ちゃんと人のことを考えてくれるらしい。
「でも大丈夫だって。俺は大切にされてるから。人間になったところで始は俺を捨てたり出来ない」
 まるでそう信じたい、と願うように俺の声はやや声量を上げた。
 はっきりと発音することでそれを現実に近付けようとしているみたいだ。
 始が俺を拒絶するかも知れない。そんな未来は考えたくない。
 猫の俺は必要だけど、人間の俺はいらないだなんて。そんなことを言い出すような人間なのだろうか。
 優しい顔しか知らない俺はその疑問に明確な答えが出せなかった。



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