猫の気持ち 3





 それから一週間で飼い主、片瀬始は引っ越してきた。
 もう待ちきれないという様子で俺を構い、嫌がる素振りをちらりでも見せるとすぐに制止するという。引き際をよく分かっている男だった。
 猫飼いに相応しく、引っ越しの荷物の中には猫のおもちゃや猫タワーがあった。
 それはおおむね前の猫のものであり、俺は一から始との関係を作りたかったので先代の猫の持ち物は嫌がった。
 知らない猫の爪痕も匂いも、何もかも気に入らなかったのだ。
 始はそれを敏感に察知して、新しいおもちゃを次々買ってくれた。
 察しの良さに感心するほどだ。
 やっぱり自分のがいいよなぁと猫なで声で甘やかしてくれるのは悪くなかった。
 始の生活スタイルはとても分かり易かった。
 朝起きて俺の存在を確かめ、俺の餌をあげてから自分の朝食。そして朝食を取る傍ら俺を眺めつつ、話しかける。朝食が終わると纏わり付く俺の相手をしながら出勤準備。餌とトイレの用意をしてから仕事に出掛ける。
 とにかく猫が基本だった。
 家にいる時は俺の存在をずっと気にしてくれている。
 端から見ていれば猫にでれでれになっていると言われるところだろう。
 与えられる愛情はいつだって溢れそうで、俺は常に腹がいっぱいな気分だった。不足無く、幸せに浸っていられる。
 始がいなくなってから一人きりの部屋で人間に戻ると。自分が抱えている愛情の多さに身体が浮き上がるような気持ちになる。
 猫の時の記憶は砂糖菓子のようだ。
 甘くて優しくて、恐ろしく魅力的だ。
 素直に誰かを好きだと思える。それを態度に出していられる。
 幼い頃母を慕っていたように、抵抗感もなく甘えられるのだ。
 残念ながら俺は小学校に上がる頃には、誰かにべったり甘えるという行為が妙に恥ずかしく感じてなかなか手放しで愛情を欲することが出来なかった。
 抱き締めてられることすら、いつしか拒むようになってしまっていたのだ。
 無防備でいるのが嫌なのだろう。壁無しに他人と接することが嫌だった。
 けれど今は、猫になればそれが容易に出来る。
 思うままに振る舞える。感情に全てまかせても良い。
 自由だと感じる。
 ペットとして飼われてから感じるのが、自由であることだなんて、おかしなことだ。
 部屋のあちこちに転がっているネズミのおもちゃ、猫タワーにふかふかの猫のベッド。引っ掻いて駄目にしてしまった段ボールの箱。爪研ぎが柱に固定されていて、毎日それを引っ掻くように始に促されていた。
 一緒になって始まで爪でかりかりとそれを掻くのが愉快だった。
 大切にされている。
 俺はとても大事にされている。
 そう自分を振り返るだけで、何もかもが愛おしくなった。
 こんな感情がこの世に存在するなんて、まして自分の中に生まれてくるなんて。飼い主を得るということは想像以上の歓びだった。



 受験のため高校への登校義務はほとんどなくなり。毎日猫としてこの部屋の中にいても問題はなかった。たまに両親には連絡するようにと言われているけれど、猫だから無理と言ってしまえばそれで終わる。
 今はとにかく始との暮らしをきちんと確立することが先決だと思ったのだ。
 けれど人間での生活を知っているだけに、四六時中猫でいることも時折退屈に思うようになる。
 まだ自分を猫だと知らせていないため、いきなり始の前で人間に戻るのもやや難があるかと思い。夜中にひっそりと姿を変えた。
 始は猫と一緒に寝るのが大好きであるらしく、この部屋に来た初日から俺をベッドに引き込んだ。
 いきなり添い寝とは、猫である俺も抵抗感があったらしい。その日は嫌がって猫ベッドで寝たのだが。次の日からは諦めてベッドに潜った。
 人の体温でぬくめられた毛布というのは蠱惑的だ。
 まして始が天国だと言わんばかりに俺を褒めちぎり、幸せだと連呼するので添い寝してやろうかという気持ちにもなった。
 俺としても飼い主との添い寝は考えていたほど悪くないものだった。狭いだろう、潰されるのではないかと危惧したのだがさすが猫飼いが長いだけあり、始はベッドの端で大人しく寝ていた。
 猫にベッドの占有権を譲るあたりよく出来た飼い主だ。
 そんな始は今日はベッドの上、壁際にくっつこうとしているかのように端っこで眠っていた。
 ほやんとした何とも平和そうな寝顔だ。
 実は人間になった俺が真横にいるだなんて、知りもしない。
 こんな間近で男の寝顔なんて眺めても楽しくも何ともない、と他の人間相手なら思うところだが。飼い主に対してはそんな感想は出てこなかった。
 始もこんな気持ちで俺の寝顔を見ているのだろうか。
 シングルのベッドでは男二人入っていると、所々どうしても肌が触れる。始はパジャマだが、俺は猫から人間になったので全裸だ。ぬくもりが直に伝わってくるようで、どうもくすぐったい。
 高ぶる喜々とした感情を持てあまし、俺は間抜けとも言える弛緩した男の頬を舐めた。
 猫の時にはよくやる動作だが、どう足掻いても人間の舌だ。ざらりとはしていないので刺激が少ないのか。始は起きない。
 お人好しそうな、優しい顔立ちは夢に浸ったままだ。
 それに悪戯心が頭をもたげた。
「悪くない……」
 これは悪くないな、と自分でも引くくらい悪い声が口から出た。それはもう悪巧みをしている悪代官にぴったりの声音だ。
 今度は舐めるのではなく、頬や額、喉元に口付けた。
 淡い刺激では一切目覚めないらしい人を眺めながら、高揚していくのが自分でも分かる。
 初めて女を抱こうとしていた時でも、これほどテンションが高くなったことはないだろう。
 相手は男。見た目は悪くないけれど、そう突出して整っている顔ではない。それを言うなら確実に自分の方が美形だと言われるだろう。だが自分の顔に欲情なんてしない。
 だが始にはそれに近いものを感じていた。
 高鳴る鼓動は、今からこの男をどうしてしまおうかと考えている。男、そう同性であるはずなのに、それに嫌悪はなかった。
 むしろ自分の飼い主ということで可愛がってやりたいという思いしかない。
 通常ならば愛玩動物であるはずの猫が一方的に可愛がられるべきではないのかと言われそうだが、気に入ったものを愛でたいというのは猫だって同じだ。
 その方が飼い主だって喜ばしいだろう。
 まぁ喜んでくれなくともやるが。
「寝込みを襲うのは、やや頂けないが」
 寝ているのだから仕方がない。と理由にもならない理由を呟きながら始の服を脱がした。
 前開きのパジャマは実に都合が良い。
 自分よりやや細いだろう体付き。身長は変わりなく、どこからどう見ても男の身体だった。
 真っ平らな胸をなぞり、肋骨を辿る。一本一本探るように撫でると始は「ん……」とぐずるように吐息を零した。だが覚醒はしない。
 調子に乗ってズボンに手を掛け、下着ごと容赦なく下ろした。
 露わになった下肢は男としての特徴的なものが付いている。力のないそれを見ても、意外なほど鼓動は冷めない。
「サイズも形も普通……ってとこか?野郎の股間なんてまじまじ見たことないけどな」
 自分が基準であり、他人のものなんて観察したことはない。
 だが自分のと大差ないので、これが普通なのだろうきっと。
 手に掴んでみると当然のことだがあたたかく、これが熱を持つとどうなるんだろうと興味が湧いた。
 もっと言うなら始が欲情したらどうなるのか見て見たい。
 エロだの何だのにはあまり関心がない、純朴そうな印象の男なのだ。下心が見えなくて、二十も後半なのに色恋に感心も無さそうで、枯れているんじゃないかと思ってしまう。
 そんな男が喘いだらどうなるだろう。
 優しい声で俺を呼ぶ、撫でる男が快楽を感じたらどう乱れるのか。
 男のそんな姿を見て楽しいのかどうかという疑問は無視した。
 掌に包み込んだ茎をゆったり上下に擦る。単純な動きなのに、人間はこれで確実に悦楽を得るのだから、簡単なものだ。
 服をはだけさせられ、猫であった男に見下ろされ、性器を愛撫されている。なんだか滑稽な夜だ。
 しかし俺は完全に面白がっていた。
 さて始はいつ目覚めて、どんな反応をするだろう。
 想像すると喉がくつくつと鳴り、俺はつい女にするように胸の突起まで舐めてしまった。
 もうヤる気だった。
 掌で堅くなっていく茎に不快どころか楽しさを感じているのだ。どうやら俺は男もいける口だったらしい。それとも飼い主限定か。
 膨らみのない胸を舐めながら、しごく手の動きを速めると始の呼吸が浅くなった。
 そして「んん……」と眠気とは違う声が聞こえてくる。
 そろそろ起きるだろう。
 寝顔を見ると、始の目蓋からうっすらと開いた。だがまだ何をされているのか分からないらしく、ぼんやりと焦点の合わない瞳をしていた。
「なぁ、起きろよ」
 寝たままじゃつまらない。
 促すと始は半分くらいまで目を開いた。そして俺を見るけれど、何がなんだか理解出来ないという目をしている。
「にゃあ」
 猫の時とは比べものにならない、ただの男の声でそう。けれど俺としてはいつもと同じだ。
 けれど始は瞬きをした。そしてきょとんとする。
 ようやく夢の中から起きて来たようだった。
「え……、え?」
 目覚めながらも現状が把握出来ていないらしい。身体を投げ出したまま、俺を見詰める。
 無抵抗なのは有り難いので俺はそのまま行為を続行した。掌で脈打つそれを定期的になぶり、荒くなる呼吸を眺める。人はこうして欲情を高めていくのかと、冷静に見ている自分と、それをもっと煽りたいという好奇心が混ざり合う。
「俺と暮らしてから、抜いてないんじゃないか?だから、気持ちイイだろ?」
 囁くと潤み始めた目が疑問を浮かべる。だがうっすらと開いた唇から聞こえる、はぁはぁという吐息は俺の手に従っていた。
「いつも撫でて貰ってるから、今日は俺が撫でてやるよ」
 撫でると言っても頭ではなく身体。しかも卑猥な動きであるが。口角を上げてそう言うと始の喉がしなった。
「ねこ…?」
 なんて舌っ足らずな喋り方だろう。寝起きのせいではないその発音に下肢がぐすりと疼いた。
 甘ったるい声を出すなら俺の方が得意なのに、負けた気がする。
「そう、猫だよ」
 気が付くものなのか、と煽られながらも驚いていると始は「でも…」と弱々しく返事をする。
「人間、じゃないか……」
「うん。俺人間でもあるから」
 そんなことを告げながら先端を指でくるくると弄ると始が息を呑んだ。
「あ、ぁ……」
 太股の内側に力が入るのが分かる。随分感じて貰っているらしい。
「……そう、か。雄猫……春近い……」
 今度は俺がん?と疑問を覚えるのだが、始は何故か納得したようだった。春が近いとは、発情が来たのだと思われたのだろうか。
 いやいやだからと言ってもこの状態は受け入れられるものなのだろうか。
 俺にはよく分からないけれど、愛撫を良しとする始の姿は背筋が粟立つほど扇情的だった。据え膳がこれほどまでに美味しそうに見えたのは初めてだ。
 もっともっと乱したい。もっと喘がせたい。
 そう焦れったくなって、俺は意を決して始の下肢に頭を下げた。
 眼前にある、そそり立ったそれに舌を這わせた。
 生暖かい肉の感触。決して歓迎出来るものではないはずのそれなのに、始の足が跳ねたのを見て途端に気分は上昇した。
「っん、あ…やだ」
「んん?んー」
 やだ?何が、と茎を含んだまま言った。するとそれすら刺激になるのか、始が呼吸を止めてしまう。
 先っぽを口の中に入れると一回りまたそれは多くなり、じゅるじゅると音を立てて吸い込むと汁が溢れるようだった。
 如実に反応を示すそれがおもちゃのように感じられて、俺は初めて男のそれをくわえたというのに、頭ごと上下に動いて精一杯奉仕をする。いや奉仕ではないだろう、弄ぶという方が正しいような有様だ。
「やっ、あ、あぁ…!」
 女たちにやられたことを思い出して、舌を絡めつつ茎を搾り取ると始はあられもない声でよく啼いてくれる。
 腰に来るヤバイ声だ。飼い主のくせに盛りの声が出せるなんて素晴らしい。
 穏和そうなだけでなく、エロい顔もしっかり持っているらしい。なんというお役立ち、お得な飼い主だろう。
 内心喜々として口の中あるものに柔く歯を立てると始の腰が逃げた。
「ら、あ、あっん!」
 ひときは高い声が響き、口の中にどぷりと精が吐き出された。
 口の中に出てきたそれに、俺はさすがに固まった。いくらなんでもいきなりこれを飲むのはハードルが高い。
 どうしようかと思いつつ頭を上げると、始は自分の片腕を顔の上に置いて浅い息を繰り返している。短距離を走りきったような脱力感が見て取れた。
 気怠そうで、なんとも食い付きたくなる。
 しかしこのまま食い付くことも出来ないし、高ぶった自分のそれをいきなり始に入れられるはずもない。
 すでに入れることを決定していた俺は一度立ち上がってベッドから離れた。
 口の中にあるものを台所の排水溝に吐き出して流してしまう。ついでに流しの下にある棚を開けた。
 俺の朧気な記憶ではそこに調味料があるはずだ。
「あった……これでいいだろ」
 全裸で調味料をあさるのは端からすれば滑稽であり、冬場の外気が俺の肌に刺さるようだが気にはならなかった。
 すでにヤることしか頭にないのだ。
 サラダ油片手にベッドに戻る。
 男同士での交尾は後ろを使うらしい。しかしいきなり後ろに入るわけもない。ほぐさなければならないのだ。潤滑になるものが必要だろう。
 ローシュンなんてそれ専用のものがこの部屋にあるはずもなく、油で代用することにした。大丈夫だ、口に入れても平気なら尻から吸収しても問題ないだろう。
 勇み足でベッドに戻ると先ほどまで色気たっぷりで横たわっていた始は、毛布にくるまっていた。
 それどころか顔を近付けるとすやすやと気持ち良さそうに眠っている。
「おい……おいおい」
 ちょっと待て、と俺はサラダ油片手に立ち尽くす。
 何故寝る。さっき出したばっかりで、もう眠れるものなのか。まだまだこれからって段階だっただろう。
 ヤることヤったらすぐ寝る男がいるらしいが、いくらなんでも早すぎるだろう。
「……待てよ。始」
 なぁと声を掛けると始は「んー……」と淡く返事をした。
 そしてゆったりと毛布の端を上げた。
 しかし目は開けない。
「……おまえ、俺人間になってただろ」
 猫をベッドに招き入れる時の仕草をされて力が抜けた。
 毒気も欲情も根こそぎ床に落ちていくようだ。しかも高ぶるを収まると肌寒さが一気に襲いかかってくる。
 溜息をつき、サラダ油をその場に置いた。ついでにぶるりと震えた始が寒そうで諦めてベッドに入った。
 窮屈だが密着するとあったかい。
「……目覚めて裸の男がいたら、察しも付くだろ」
 夜中の出来事が現実であり、黒猫は男になるのだと。ついでに手を出されたことも思い出すだろうが、身体は正直だっただろうがと言い返せば言葉に詰まるだろう。
 始は美味しそうだけれど、一度に全て済ましてしまうのも勿体ないような気がしてこの夜は我慢することにした。



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