猫の気持ち 2





 涙が滲んだままの瞳で、男は俺を見詰めてくる。
 優しそうな眼差しだ。この瞳で見守られて生きていただろう猫はどれほど幸せだったことか。想像することしか出来ないけれど、酷く羨ましかった。
「君は、ブリーダーさん?」
 猫を勧めてくる男の正体が気になったらしい。
 当然の疑問だろう。
 何故こんなところで猫を飼えと迫るのか。俺としては求婚に近いようなものだが、他人からしてみれば押し売りなのかも知れない。
「そんなもん」
 ブリーダーどころか猫本体だなんて、まだ言えない。
 俺の直感ではこの男は間違いなく猫を大切にする人間だ。けれどそれが真実であるのか見極める必要があるだろう。
 まだ本当のことは話せない。これは俺の保険だ。
「アンタに大切に飼って欲しい猫がいる。会って、貰えないか」
 猫の姿の俺に会って欲しい。
 どんな手つきで、どんな声で、どんな顔で猫を見てくれるだろうか。
 期待ばかりが膨らんでいく。
 しかし男には戸惑いが濃くなっていた。
「今から…?」
「いや、今すぐは」
 どうだろうか、と俺はマンションを想い描く。
 まだ俺すらどの部屋に入居するか決めていないのだ。入ることは大家に伝えているけれど、それ以外は何も決定していなかった。
 なのにいきなり飼い主を見付けてきたから試させて欲しいなんて、さすがに言い辛い。そもそもどの部屋でご対面になるのか。色々なフォローを任せて良いのかも分からない。
 とにかく先に俺が話を付けるべきだろう。
「次に空いている日は?」
「土曜日……かな」
 会う気になっている。
 男はまだ泣きそうだけれど、どんな猫なのだろうかと考え始めていることだろう。
「ならその日に。場所は」
 俺はマンションの場所を男に教えた。駅から五分ほどで辿り着くそのマンション。近くにコンビニもあり、分かりづらい場所ではない。
 それに迷ったなら電話をしてくれれば良いと携帯電話の番号も教えた。
「その猫には部屋が付いてくる」
「部屋?」
「そう。猫は俺がさっき言った部屋に住んでるんだ。だからその猫を飼うなら引っ越して欲しい」
 この提案に男は驚いたようだった。
 部屋が付いてくる猫なんて聞いたことがないだろう。まだ逆ならば納得も出来るだろうが、あくまでもメインは猫だ。
「いきなり……」
 ペットを飼うということが引っ越しと直結するなんて、大がかりだと感じるのだろう。
 難色を示す男に、俺はあのマンションの特色を次々述べていった。
「まず駅から近い。スーパーも近くにあるし治安が悪いようなところでもない。家賃は三万、敷金礼金なし。駐車場もある」
「な、んでそんな金額」
 どれだけ良い部屋なのか。ただの事実を述べていくだけでも実感出来るのだろう。男は訳が分からないと言いたげだった。
 一人暮らしをしたことがない俺でさえも、この条件が異様にお得だということは分かる。
「ペットのためのマンションだから。ペットを大切にする人に住んで欲しいから、この金額になってる」
 そうは言いながらも、家賃に関しては三万というのはやや間違いである。
 飼い主が三万、ペットから三万取っているのだ。正しい家賃は六万である。
 なので俺もあそこに入れば家賃を半分払うことになるだろう。
「猫と一緒なら、そういうところで暮らせる。損じゃないと思うけど」
 この男が今どこに住んでいるのか、どんな暮らしをしているのは知らないけれど。魅力が全く無い物件ではないと思う。
 現に男は悩んでいるようだった。
「とにかく、会ってみればいい。猫がアンタを気に入れば同居だけど。猫がアンタを嫌えば同居にはならないだろうし」
 試しに会うだけでも会えばいい。
 俺は最後にはそう軽いノリで言った。
 だがもしこの男が来たのならば、決して逃しはしないのだろうなという予感はあった。
 狙った獲物は逃してはならない。それは獣の掟だ。
 愛玩動物になったとしても猫は獣。まして野生を残す獣にその掟は絶対的な支配力を持っていた。



 優しい。
 あったかい。
 撫でてくれる。
 気持ちがいい。
 見てくれる。構ってくれる。遊んでくれる。
 柔らかい声。笑ってる。
 嬉しい。嬉しい、うれしい。
 もっと見て欲しい。もっと、あそんで。
 だいすき。


 そんな感情で満たされていた。
 猫でいる時の記憶は朧気で、鮮明に覚えておくことは出来ない。けれどその時感じていた感情はとても強く刻まれていて、俺は人間に戻ってから暫く呆然としていた。
 自分の身体いっぱいに幸せが詰め込まれすぎて、ぽろぽろ零れていくようだった。けれどそれを惜しいとは思わない。
 どれだけ零れたとしても俺のところにはまだまだ、それこそ次から次に幸せが生まれていくようだったからだ。
 とても素直に、嬉しいと言える。
 いつもはどれだけ嬉しくてもそれを素直に顔に出すことがなんとなく恥ずかしい、こんなことくらいで舞い上がるなんて、と自分で自分を馬鹿にするような、そんなあまのじゃくなところもあった。
 だが今はそんな性格はどこかに消えてしまっていた。
 それどころではないのだろう。
 これまで味わったことのない感覚に襲われ、それを処理することが出来ずに浸っている。
「どうだった?」
 マンションの大家である荻屋が人間に戻った俺を見下ろしてそう言った。
 服を着込んだ後はただ座り込んでいる俺に、にやにやと笑っている。
 それに反感をを覚える隙間もなかった。
「今まで生きてきた中で一番幸せです」
 誰かに会えたことが、誰かに触れられたことがこんなに幸福であるなんて。猫である母親から飼い主に出会うことがどれほど喜ばしいことかは聞いていた。父親との惚気をたっぷり含ませたそれは、俺にとっては憧れでもあり。どこかおとぎ話のようだとも感じていた。
 だが現実だった。
 母親の教えてくれた一番の幸せはちゃんとこの世にあったのだ。
「あの人のために俺は生まれてきたんです」
 真顔で言うと荻屋は少しばかり吹き出したようだった。
 さすがにそれは失礼だろうと睨み付ける。
「小生意気な奴が、骨ごといかれたか」
 荻屋にはあまり良い印象を抱かれていないとは思ったのだがやはり生意気だと思われていたらしい。そりゃこのマンションの下見に来ていきなり飼い主を見付けたから部屋を寄越せ、飼い主と会えるようにセッティングしろ、と言われれば良い気はしないだろう。
 あの時の俺は飼い主を見付けた喜びでテンションが高く、興奮していたこともあってかなり強引だった。
「笑いたければ笑って下さいよ」
 人に笑われるのはかなり癇に障る。けれど今はそれも流せるような気がした。
 けれど荻屋は腕を組んだかと思うと意外なほど穏やかな表情を見せた。
「みんなそうさ。飼い主に出会った後はそれしか頭にない。テンみたいに雄叫び上げないだけましだ」
 テンというのはフェレットになる若い男だ。金に近い明るい茶色の髪をした、背の高い男。うるさそうな人で、飼い主である小柄なサラリーマンによく懐いていた。
 サラリーマンの方はちょっと鬱陶しそうだったが。
 確かに飼い主を見付けた瞬間に叫び出しそうだ。
 しかしフェレットは雄叫びなど上げる生き物だっただろうか。
「向こうさんは一週間後に来るってさ。どうしてもここがいいって、すでに虜だった」
 俺が飼い主にしたい男は高瀬始という名前だった。二十八歳らしいのだが、見たところもう少し若いのかと思っていた。
 ここに来るまではどんな猫なのか、そもそも引っ越しなんて出来るだろうかと心配していたらしいのだが。猫になった俺を見て、もうここに来るしかないと決めたらしい。
「そうじゃなきゃ困る」
 俺が認めた飼い主なのだから、ちゃんと俺の虜になって貰わなければ。好みじゃありませんでした、なんて冗談ではない。
「俺も三日くらいでこっちに来る。親にはもう言ってあるし」
 飼い主が見付かった時点で俺は親に一人暮らしならぬ二人暮らしをしたいと言っていた。母親は「そう」の一言で了承し、父親は相手がどんな人なのか不安だと言っていたが、母親が大丈夫の一言で納得していた。
 つまり母親が良いと言えばそれで通るのだ。
 家賃やら何やらは全て母親が気前よく払うと言っていた。金に不自由していない家だ。それに飼い主と暮らすことが最もだと知っている。
 最適な環境に生まれ育ったものだ。
「おまえまだ合否出てないんだろう?宮園だったらうちからは近いが」
 もし落ちていたらどうするつもりだ、と言う荻屋に俺は口角を上げた。
「試験受けたんだから合格しますよ」
 模試の結果もAで通っている。試験を受けた感じも悪くない。
 一応滑り止めの大学も受けているけれど、必要ないだろうと判断した。
「腹立つくらいの自信だな」
「それだけの実力がありますから」
 顔を顰める荻屋に俺はそう言い放った。
 何も元々生まれ持った天性の才能というわけではない。勉強に関しては努力をしてきたのだ。顔は遺伝子の作業だが脳味噌までは生まれつきというわけにはいかない。
 猫が馬鹿だなんて滑稽。という母親に随分きつく教育された。それがここにきて最大の役割をしてくれた。
「俺はやっぱり犬の方が好きだ」
 プライドが高く、自信に溢れている。言い換えれば傲慢にも見えるだろう俺の態度に荻屋さんはぼやく。実際この人は犬の飼い主らしい。
「そうでしょうね」
 真面目そうで支配欲がある。自分のペースを大切そうにしている男に猫は向かないだろう。俺もこの男のペットにはなりたくないなと思う。
 生活のリズムを完全に持って行かれそうだ。窮屈そうな暮らしはしたくない。
「でもあの人には猫なんですよ」
 荻屋の性格など俺には関係がない。
 俺が気にしなければいけないのは、俺が考えなければいけないのは自分の飼い主のことだけだ。
 優しい、心地良い人。
「人の良さそうな男だったな。電車でナンパしてくるだけの魅力があるだろ?」
 マンションの下見に来たと思ったら、電車で飼い主を引っかけたと言うのだ。このマンションで色々な出会いを見て来た荻屋でも、なかなかに衝撃的な発言だったらしい。
「この世界で一番。魅力的だ」
 そして同時にこの世で唯一なのだろうと思った。
 あんな風に俺を惹き付けて、掻き毟るような恋しさを抱かせるのはきっとあの男だけなのだ。
 これからそんな人と一緒に暮らし、生きていけるかと思うだけで心臓が高鳴ってしまう。まるで幼児のようだ。
 平静さを取り戻そうと深呼吸をしながら、この喜びがみっともなく外に出ないように必死で表情筋を制御した。



next



TOP