猫の気持ち 1
「主人が欲しい」 その台詞が一体何度目であるのか、俺は覚えていない。それこそ小学生の頃から言っていただろう。 それが自分に幸せをもたらす存在なのだと、本能で知っていたのだ。そして俺の両親はそれを現実として見せてくれた。 「あんたはまだ高校生でしょ。これから出逢えるわよ」 猫である母親は、気高い瞳に呆れを滲ませてそう言った。 整えられた爪で緩く波打つ髪を肩から払う。自分の母親ながら、美しい動作だと思う。 若作りという次元ですらないかも知れない、三十路ほどに見える容姿はとても高校生の息子を持つ母親には見えない。 甘い茶色の髪は艶やかだ。けれど俺の髪の色とは違う。俺は父親譲りの真っ黒な髪質で生まれた。 母親を溺愛する父親は母親にそっくりな俺に対して、髪の毛の色も同じだったら良かったのになぁと言うけれど。母親はこの黒髪が大好きだった。 端から見ていると父親が一方的に母親を好きで、それこそ猫も驚くほどの可愛がりようだが。母親だって父親のことがこの世で一番好きなのだ。 それをあまり出さないだけであり、息子はその辺りがなんとなく共感出来た。 猫として生まれついてしまったからかも知れない。 そして猫としての幸せはまさに、母親のような暮らしなのだと感じていた。 だから一刻も早く、自分のことを溺愛して、自分がいなければいても立っても居られない、そんな人間を見付けたかった。 「もう高校生だ。すでに十八年を無駄に過ごした」 「無駄って、あんたね」 高校三年生はこれまでの時間を、青春をあっさりと無駄だと言い放つ。 だって俺にとってまさにそうなのだから仕方がない。友達もいる、楽しいと思う時間もあった。主人を持った時の予行練習だと思って彼女も作った。 だがそれも全ては主人に会うための練習だ。練習に人生の大半を使うつもりは毛頭無い。そろそろ本番に入るべきだ。 成人前、そして成人した後の時間は人間にとって大切なものだろう。その大切な部分を主人と過ごしたいというのは、猫として当然の要求ではないか。 「俺は早く主人を持ちたいんだ。それが猫としての幸せだろ?そのために勉強もしたし、見た目だって悪くない」 「当然でしょ。あんた誰の息子だと思ってるの?」 容姿のことになると母親は大変矜持が高くなる。それが許される容貌なのだが、息子に対してまで目を尖らせることはないだろうに。 「これからじゃんじゃん金だって稼ぐだろうし、主人を喜ばせる術だって考えてる。テクだって磨いたわけだしな」 「主人が男だったらどうするのよ」 テクというのが何であるのか、これまで付き合ってきた女の数を知っている母親は溜息をついた。その時はその時で考える。だが出来れば女がいいなと思っているのだが。どうなることか。 「高校三年の時点で、頭はいい、顔もいい、声もいい。まして家は金持ち。これ以上スペック高いやつなんてそうそういないだろ」 そうさらりと母親に対して自慢するのだが、母親はそれを鼻で笑った。 「馬鹿ね。猫っていうのはそういう生き物よ。美人で当然、可愛くて当然、賢くて当たり前なの。そして金持ちなのはあたしが金持ちの旦那を捕まえたから。あんたの手柄じゃないわ」 「でもそれを抜いたって、こんないい男そういないだろ」 「ちょっと性格が残念だけど。あたしの目からしても合格点よ。でも何度も言ってるでしょ。猫だったらそれが当たり前なの」 だって猫は愛される生き物なんだから。 電車に揺られて、俺はあくびをした。 休日の午後三時。車内はまばらに人が乗っている。端の席に座っては、のどかな日差しを眺めていた。 鈍行電車の中なんて、休日でもそんなに人は乗っていないものだ。 俺は大学入学に伴って一人暮らしをする予定になっているマンションの下見に行こうとしていた。 実家から通えないこともない距離なのだが。電車で一時間近くかかる。そして俺はそのマンションに引っ越すのが、野望だったのだ。 愛玩動物に姿を変えることの出来る人間ばかりが入居しており、自分の主人を捜し出しては一緒に暮らす。という目的のマンションだ。 俺が人生最大の目的としている主人を捜索するのに、もってこいの場所であることは間違いない。自分と似たような生き物と同じ屋根の下というのは心境的にも楽だろう。同類ばかりで隠し事が少なくて済む。 そして動物が大好きで、動物のためなら生活を投げ出しても構わない。ペットのために生きているような人間の情報も入ってくるらしい。人間のネットワークは侮れない。 主人になりそうな人間の情報なんて、よだれが出るほど欲しいものだ。 だから俺はずっとそこに入りたかったけど、高校生の一人暮らしなんてさすがに歓迎出来ないと。放任主義の両親も渋った。 だから大学に入るまでお預けになったのだ。 お預け状態なのに、どうして下見に来ているかと言うと。俺が通おうと思っている大学に対して、模試の結果がAを叩き出し続けている。落ちることなんて当日入試を受けなかった場合にのみ限定されているレベルだからだ。 そして受験に備えるために、高校の授業も回数が減ってきた。正直もう行かなくてもいいくらいだろう。 受験の準備はしているけれとせ、それほど入念にする必要もない。それより気分転換に希望の地であるマンションの周辺をうろうろしたかったのだ。 俺のテンションを手っ取り早く上げてくれる土地だ。 冷静沈着、年よりずっと落ち着いている、大人びている、そんな表現ばかりされる俺だが喜びが外に出ないだけだ。今だって内心わくわくしているが、顔は仏頂面だろう。 整っていなかったら強面の男だと思われていたはずだ。 マンションの周辺のどの辺りからうろついてやろうかと思っていると、電車が駅に着いてドアを開ける。まだ俺の降りる駅ではなかったので、立ち上がることはなかった。 だが入って来た男が俺の横にある手すりを持って立った。空いている席はあるだろうに、座ればいいだろう。何も俺の間近に立つことはない。 人の気配はあまり好きじゃない。溜息を付きながら、俺は男を視界から外すようにして俯いた。 電車のドアが閉まり、また走り始めて少しした頃、空気の震える気配がした。 奇妙だなと思い顔を上げると、鼻を啜る音が聞こえて俺は男を見上げた。 泣いていた。 片手で目元を覆っているけれど、震える呼吸は間違いなく涙を流しているせいだ。 俺より年上であろう男が、電車の中で泣くなんて。情けないとは思わないのだろうか。 男だったらめそめそ泣くな。と言いたいところだが、柔らかそうな髪に男にしては細い首、白いパーカーを着込んだ身体は俺よりやや小さいくらいの背丈で、みっともないという印象が湧いてこない。 どうしてだろうか。 女だったらめんどくさいから関わらないでおこうと、男だったらみっともないから消えて欲しいと思うところなのに。この男が泣いていると、何故か顔が見たいと思った。 どうして泣いているのか。何か悲しいことでもあったのか。 そんな問いかけが喉元まで上がって来る。 だが聞いてどうするのかとも思うのだ。何も知らない、ただ同じ電車に乗っただけの男の悩みでも聞くのか。そんな無駄なこと。 しかし目元を覆っている指の間から涙が流れるのが見えて、俺はじっとしていられなくて、男に手を伸ばした。 「あんた、なんで泣いてんの」 濡れた指に触れてそう尋ねると、男はびくりと肩を跳ね上げた。 そして恐る恐る目元を覆っている手を離して、俺を見た。 「……なんだ、こりゃ」 濡れた黒目がちの瞳はまるで俺に抱き締めてくれと言っているようで、俺のあるかないか分からなかった同情を強烈に刺激してくる。 二十後半くらいの男に見えるのに、無性にか弱そうに思えて。今すぐここから出して、安全な場所にかくまわなければならないような妄想に取り憑かれそうだった。 なんでこんな生き物がこんなところにいるんだ。そもそもそこんなものがこの世にいたのか。 「……え?」 驚いている俺に、向こうもまた驚いたらしい。何かおかしなところでもあるのかと言いたげに、首を傾げた。 またその仕草が、訳が分からないほど俺の胸に突き刺さる。 「あんた、さ。なんで泣いてんの」 最初に戻ろう。ここで男を誘拐するわけにはいかない。ここは電車の中なのだから、ドアは閉められている。電車は走行中で、逃げ場がない。 「す、すみません。う、うっとう」 「別に鬱陶しいとか思ってねぇから、なんで」 謝った男がまた顔を覆ってしまうから。責めていないのだと主張する。ただ知りたいのだ。この男が何故泣くのか。どうすれば泣かないのか。 「か……飼っていた、ね、猫が死んで」 「あんた猫飼ってたのか!」 それは天啓だ。神の采配だ。 俺は立ち上がり、男の手を握った。 何故か気になる男は猫を飼っており、しかも死んでしまった。心にはぽっかり穴が空いているはずだ。失った猫に対する愛情分が、彷徨ってしまっているのだ。それを埋めるのはやはり猫が相応しいだろう。とびっきり美しい、とびっきり愛情の注ぎ甲斐のある、特別な猫が。 「か、かって、ました。でも」 「なんで死んだんだ?」 死んだ理由によって、この男がどのような飼い主なのか多少は見えてくる。ろくな死に方をしてないようじゃ、やっぱり人間性も疑われることだろうし。猫を飼うには相応しくない。 「じ、寿命で、も、もう十八才だったから」 「十八か!」 上等ではないか。十五才を過ぎれば長生きであり、十七を過ぎれば褒められる。猫の寿命は長いと言われているけれど、そこまで健康で長生きする猫というのはやはり限られてくるのだ。 大切に飼っていたのだろう。こんなところで泣き出すくらいだ。情もあったはず。 俺の中で急激にある欲求が膨らんでいった。 「こ、子どもの頃から、い、一緒で。死んだ、なんて」 思いたくないのだろう。 そうだろうとも、愛していた者がいなくなれば苦しく辛いものだ。たとえペットであっても身を引き裂かれるような思いだろう。そんな思いをするものでなければ俺が惹かれるはずもない。 ぐらりと揺れたのは一瞬。すぐに決意は固まった。 丁度俺が降りる予定だった駅に着き、ドアが開かれる。 俺と問答無用で男の手を取って、電車から降ろした。 とっさのことで反応も出来なかったらしい男は、駅のホームに降りてからようやくびっくりしたような顔で俺を見た。 間抜けな面だ。だが可愛いと言えないこともない。 子犬みたいだなと、自分より年上の男に思うなんて。数分まで信じられなかった。 「あんた。新しい猫を飼ってみないか」 「え……」 「とびきり頭が良くて、綺麗な黒猫だ。頭も良くて躾も終わってる。年は一才くらいで、人間の言うこともちゃんと聞く」 「あの……」 「長年一緒に生きてきた猫が死んで、悲しいのもよく分かる。次なんてまだ考えられないって思うかも知れない。だがあんたを慰めてくれるのも、猫じゃないか?」 指摘すると男は図星だと思ったのか、目を伏せてまた涙を落とした。そんなにいつまでも泣かなくていいだろうに。こんなところじゃ舐め取ることも出来ない。 「その猫にはあんたみたいな飼い主が必要なんだ。猫を大事に育ててくれる、唯一の主人が」 「会った、ばかりなのに……」 初対面なのに何故そんなことが言えるのか。どんな飼い主だと、どうして言い当てるのか。きっと男はそんなことを言いたいのだろう。 だが俺にとってみれば、それは他愛もない問いかけだ。 「俺には分かるよ」 猫を大切にしてくれる人は分かる。一緒に生きていきたいと思う人は嗅ぎ分けられる。そのための生き物だから。 男は訳が分からないというような目でちらりと見てくる。赤くなってしまった瞳に口付けたい。 「猫、飼ってくれない?」 それは俺が今まで口にして来た言葉も中で、もっとも意味のある、心のこもったものになった。 |