猫の気持ち 風邪の治し方 3





「昔の猫っていうのは忘れられないもんですかね」
「……そんな昔の女は忘れられないのかみたいな訊き方をされても」
 亮平さんはホットプレートの上に並べてられている野菜をひっくり返しながら苦笑した。焼き肉をする場合プレートの上に野菜が肉と同等の顔をして並んでいるのが、俺はちょっと理解出来ない。
 焼き肉ならば焼くのは肉だけで良くないだろうか。せいぜいウインナーや厚切りハム、肉の加工品くらいだと思うのだが。
 亮平さんは真面目に輪切りにしたトウモロコシや半分に切ったピーマンを焼いている。生キャベツだけでは納得出来ないらしい。
 一方亮平さんのペットであるテンは俺と同じく肉ばかり食っている。こちらは焼き肉屋でバイトをしているだけあって、肉なんて飽きているはずなのに、それでもバカバカ口に肉を放り込んでいた。
 尤も、今日の肉を調達してきたのはテンなので文句は言えない。焼き肉屋はさすがに良い肉を仕入れていた。
(金半分出したの俺だけど)
 今日は始が職場の飲み会なので、晩飯は一人の予定だったのだ。あの馬鹿は風邪が治りきっていないのに出勤した上に飲み会まで参加しているのだから、信じられない。
 飲み会に参加しますという連絡メールを受け取った時に「社畜」と返信してしまったのは仕方ないだろう。
 しばらくは体調に気を付けて働けと言った、俺の優しさは完全に無駄ではないか。
 苛々しながら一人で飯なんて食いたくなかったし、実家では猫に囲まれて暮らしていたという亮平さんに訊きたいこともあったので、焼き肉を提案した。
 ペットのことに関しての話なので事情を知らないマンションの外の人間には聞かれたくない。なので外食は出来ず、自宅を貸して貰う代わりに材料代の半分以上を負担した。
 亮平さんは気にしなくていい、均等に三人で割り勘をしようと言ってくれたのだが、隣でテンは大喜びしていた。性格の差がよく出ている。
「始がこの前風邪を引いて寝込んだ時に、夢うつつに前に飼っていた猫を呼んでて。そんなに恋しいのかって思うと」
「あー、悔しいんだ」
 ミノをこりこりと音を立てて咀嚼しながらテンが腹の立つことを言ってくる。もっと配慮のある言い方は出来ないのかと思うのだが、テンに対してそんなものを求めること自体間違いだとすぐに思い出した。
 ノリと勢いだけ、飼い主以外見えていない生物に、他の人間やペットに対する気遣いなんてあるわけがない。
「俺と同じ部屋で暮らしてんだぞ。毎日俺の顔を見ている。百歩譲って猫の俺を恋しがるなら分かる。心が弱っている時に癒されたいと願ったんだろう。だがな、どうして前の猫なんだ」
 死んだと分かっているだろう。とは言わなかった。よほど大切にしていてかけがえ無いと思っている相手は、亡くなったと分かっていても求めてしまうものである。それくらいの考えは俺にだってある。
 だが現在、切に求めてしまうにはあまりにも儚いではないか。それに俺という猫がいる。同じ猫なら生きている、普段可愛がっている俺に手を伸ばすべきではないのか。
「記憶が混乱してたんじゃないかな。風邪でうなされている時に子どもの頃の夢とか見て、会いたくなっちゃったとか」
「会いたくなるほど昔の猫の猫にまだ執着があるってことですよね」
「執着っていうか……ほら、猫って風邪とか引くと寝込んでいる飼い主に寄って来てくれるから。僕も風邪引いた時に思い出すことがあるな」
「え、そうなの!?俺初耳なんだけど!亮平俺のことじゃなくて昔飼ってた猫のこと思い出して恋しがってたのかよ!裏切りじゃないか!?もっと俺だけのこと考えてくれよ!」
「裏切りってなんだよ。僕の記憶の中までおまえに支配をされる謂われはないよ。大体裏切りって……」
「心も身体もぜーんぶ俺のもんだろ!風邪の時も健康な時も!俺の飼い主なんだから!」
 テンの言いたいことは俺にもよく分かる。飼い主に対して俺たちは全てを捧げているのだから、飼い主も俺たちに全部を預けて欲しい。互いに互いがいなければ生きていけない、それくらい不安定で不毛な関係になって欲しい。
 だが始はそこに、まだ前の猫が入り込んで来ている。
「記憶は変えられないよ。それに風邪の時は猫がよく寄ってくるから。発熱した人間の身体で暖を取るんだ。真冬なんて風邪を引いたら猫に囲まれて、身体弱ってるのに、猫の重みを感じて寝なきゃいけないという嬉しいんだが、哀しいんだか困るような状態になるよ」
 あたたかいところに引き寄せられるのは猫の習性だ。まして弱って動かない人間なんて猫にとっては有り難い暖房だろう。
 きっと始もそうして昔は猫に暖を取られていたはずだ。だからあんな風に前の猫を呼ぶ。
 そして始にとってはその困った状態が喜びでもあったのだろう。猫の重みは始にとって苦行になんてならないはずだ。
「亮平さんも、風邪で寝込んだらいつも猫を思い出してるんですか?」
「いや、僕の場合はそれどころじゃないって言うか……テンがうるさいんだよ」
 うんざりした顔で亮平さんは焼き終わったらしいピーマンを噛んでいる。苦いのはピーマンだけでなく心境も含まれていることだろう。
「大丈夫か、熱はどれくらいだ、何して欲しい、苦しくないか、熱いか、喉渇いてないかってもううるさいうるさい。こっちは身体休ませたいんだから寝かせろって思うのに」
「……おまえ」
 風邪を引いている人間に対して質問をしまくって疲弊させてどうするのか。しかも睡眠の邪魔までしているのではないだろうか。
 看病のやり方を根本から間違っているだろう。それでは治るものも治らない。
「だって心配じゃん!なんかやって欲しいことがあったら俺がやってあげたいし!亮平が少しでも早く良くなるために俺が出来ることがあるんじゃないか気になるだろ!」
「それで亮平さんがなかなか寝付けなくて風邪悪化したらおまえのせいだぞ」
「それは分かってるけどさー。いてもたっても居られねぇっての?そんな感じでそわそわしてんだよな」
 なんて落ち着かない生き物だろう。こんな生き物と暮らしていれば心休まる間もないだろうに。よく亮平さんはテンを可愛がっているものだ。
(フェレットの時は騒がしい、人間の時はやかましい)
 俺なら毎日「黙れ」と繰り返して苛々していそうだ。
「だからテンが気になって気になって、昔を思い出してる場合じゃないかな。早く元気にならないと、益々大変なことになりそうで。体調は崩さないようにしてる」
「そうだぞ。そういう意味で俺は役に立ってんだからな!」
「自慢出来ることじゃねえだろ。幼児抱える母親みたいな台詞言われてるんだぞおまえ」
 子どもが心配で目を離せないから、体調を崩している場合ではない母親から聞こえてくる台詞だ。お母さんのご苦労が察せられるような台詞に、テンはへらりと笑ってはカルビを二枚同時に食べている。もっと味わって食えないのかこの小動物は。
「幼児かー、亮平と養子縁組したら俺子どもってことになるよな」
「だが幼児ではないだろう。亮平さんも母親じゃない」
「口うるさい時は母親っぽいけどなー。でも母親とはエロいこと出来ないからやっぱり亮平は亮平がいいな」
「エロいことしてても始の中では俺の存在がまだまだ肥大化しないのが謎だ」
「ああ、心も身体もメロメロにしてんのにって?」
「それだ」
「……君たちって、結構思考回路は似ている上に酷いものがあるよね」
 一人飼い主という立場であるせいか亮平さんは複雑そうな表情で牛タンにレモンをかけていた。テンと思考回路が似ているというのは不服なのだが、エロに関しての若者の意識は大抵似通ってしまうものだろう。
「君たちは出会ってまだ一年ちょいだろう。そんなに急がなくていいと思うけど」
「……それは分かっていますが」
 十八年も付き合っていた猫と、一年ちょっとしかまだ付き合いのない猫。どちらが心の中を占めているのか。思いが強いのかは、たぶん明白なのだ。
 まして最期を看取ってしまっているなら気持ちの面でその猫が強く焼き付いているのは仕方がない。張り合うこと自体無謀なのだろう。
「欲張ってしまうんだろう?でもよく考えて欲しい。これからずっと一緒にいる約束をしたのにそんなに急いで相手を求めすぎたら、しんどいよ」
 二枚目の牛タンに、やはりたっぷりレモンをかけながら亮平さんは真面目な顔をした。こうしてちゃんと真剣に俺の相談に乗って、考えてくれるからこの人は有り難い。斜め隣に座っているテンが鬱陶しいので、一緒に飯を食うことは躊躇するけれど。
「少しずつ、ゆっくり歩いてく。君の飼い主はたぶんそういうタイプの人だと思うけど」
「そうですね。始は、遅い」
「遅いって、もっと言い方あるじゃん。慎重派だとか、おっとりしているとか。猫っておっとりしている人の方が好きなんだろ?じーちゃんばーちゃんによく懐くって聞くぜ?」
「行動が読みやすい人間がいいんだよ。安心出来るだろ」
 突飛な行動する人間は苦手だ。自分に対してどんなことをするか分からないと、つい警戒してしまう。心安らぐならば、次に何をし、何を考えているのか手に取るように分かる相手が良い。
 その点始は見ているだけで頭の隅々まで思考が読めるので、俺としては飼い主に最適な相手だ。時々馬鹿じゃないだろうかと心配になるが。
「一歩ずつ一緒に歩いて行くのが合ってると思うよ。十八年どころが何十年も側にいるんだろう?」
「はい」
「俺もそうだから!死ぬまで一緒にいるから!駄目って言っても付きまとうからな!」
「テンは本当にそういうことしそうだからなぁ」
 冗談のようにも聞こえるけれど、間違いなく本気で心に決めているだろうテンの言葉に、亮平さんはからりと笑った。言われていることが恐ろしくない、むしろ楽しいと感じているのは、本気にしても構わないからだろう。
 この人も、今後の人生の中にテンがいることを疑わないのだ。
 それもまた二人の強固の絆のように見える。
(あいつはまだ、そんな風には笑わないんだろうな)
 俺が来年も、十年後も一緒に暮らしているなんて。そんなことを信じていそうもない。君くらい格好良いならいくらでも言い寄ってくる女の人はいるのに、なんで僕なんだ。と俺に尋ねてくるような人だ。
 俺に彼女が出来たと言えば納得だってするだろう。
(俺はそれも全部塗り替えたい)
 一番に俺を思って欲しい。俺だけを見て欲しい。そして隣に俺がいることを当たり前にして欲しい。
 人間の恋人だったら欲張り過ぎた願いかも知れないが。ペットにとっては基本とも言える気持ちだと思った。



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