猫の気持ち 風邪の治し方 4
午後十一時を回ってから始は帰って来た。職場の飲み会ならばそれくらいの時間になるのが当然。むしろ早いほうとも言えるのだが。風邪が治ったばかりの人間がこんな夜遅くまでとまるで親のようなことが頭を過ぎった。 まして帰って来た始は顔を赤らめていたのだ。間違いなくアルコールが入っている。 「ただいま〜、ユエ」 へらへらと笑っているのも、アルコールで気分が良くなっているせいだ。風邪を引いている間は俺が胃腸の消化まで考えて飯を作ったのに、こいつはそれを台無しにするかのように酒を飲んできたわけか。 付き合いだから仕方ないという気持ちはあるけれど、それとも面白くはない。 「風邪引きが酒なんか飲んでんじゃねえよ」 「そうなんだけど。勧められると断れなくて。ちゃんと一杯で収めたから」 下戸というわけではないのだが、始は酒が入ると感情の起伏が大きくなる。大抵は陽気になってよく喋るので、普段大人しい分職場の人間はその違いを面白がったのかも知れない。 「ユエは今日の晩御飯何を食べた?」 「テンと亮平さんと一緒に焼き肉」 「いいなぁ。僕の食べたかった」 淡々と対処している俺に、いつもなら怒っていることに気が付くだろうに、酔っ払いは分からない。鞄をおいて上着を脱いでいる。 気怠さはまだ残っていると今朝言っていたのに、動作からはそれが感じられなくなっていた。もう体調も元に戻っているのかも知れない。 「今度僕も一緒に食べに行きたいな。飯塚さんとは話が合うから」 「猫飼いだから?」 「うん」 「昔話に花が咲く感じか?」 嫌な言い方をしてしまった。そう口を滑らせてから気が付く。 始もさすがに気が付いたらしく、上着を掛けたハンガー片手に俺を気遣わしげに見る。眼鏡の向こう側にある瞳が陰ったのが分かる。 「怒ってる?」 「別に」 素っ気ない言い方をして、拗ねている子どものようだなと思う。年齢よりずっと大人びているのが自分であったはずなのに、始の前では幼稚な部分まで丸出しになってしまう。 始にこそ、俺の良い部分を見て欲しいのに。感情が勝手に暴走してしまうのだ。 「風邪もちゃんと治ってなかったのに、飲み会に行ったのは駄目なことだと思うけど」 「仕事なんだから仕方ねえだろ。分かってる」 「でもユエは嫌だったんだろう?心配してくれたみたいだ」 そうじゃない。どっちかというとそっちじゃない。 俺が最も引っかかっているのは飲み会ではないのに。始はきっと飲み会に怒っているなんて一人考えている。 俺が引っかかって、悩んでいるのは、自分の機嫌もコントロール出来なくなっているのは風邪のせいでも、酒のせいでもない。 (上手くいかないな) やっぱり相互理解が出来てないせいなのだろう。だが来年にはもっと分かり合っているのだろうか。テンと亮平さんのように相手が困ることをしていても、笑って許せるのか。 テンはこういう奴だからと平然と他人に紹介出来るのだろうか。 「ユエ?」 「そっちじゃない」 「え?」 「俺が不機嫌になったのは、飲み会だけが理由じゃない」 そう教えると始の顔色が変わった。自分に何かしらの問題があって俺が怒っている、ということが始にとっては大変なことのようだ。 それだけ俺が重要視されている、ということが目に見えて分かってちょっと安堵した。 ないがしろにされているとは思わないけれど、やはり大切だと態度で示して貰うと嬉しい。 そしてその安堵が俺の心に少しばかりのゆとりを与えてくれる。 「始の中で、俺はまだまだちっぽけだと思っただけだ」 「なんで!そんなわけがないだろう!?」 有り得ない!と言わんばかりの反論の強さには、少し驚いた。始ならまず戸惑って慌てるだろうと思ったからだ。 「君のことをちっぽけだと思ったことなんてない!」 大事に決まっているだろうと言外に訴える様に、抱き締めたくなる。そうだ、始にとって俺は宝物だ。そう言ってくれたと思い出す。 だが今、それだけでは満足出来なくなっていた。 「そうだ、分かってる。おまえにとって俺は大切だよな。でも、肝心な時に頼って欲しいってのが俺の中にはあるわけで」 昔の猫を大切にしていることを恨むつもりはない。 だがどうしても、泣きながら呼ぶ声の先に自分がいないことが寂しかった。 「風邪を引いた時のこと…?」 「いや、いい。仕方ないことばかり言ってるな。俺はその猫が嫌ってわけでも、そのも猫を大事に思ってるおまえを責めるつもりもない」 そうだ、忘れろなんて言いたいわけではない。そんな残酷なことは望んでいない。そして猫のことを口にするなというのも、始にとっては辛いだろう。 負担をかけたいわけでも、悲しませたいわけでもないのだ。 (俺は何をしている) 「言ったことは無しにしてくれ」 「それはどんな人にも出来るわけがないことだって知ってるだろ?」 珍しく始が正論を吐いてくる。そして肩を落としては「ごめん」とまた謝った。 聞きたいわけでもない謝罪に、俺までごめんと言いたくなる。 「意識がもうろうとしていたからだよ。今の猫は君だけだし。君のことばかり考えている。もう言わないようにするよ」 「そうじゃない。別にいい、言ってもいい。俺の我が儘だ」 「我が儘が猫の良いところじゃないか」 身勝手な願いを始はそう言って許してくれる。もし俺が逆の立場だったらめんどくさいと切り捨てたくなるようなことなのに、正面から受け入れてくれる。 それが猫の飼い主なのか。 (……始だって最初から猫の飼い主として生きてきたわけじゃない) 十八年間一緒に過ごして来た猫がいたからだ。その猫が始を猫の飼い主にしてくれた。 (……恨むどころか感謝しなきゃいないのにな) 「俺は、自分で思っていたより頭が良くないのかも知れない」 「え!?何言ってるんだよ!ユエは賢い良い子だよ!美人で頭が良くて僕の自慢じゃないか!」 手放しの褒め言葉は耳に心地良いけれど、そうだろう当然だろうと今日はすんなり聞くことが出来ない。 「いや、おまえが良い飼い主だからな。これほど俺を可愛がってくれる、認めようとしてくれる飼い主はいない。俺は大事にされている」 それは間違いないことだ。 時々は始にもそういうことを伝えておかなければいけないだろう。まして馬鹿みたいなことで八つ当たりをしてしまったのならば。謝罪の意味も込めてそう言うと始はぽかんと口を開けた。 そしてアルコールでたださえ赤くなった頬を更に染めていく。 「ど、どうしたの。そんな」 「たまにはおまえにもちゃんと感謝をしておくかと思って」 「勤労感謝の日でも、敬老の日でもないよ?」 「何の関係があるんだそれらの休日が」 休日の名前を述べられても現状との関わりが分からない。感謝する日という名前は付いているが国民の大半は何とも思っていないだろう日に、俺がわざわざ始を褒めるとでも思っているのか。 少なくともこの一年、それらの祝日に俺は何もせず、言わずにいたはずなのだが。 「や、だって。そんな」 「おまえはいい飼い主だろうが。俺の我が儘も笑って許す、可愛いと言う。美人だ美人だと飽きもせずに言って。俺を構いたがるが俺が少しでも嫌がればちゃんと止める。猫の俺のことはよく見てる」 そうだ、猫のことはよく見ている。人間の俺に対してはその点節穴かと思うことが多々あるけれど、それは今後なんとかして貰おう。 「俺を可愛いと言って笑うおまえは可愛いしな」 何気なく言ったその台詞に、始は唖然とした。それからその場にへたり込んでは顔を両手で隠しては小さく呻く。何事かと思ったのだが、ものすごく恥ずかしいらしい。 「か、勘弁して下さい。君が、僕よりずっと格好良い君が、そんなこと言うのは駄目だ」 「何が駄目なんだよ」 おまえは小学生かというくらいに照れて恥ずかしがっているらしい人を見下ろして腕を組んだ。ここまで反応が大きいと愉快でもあるが、呆れもする。 こいつは恋愛など一度もしたことがないのか。 「き、君が僕の中でいっぱいになるから。ただでさえユエでいっぱいになろうとしてるのに。人間の君までいっぱいになったら」 それは楽しいではないか。 (そうか……昔の猫を追い出すんじゃない。今の俺でいっぱいにすればいい) 始の中で俺が占める割合を増やせば良いのだ。そうすれば否応なく俺の名前が真っ先に口から出てくるだろう。 そして昔の猫だって心にちゃんと残っている。思い出すことは減るかも知れないが消えるわけでも、無理矢理どこかに押し込められるわけでもない。 そして始は褒めてやるとこうして照れて俺のことで頭が占められるらしい。つまり適度に口説けば良いのだろう。 (……人を褒めるのは得意じゃないんだがな) しかし始の反応を楽しむためなら、すんなりと褒め言葉も出てくるような気がする。呼吸を整えて自分を落ち着かせようとしているらしい始を眺めながら、人の悪い笑みが口元に浮かんでくるのが自覚出来る。 俺の飼い主は本当に面白い。俺を飽きさせない人だ。 了 |