猫の気持ち 風邪の治し方 2
始の熱は夜が深まるにつれて高くなった。ベッドに寝かせて、近くで様子を見ていたのだが日付が変わる頃には呼吸が荒くなり、酷く苦しげだった。ひゅーひゅーと細い息は、まるで喉の隙間から空気が漏れているみたいだ。 咳が出ていないのが幸いだろうか。もしこれで咳まで出始めたら寝付くことも出来ず体力も奪われて辛かっただろう。 時間が出来たら読もうと思っていた長編小説をスマートフォンで読んでいるのだが、全く頭に入ってこない。 始が寝付きやすいようにと部屋の電気を落として、スマートフォンの明かりだけで過ごしているせいか、気分まで沈んでいくようだった。 (飯を食わせて薬は飲ませた。頭には冷却剤も載せてる。加湿器も付けて、水分補給のためにベッドの近くにスポーツドリンクも置いてる) しかもそのスポーツドリンクはお湯で割って生理食塩水の濃度に近付けているものだ。水分を吸収するのにより適している配合にしていた。 出来ることはしたつもりだ。風邪はとにかく眠ることが大切であるらしいので、後 はもう始が起きないことを祈るばかりなのだが、始から小さく声が聞こえてきた。 「ん……ぅ」 苦しげな呻き声に俺は顔を上げては始に寄っていく。赤く染まった頬や寄せられた眉根に哀れみが湧いてくる。 (起きるなよ) 眠っている方がまだ楽だろう。だがそんな気持ちに反して始は口を開いてしまった。 「どこ……?」 何かを探している声。部屋にいる時に探すと言えば黒猫だろう。 人間の俺を捜すことはないけど、黒猫の俺を捜すことならよくある。個体の大きさが違い、人間など見渡せばすぐに分かるからというのもあるけれど、猫の俺ばかり求められているような気がして複雑ではあった。 「ここにいる」 答えると始は目を開けた。涙の膜が張った瞳で天井を見上げて、瞬きを二、三度しては涙を落とした。苦しげな表情は泣き顔になってしまっていたのかも知れない。 泣くほど身体が辛いのかと思っていると、始は嗚咽を零した。 「っ…ぅ……みぃ」 ミィ、と呼んでいる。 それが始が昔飼っていた三毛猫であることは想像に容易かった。そのままの名前過ぎる上に、その安直さが始らしいとも思ったのだ。 「ミィ……どこ?」 泣きながら、もうとうに亡くなった自分の猫を呼んでいる。始が前の飼い猫を溺愛していたことは知っているが、まさか自分が一番弱っている時に会いたいと思うのが、現在の猫ではなく昔の猫だなんて。 三毛猫との十八年の付き合いが始の根底にあるのだとは分かっているけれど、悔しさが込み上げてくる。今最も大切にしているのは黒猫である俺ではないのか。救って欲しいと思う時に呼ぶのは俺じゃないのか。過去にしがみつくのか。 (……俺じゃない) だが始はミィと再び呼んでいる。せめて猫の姿になって会ってやるべきなんだろうか。 (始は猫が好きだ。人間より猫の方が良い) 分かっている。だが人間の姿の方が始の世話をしてやれるのに、それでも猫の方が良いのだろうか。 酷い人だと言いたくなる。 だが元々人間の俺じゃない、猫の俺が好きで同居してくれたのだ。始が猫を求めるなら、猫の姿になって応えるべきなのかも知れない。心身共に弱っている時に、酷いだなんて言ってはいけないだろう。 始を苦しめたいわけではない。 溜息をついては意識を集中させる。ぎゅっと体内の一点に自分の気持ちを集めて一つの塊にした後、それを解き放つ。 すると身体の輪郭が溶けていくのが分かった。人間の形が崩れて別のものになる。 生まれた時から当たり前のように出来たそれが今は苦くて、それこそ俺の方が泣きたい気持ちになっていた。 始が俺を抱き締めて泣きじゃくったのを覚えている。 ごめんね、ごめんねユエ。ひたすらにそれを繰り返していた。暖かい身体は、春が来ているといってもまだ冷える夜には心地の良いものだが。泣き声やぎゅっと抱き締めてられ、拘束されるような感覚は歓迎出来なかった。 それでも他の誰でもなく俺の名前を呼んでいることは分かったので、人間に戻った俺に残されていたのは「まあ許してやる」という妥協だった。 これでミィと繰り返されていたら、俺は唸り声を上げていたかも知れない。 黒猫と三毛猫の違いくらいは風邪で頭が馬鹿になっていても理解出来る飼い主で良かった。 結局昨夜は始の足元で眠った。三毛猫のミィはそうして眠っていたのだと話に聞いていたせいだろう。普段は枕元や、布団の中に入って丸くなるのだが、俺は猫なりに気を使ったらしい。 猫のくせに飼い主に気を使うなんて、我ながら何をしているのか。 (……立ち直れたと思ったんだがな) 悪夢でも見たのだろうか。だから亡くした猫が恋しくなって、泣きながら呼んだのか。 朝目覚めた後にまず始の様子を確認したのだが、あまり回復している様子がなかった。熱も高く、今日も一日寝込む羽目になるだろう。 (あんなに泣きながら猫を呼んでたんだ。そりゃ具合が良くなるわけもない) せめてゆっくり眠ってくれたなら、と思いながら朝飯の仕度をする。今日もおかゆで良いだろう。昨日はそれを見越してちゃんと柔らかめに白米を炊いている。 「おい」 朝飯の仕度をしていると始がふらふらとベッドから出てきた。身体が重くて満足に動けないと言わんばかりの鈍い動作に、見ているほうがはらはらする。 「寝てろよ。なんで起きてんだ。飯ならベッドまで持って行く」 「顔を、洗いたくて……」 始はくぐもった声でそう喋る。掠れている声は昨日より聞き取り辛い、もしかすると喉が腫れてきているのかも知れない。 今日は必ず医者に行った方が良いだろう。 (あんだけ泣けば顔もべたべたになるだろうな) 枕元にあった汗を拭くためのタオルで涙を拭っていたはずだが、次々止めどなく流れていた涙は一端洗った方がすっきりもするだろう。 支えてやった方がいいだろうかと思ったけれど、そこまですればもはや介護の領域だ。足腰の弱った老人よりかは動けるだろうと、始の好きにさせていたけれど。耳で状態を注意はしていた。洗面所で水を出す音や、顔を拭いているだろう微かな物音。もし変な気配があればすぐに飛んでいけるように身構えていた。 だが始はゆっくりではあるが一人で顔を洗うことくらいは出来たらしい。戻って来ては朝飯を作っていた俺の様子に気が付いて、食卓に着いてくれる。 「ごめん、ユエ。朝御飯まで」 「別にいいって言ってんだろ。それより昨日より酷くなってんじゃねえか?」 「そうかな……仕事はやっぱり、出来ないか」 「出来るわけねえだろ」 しょんぼりとしている始を怒鳴りそうになった。責任感があることのは飼い主としては美徳だが、仕事を第一に考えて身体を壊してまで働こうとする日本人らしさは頂けない。 ましてペットの立場からしてみれば、そんな精神は今すぐに捨ててペットを可愛がることを人生の目標にするべきだと思う。 「そうだね。こんな状態じゃむしろ迷惑になる」 (迷惑とかそういうことじゃねえよ) 自分のことをもっと考えろということなのだが、不調で落ち込んでいる始にそんなことを言っても、また泣かせるだけかも知れない。 普段あまり人に気など使わないように生きているせいか、始の様子に一々言葉を封じ込めるのは苦労する。 「あんまぐっすり眠れてもないんだろ」 椀におかゆを少なめについでやって、始の前に置く。木匙とお茶も添えると充分に朝飯になるだろう。昨日は卵を入れたが今日は梅干しが控えめに入っている。薄味ですんなり飲み込めるように作ったつもりだが。ちゃんと食べられるだろうか。 「そうだね……僕、うなされていただろう?」 始は木匙を手にとっては重そうに手を動かした。だがおかゆを一口含むと「美味しい」と呟いてくれる。それにほっとしながらも、昨夜の泣き顔が思い出されては憂いがすぐに戻ってくる。 「ろくな夢は見てなかったみたいだな」 あえて言葉を濁すと、始は溜息をついた。そして食事の手を止めては片手で顔を覆った。また泣くのかと思って焦る俺の耳に「ごめん」という謝罪が届いてくる。 始はずっと謝ってばかりだ。 「前に飼っていた猫の夢を見たんだ。風邪を引いている時はあの子がよく寄って来てくれて、それがまるで慰めてくれているみたいで。すごく嬉しかったんだ。それを思い出して」 そして死んでしまったことも自動的に思い出しては泣いていたのだろう。 「呼んでしまって、その後ユエが来てくれただろう。もうあの子はいないんだって思い出して辛くなったけど、でもユエがいてくれることが嬉しくて。頭の中がごちゃごちゃになったんだ」 風邪の時は精神が弱っているので理性も自制も効かない。当然冷静さもないので思考回路は混乱を極めていたのかも知れない。 「ユエを抱き締めてなかなか離さなかっただろう。鬱陶しくてごめん」 「それは別にいい。そんなことで怒りゃしねえよ、風邪引いて弱ってるんだ」 いいと言っている割に自分の声が尖ってしまっていることは自覚していた。それに対して始が顔を上げて不安そうな色を見せていることも。 「……俺でいいだろ。前の猫じゃなくて俺がいるだろうが」 一番最初に呼んで欲しかった。一緒に暮らしているのに、前の猫の名前が先に出たのが、嫌だったのだ。 みっともない嫉妬だとは分かっている。だが始の中を埋め尽くしているのは自分一人がいい、それが素直な気持ちだ。 「うん。そうだよね」 始は頷き、そして淡い笑みを浮かべた。 どうしてここで笑えるのか、俺には分からなくて面食らってしまう。嫉妬深くて賞着信が強い、そんな恋人としては欠点でしかないだろうところを見せたのに、何が微笑ましいのだろう。 「ユエは、僕と一緒にいてくれるね」 別れることはない。 それを実感していたらしい。 (……俺の利点はそこか) 人間と同じ寿命である猫。始にとって俺に見出している価値はそこしかないのか。あれだけ可愛いだの綺麗だの賢いだのと褒めながら、最終的にはそこに行き着くのか。 (他の猫には真似することも出来ないから、そこを重視するのは俺にとっては良いことかも知れないが) 猫でも人間でも、容姿端麗で頭脳明晰なのだが。その辺りは見向きもされていない気がして若干不服だった。 |