猫の気持ち 風邪の治し方 1
真っ暗の中で君が振り返ると金色の瞳が光るんだよ、月みたいに。それはもう綺麗で。星も見えない真っ暗な中でもその瞳だけはぽっかり浮かんでいる。 自分で付けた名前だけど、ユエっていうのは本当に君を表しているなと思うよ。太陽とは違って静かで、でも寂しくて冷たそうな夜をじっと照らしてくれる。希望みたいなものだ。 僕にとっては君がその光なんだね。 真っ直ぐ僕を見て呼んでくれる。柔らかな毛並みを擦り付けて甘えてくれる。 つやつやの真っ黒な身体。外国では黒猫が不吉だって忌み嫌われているけれど、僕にとしてみればとんでもないことだよ。 柄のついた猫も可愛いことは可愛いけど、一点の曇りもない純粋な黒は見事じゃないか。それに太陽の光を浴びるとキラキラと毛先が輝くんだ。身体の形や躍動がその光を帯びて君の存在を鮮烈にしてくれる。 微かな影や光が、君の身体がどれほど美しい曲線で作られているのか。人間の目に教えてくれるんだ。 君は夜の生き物みたいな色彩をしているけれど、太陽の光でも存在感を強める。とても魅力的な猫だよ。 すごいねユエ。可愛いのに美人で、格好良くて。 僕の自慢の猫だ。宝物だよ。 良い子だね。 猫でいる時の俺の意識は朧気だ。本能に従って生きているだけで、記憶力なんてあってないようなもの。 だが何度も繰り返されればある程度の言葉は脳裏に残ってしまうものだろう。そんな俺の中には始の口から出てきた褒め言葉が山ほど詰め込まれている。 黒猫は敬遠する人がいるからなぁ…という猫の嫁を貰った愛猫家の父は不安に思っていたことがあるらしいが、生憎と俺は最高の飼い主を引き当てた。 猫なのだから、誰が一番自分を大切にしてくれるかぐらい分かる。 黒猫だから嫌だと言う飼い主ではなく、黒猫がどれほど素晴らしい生き物が理解出来る飼い主を選ぶに決まっている。 事実始は俺を溺愛している。猫の時は勿論、人間の時の俺に対してはまるで中学生の初恋相手かみたいな態度で接してくれる。 顔を近付けただけで真っ赤になって固まる姿は可愛いだろう。十近くも年上の男相手にそう思うのはどうかしていると、自分でも思うのだが本音なので仕方がない。 これでも布団の中では好き勝手喘がせているのだが、あいつはいつになったらあれこれに慣れるのだろうか。 慣れない方が俺としては楽しいからいいんだが、本人は疲れないのか。 仕事に家事に俺の相手に。まあ俺もある程度家事はするんだが、猫としての俺の世話は完全に丸投げしているので、負担はあるだろう。 いや、あいつの場合猫の世話は負担どころかむしろ褒美だと思っているかも知れない。 それくらい猫の俺に触れるのが大好きなのだ。 人間の時よりもずっと可愛がって、大切にしようとしているのが若干癪に障るが。そういう人間を選んだ自覚はあるので仕方か無いかも知れない。 そう、とにかく猫の俺が一番、人間の俺もそれに同等、もしくはちょっとばかり下かも知れないが、どう足掻いても始の中は俺でいっぱいになっている。いつだって俺が始の意識を支配していると思っていた。 「花粉症か?」 その日、始は朝から鼻を啜っていた。目元もほんのりと赤くてどうにも怠そうだ。これから春になろうとしている季節。花粉症が始まる時期だろう。 まだまだ桜は先のようだが梅はもう良い頃合いであるらしい。両親は梅を見に数日前の夜にデートをしたと電話があった。 実に仲の良い両親で息子としては有り難いのだが、わざわざ別居している息子の元に連絡してくる内容であるかどうかは不明である。どうコメントして良いのか迷ったので「今度始と一緒に行く」と言っておいた。 なんだ仲睦まじい自慢ならば俺もやり返すぞ、という宣戦布告であったのだが母親は鼻で笑っていた。 おまえたちにはまだそれだけの絆がない、と言わんばかりの態度にカチンと来た。出逢って一年、確かにまだ短い期間と言えるかも知れないが、俺たちだってそれなりの経験と思いの確認をしてきたのだ。 決して信頼関係は負けたものではない。 「僕は花粉症じゃなかったと思うんだけどな〜」 寝起きでぼーっとしている始は、いつもより間抜けな顔をしている。意識が半分飛んでいるような有様で、のそのそトーストを囓り始めた。 相も変わらずジャムがたっぷり塗られたトーストだ。実家では一ヶ月以上かかって消費するジャムの瓶を、始は一週間で終わらせるのだから。糖尿病が心配ではないのだろうか。 (健康診断の結果とか、ちゃんと俺がチェックしないとな) ペットの健康管理は飼い主の役目。そして飼い主の体調を察するのはペットの役目。あくまでも察するだけで管理まではしてやらない、というのが俺の考えだが。まあ場合によっては指導してやらなくもない。 始は自分に対しては無頓着な部分があるのだ。俺の世話に集中しすぎているのだろう。 「花粉症は一気に来るらしいぜ。ある日突然だってさ」 「らしいね。職場にも花粉症の人がいるんだけど、毎日薬飲んでマスクして、それでも目が痒くてたまらないらしいんだよ。だからってゴーグルしたまま仕事は出来ないし」 人に会う仕事だからね、と始は気の毒そうに喋っている。 そして深く息をついた。それはもし花粉症だったら嫌だなという憂鬱から来ているのだろうか。それとも気怠さのせいで自然と出てきたものなのだろうか。 「たまに街中では水中ゴーグルみたいなのした人がいるけど、あれ初めて見た時はびっくりしたなぁ。そこまでしなきゃ駄目なのかと思って」 「きついやつは日常生活が真っ当に送れないらしいからな。顔が腫れるタイプもあるらしいぜ」 「え、顔が腫れるの?」 「ああ。だから外も出歩けないとかな。おまえそんなことになったらどうするんだよ」 もし始が酷い花粉症、または何かしらのアレルギーになったら大変だ。ずっと鼻を啜り眼を赤くして泣いているかも知れない。それではまるで俺が辛い目に遭わせているみたいではないか。 俺がいるだけで始は幸せになれるというのに。 「……おまえ、まさか猫アレルギーじゃないだろうな」 ふと最悪な状況を想像しては、マグカップを持っていた手が止まった。この世には猫に対してアレルギーを発生する、不幸のどん底であり人生が真っ暗なのではないかと思う人種が存在する。 しかもそれはある日唐突に襲ってくるものであるらしい。 まさか始がそんな体質になったわけではないだろうな。猫アレルギーは主に猫の唾液に過剰反応をしてしまう。毛繕いによって猫の唾液が毛に付き、その毛を吸い込むなどして人間は体調不良になるらしいが、猫の時の俺は自分どころか始にまで毛繕いをする習慣がある。 仲間意識と愛情表現である。それを始も分かっているので喜んで毛繕いを受けているが、まさかそれが原因だなんてことになれば、まさに地獄だ。 「僕が猫アレルギーなわけがないじゃないじゃないか。そんなことになったら僕がこの世に生まれてきた意味が分からないよ」 始は俺の想像を軽く笑い飛ばしてくれる。というか生まれてきた意味が分からないと断言するところに猫の飼い主らしさを感じた。 「それもそうか」 「そうだよ」 二人して納得してしまう。 始だったらきっと猫アレルギーになる前に身体が爆発するだろう。それくらいの覚悟と宿命を持って生まれてきたに違いない。 「でも花粉症かも知れない、っていう疑惑はあるなぁ……」 「医者に行って来いよ」 「でも今日は忙しくて」 出勤を遅らせることも、早退も無理だなぁ……と始はまた溜息をついた。ここのところ帰宅も遅くなっていたので、仕事が詰まっているらしい。 休日はその分ゆっくりと、それこそ自堕落に過ごすと決めて俺と一緒にいたがるので。休養は取れていると思うが。 「まあ、もう少し様子を見るよ。念のためマスクをして出勤してみよう」 花粉症ならそれで多少は改善されるだろう。 そう始は考えたらしい。 その時、何故俺達は根本的なことを視野に入れなかったのか。ということを数時間後の夜に後悔することになった。 「ごめん、ユエ…」 「完全に風邪じゃねえか」 やはり残業して帰って来た始は、ぜえぜえと苦しげな呼吸をしていた。というかこんな状態になるまでどうして働いてたのか。同僚も始が体調不良なのは見て分かるだろうに、どうして止めないのだ。 こいつの職場の人間はどうなっているんだ。人に気を使うということ、不調に気付いてやるということが出来ないのか。目が節穴ばかりのでくの坊か、と頭の中て罵りばかりが生まれてくる。 始はまず風呂に入りラフな恰好に着替えた。飯はもう俺が軽く作っておいたのだが、食欲があるとは到底思えない始に、肉たっぷりの牛丼なんて食わせられない。白米にだし汁を入れておかゆへと変えて卵を落とす。 猫なのに飼い主の世話をさせるなんて。と始が健康だったらからかうところだが、今はそんな冗談をまともに受け取って始は泣き出してしまいそうだった。 身体が弱ると心も弱る。 飼い主は俺のことに関しては繊細な心をしている。他の面に関しては見た目に反して割と図太いが。 「ユエ……ごめん」 風呂から上がってきた始はふらふらになりながらキッチンに入ってくる。赤い顔に重たそうな身体。ふらつく足元につい手を差し出して腰を支えてやるとびっくりするほど高い熱が伝わってくる。 それに俺まで酷く不安になった。 こんなにも弱っている始を見るのは初めてで、いつ倒れてもおかしくないという予想が胸を締め付ける。 「飯食って薬飲んで、寝ろ」 「うん。ごめん。御飯作って貰って」 「別にいい」 「僕、飼い主なのに」 「こんな時にまで関係あるかよ」 飼い主だの猫だの、俺が本当に猫で何も出来ない、世話をされるだけの存在ならともかく、人間でもあるのだから。頼りたい時は頼れば良いだろうに。 「でも」 「うだうだ言う前にとっとと休め。そして俺の面倒をみろ」 万全の体調で何の心配もなく笑顔で俺の世話をするのば始のやるべきことだ。そうでなければ俺は許さない。 なのでその状態を保つための手伝いくらいならば、してやっても良い。それに苦しげな顔など見ているだけで気が滅入る。 始は傲慢だろう俺の言いぐさに、それでも笑って「うん」と言った。だがその弱々しい微笑みはより一層俺の不安を掻き立てた。 |