通い方 2
狂犬病の予防接種か…。 二人がいなくなったリビングで、僕はまたテレビを見始めた。 ワイドショーみたいな番組が流れてるけど、頭に入ってこない。 実家の犬たち、狂犬病の予防接種いつだったっけなぁ。 親がちゃんと行ってくれるとは思う。ペットのことに関してはしっかりしてる両親だから。 テンも打たなきゃいけないジンテンパーのワクチンはまだまだ先だから大丈夫だとして。 そろそろ夏かぁ。 とそこまで考えて、僕はあることを思い出した。 予防接種じゃないけど、フィラリアの薬もらって来ないと。 フィラリアは蚊を媒体として広がる寄生虫だ。心臓や肺動脈に寄生する。 感染してそのまま放置すると確実に死んでしまう恐ろしいものだ。 フェレットは犬よりも高い確率で寄生しやすいので、フィラリアの薬は必須だ。 「犬じゃなくて良かった」 だらーんと後ろから寄りかかってくるテンは、完全に安心しきっている。 獣医に行くのは豆吉君ほど嫌がらないけど渋る。 人間なのになんで獣医なんだよ…とぶつぶつ言ってはなかなか動かないのだ。 フェレットの姿になった時、もし蚊に噛まれて感染したらどうするんだって言い聞かせるんだけど。 それでも嫌そうだ。 どうやらフェレットの姿をしている時、人に触られるのが嫌いみたいだ。 獣医さんだから仕方ないだろって言うんだけど。 (嫌がるだろうなぁ…) 行きたくないってだだをこねるに決まってる。 下手するとキスしろって言い出すかも。 さっき鹿野さんと豆吉君がやってるの見たからなぁ。 舌入れてくれないとやだ!とか。 (ありありと想像出来る…) 「俺、まだ獣医行かないよな?ワクチンって去年の十月くらいに受けたもんな。てか注射嫌いだから、もう行きたくないんだけど」 「駄目」 鹿野さんや大家さんだけじゃなく、僕も予防出来ることは予防する。 飼い主の愛情と思って欲しい。 ペットを危険から遠ざけるのは当たり前だ。 「フェレットにならなきゃ安心だと思うんだけど?」 「それじゃテンと暮らしてる意味ないだろ!?」 そう言うと、テンが大きく溜息をついた。 「亮平にとって、俺の価値ってそれだもんな。顔でも身体でも金でもなくてフェレット。そりゃ嬉しいけどな、滅茶苦茶嬉しいけど、いい加減複雑になってくんですけど。もしかしてペットショップに並んでる普通のフェレットに浮気されるんじゃないかって」 「そもそも付き合ってないだろ」 冷静にそう返すと、背後で嘘泣きをし始めた。 図体のデカイ男にそうやってしがみ付かれても鬱陶しいだけなんだけど。 「泣くなよ。天気いいから散歩に行こう」 「んー、どこ行く?」 テンは犬じゃないから散歩はいらない。 でも僕は子どもの頃から犬と散歩するのが好きだった。何でもない光景を眺めながら、ゆっくり歩くといい運動だったし、心も落ち着く。 だから今は犬じゃない人間のテンを連れて散歩してる。 テンは散歩なんてするタイプじゃなかったらしいんだけど、僕と一緒に出掛けるなら何でもいいって言ってた。 好きでいてくれるんだなって思えて、純粋に嬉しい。 いやらしいことさえしなければ。 「そーだな…。どっかいいところ。だからたまにはフェレットになってよ」 後ろからしがみついてくるテンの腕を離して、振り返ると不服そうな顔があった。 なんでフェレット。人間でいいじゃん。 デカデカしくそう書かれている。 格好いい顔なのに、そうやって拗ねていると台無し…でもないか。 これはきっと可愛いって言うんだろうな。 男の顔を可愛いなんて思うのは、かなりやばいことだけど。飼い主馬鹿だから仕方ない。 「最近見てないから。ちょっとでいいからなってよ」 にこにことわざと笑ってみせる。 僕がテンに弱いように、テンも僕に弱いと思う。こうやってフェレットになってくれってねだると、いつも渋々なってくれる。 今日もキャラメル色の頭をがしがし掻いた後「ちょっとだから!」と言って部屋に向かっていった。 人目のある状態では動物にはなれない。それがテンや豆吉君、動物になれる人達の特徴だった。 少し間をおいてテンの部屋に行くと、白いフェレットがちょこんとベッドの上にいた。 ワインレッドの丸い瞳、背中側は柔らかいミルクティのような色をしている。 短い足、長い胴。バランスの悪い体型のように見えるけど、穴蔵で生活するのに理想的な形らしい。 「あー…可愛い…」 くるくるの瞳に見上げられて、僕は思わず手を伸ばして抱き上げた。 暖かくて柔らかい生き物の感触。 びろーんと伸びた尻尾は、意味があるのかないのか未だに分からない。踏んでも一切文句を言わないくらいだ。尻尾の痛覚は相当鈍いんだろう。 「ほんっと可愛いよな」 口元が緩むのを止められない。 ずっと抱き締めて生活したいくらいだ。 きょとんした様子を見ると、デジカメを買って写真集でも作ろうかという気分になる。 実は本気で作ろうかと悩んでるけど。 でもきっと人間の姿になったテンは呆れるんだろうなぁ。 「テーン。いいところ行こうな」 こんな可愛い生き物を失うわけにはいかない。 蚊の脅威から遠ざけなければ。 僕はテンを抱きかかえたまま自室に戻った。 そして猫用のキャリーバックにテンを入れる。途中で状況に気が付いたらしいテンが暴れ始めたけど、僕が無理矢理バッグに突っ込むほうが早かった。 入れてしまえばこっちのもの。 キャリーバッグの中で元に戻ることは不可能だ。人間のサイズが入らない。 「さ、行こうか」 キャリーバッグに入ったテンにそう笑いかけると、ぶぅともぐぅとも付かない声で鳴かれた。フェレットはあまり鳴かない。それが僕の顔見て声を上げるということは、相当不満らしい。 でも我慢して欲しいところだ。 これもテンのため。 僕は手早く着替えて出掛ける用意をした。 近所にある獣医さんは年中無休だ。 日曜日もやっているのでとてもありがたい。 救急病院はここから車で三十分ほど。実にいい環境で暮らしてると思う。 外見は病院というより、雑貨屋さんのような柔らかい雰囲気がある。近くに立っている様々な動物が描かれた看板が愛らしいからかも知れない。 中は落ち着いた雰囲気の待合室だ。猫がだっこしている女の人や、うさぎを隣に座らせている人もいる。 そんな中、見知った人がいた。 鹿野さんと荻谷さんだ。 二人とも足下にはそれぞれの愛犬というか同居人が座っていた。 ソファに座り足を組んでいる鹿野さんは、読んでいた愛犬雑誌から顔を上げて意外そうな顔をした。 豆吉君はしゅんと座っている。 隣に座っている荻谷さんも同じく愛犬雑誌を持っている。 いつも煙草を吸っているイメージがあるんだけど、さすがに待合室は禁煙なので我慢しているのだろう。 「どうしたよ」 荻谷さんはちらりとキャリーバッグを見上げてくる。 ルディさんは僕を見上げて柔らかい金色の尻尾を振ってくれた。 ゴールデンレトリバーによく似た、優しい顔だ。 朝にごねたって聞いたけど、とてもそんな様子には見えない。 「フィラリアの薬を貰おうと思って」 受付を済ませて二人の近くに座った。 キャリーバッグの中でテンが暴れる。がたがた音を立てるから、犬たちが何事かとこっちを見てる。 他の飼い主さんや、犬や猫までこっちを見ていた。 奇怪な生き物の匂いがするんだろうなぁ。 フェレットはまだまだ知名度が低い。 テンを抱いて外に出ると「それ何?」と聞かれることがよくある。 いたちの一種です。としか説明しようがないんだけど、大概驚かれる。 ペットに出来る動物じゃないと思われているのかも。 「あー、フィラリアか。フェレットもいるんだな」 荻谷さんがキャリーバッグの中身を見て、にやりと笑った。 きっと目が据わったテンがそこにいるはずだ。 「お二人はもう終わったんですか?」 「ルディは終わったが、豆吉は今からだ」 ああ、だからルディさんはリラックスしてるのかな。 ぱたぱたと揺れる金の尻尾。そうですよ、と返事をしているように僕の足に鼻をつけてくれた。 丁度その時、診察室のドアが開いた。 看護士の制服を着ている女の人が鹿野さんの名前を呼ぶ。 「行って来い」 荻谷さんが豆吉君にそう声をかける。 けれど柴犬はじっと座ったまま動かない。耳も尻尾も垂れて、心底嫌がっているようだった。 鹿野さんは組んでいた足を解き、立ち上がる。 堂々とした動作だ。 そして愛犬を見下ろしたかと思うと、威厳のある低い声で名前を呼んだ。 「豆吉。立て」 主人から下された、絶対命令だった。 豆吉君はびくりと一瞬震えて、懇願するような目で鹿野さんを見上げる。 だが鹿野さんはじろりと豆吉君を見下ろしたままだ。 「何度も言わせるな。立て」 聞いているこっちまでびくびくしてしまいそうなほど、威圧的な声だ。 逆らうことを許さない声に、豆吉君はゆっくり立ち上がった。そしてとぼとぼと診察室へ入っていく。 ここで逃げないのがさすがだ。 実家の犬はここでも抵抗していた。待合室で犬に言い聞かせるのはなかなかに恥ずかしい経験だった。 「相変わらずご主人様と下僕だな」 荻谷さんは関心したように、二人が入っていたドアを眺めた。 ご主人様と下僕。 確かに人間の二人なら、そう言えなくもない。 「毎年、あれなんですか?」 「そう。毎回嫌がって、毎回ああして鹿野に怒られてんだよ」 どうやら毎年のことらしい。 二人ともあれを繰り替えし続けているわけだ。 懲りない、だろうなぁ。豆吉君のあの様子を見る限り。 「ルディさんは、だたこねなかったんですか?」 本人が足下にいるのに、話すことじゃないのかも知れないけど。つい口からぽろっと出てしまった。 すると荻谷さんは溜息をつく。 「犬で注射は嫌らしくてなぁ…。昨夜からずっとへそ曲げてたんだよ。ケーキはワンホール買わされるわ、晩飯は霜降り肉ですき焼きだわ、今朝はなかなか犬にならねぇわで」 「はあ…」 「毎年どうやって宥めても、いちゃもんつけんだよ」 荻谷さんは珍しく参ってるみたいだった。 それにしても、ルディさんは線の細い身体をしているのに、ケーキワンホール欲しがるなんてすごいなぁ。荻谷さんはケーキとか洋菓子は嫌いだって聞いたことがあるから。きっと一人で食べるんだろうな。 「その点、おまえんトコは簡単だよな」 「フェレットになったところをキャリーバックに入れれば終わりですから」 さっきそうやって持ってきたことを説明すると、荻谷さんに羨ましそうな目で見られた。 「楽だな…」 相当苦労させられたみたいだ。 いつも羨ましがるのは僕のほうなのに。 「利点はそれくらいしかありません。ルディさんみたいにお座りも出来なければ、待ても出来ませんから」 「まー、そうだな」 「大人しくありませんし」 「そういうのとは無縁だろ」 人間のテンも、動物のテンも知っている荻谷さんは苦笑している。 はしゃいでいるか、騒いでいるか。そうでなければ寝ている。 そんな単純な構造になっている生き物なのだ。テンは。 僕はそこが少し羨ましい。 荻谷さんは「鬱陶しくて、始終あれがいると苛々するだろ」って言うけど。僕は救われていることのほうが多かったりする。 テンが来てから精神的にちょっと変わって来たけど、動物のいない生活をしている時は、小さなことをいつまでも気にして、引きずっていた。 終わったことを悩み続けても、いいことなんてないのに。 なかなか吹っ切れなくて、落ち込んで、自己嫌悪になっていた。 でもテンと暮らすようになって、それががらりと変わった。 落ち込む時間をテンが与えてくれないっていうのもあるけど。 テンがいる生活が、嬉しかったりする。 実は心の中で、ありがとうって何度も言っている。 キャリーバッグの中で飽きずに暴れているやつには、教えないけど。 next |