通い方 3



 豆吉君が帰って来る前に僕の名前が別の診察室から呼ばれた。
 この病院は診察室が二つ、カウンセリング室が一つある。
 もう一つの方では豆吉君が心の中で泣いていることだろう。
「よろしくお願いします」
 中に入ると助手である女の人と、眼鏡をかけた獣医さんがいた。
 テンがいつもお世話になっている男のお医者さんだ。
 全体的に丸い体型で、テンをキャリーバックから出すと目を細めてる。
「久しぶりテン君。元気でしたか?」
 獣医さんにテンを渡すと、にこにこと笑いながらテンに話しかけてる。
 そのでれでれっぷりに毎回親近感を覚えていた。
 この人、本当に動物が好きなんだろうなぁ。
 四畳ほどの診察室にはステンレスのテーブルが置かれている。
 それを挟んで、僕は獣医さんと向かい合って座る。
 テーブルの上には大判図鑑ほどの大きさの体重計がある。
 その上にはカゴが置いてあり、テンはそこに入れられていた。
「体重に変化はありませんね」
 テンは半眼で僕をじろりと見てきた。
 怒ってるなぁ〜。
 カゴからテンを持ち上げると、今度は耳の中を調べている。
 フェレットは耳ダニが沸きやすい生き物なので、ちゃんと獣医さんにチェックしてもらう。と言ってもテンは人間の時に自分で耳掃除してくれているから心配ないんだけど。
 次は聴診器で心臓の音を聞いた。
 胸の辺りを触られるのが嫌で、テンは短い前足で抵抗していた。
(可愛い…)
 身体に対して短い足で、じたばたしている姿が一番可愛いのだ。
 本人にとっては迷惑この上ないんだろうけど。
 その後は触診で足の関節や腹の部分を調べて、獣医さんはにっこりと笑った。
「異常ありませんね」
 もし身体に何かしらの不調があれば、人間の時にそれらしい素振りを見せてくれただろうし、テンも自分でどうにかしているだろう。
 そう分かっていても、獣医さんから異常なしと言われる安心感は変わらない。
「何か気になることとかありませんか?」
「特には」
 あれば直接本人に聞いている。
 その点が便利だといえば便利な生き物だった。
「それでは、フィラリアのお薬出しておきますので。毎月一回飲ませてあげて下さい」
「はい」
「これさえ飲んでればどれだけ蚊に刺されても大丈夫ですから」
 テンを手渡してくれながら、獣医さんはずっとにこにこしてる。
 僕がもし獣医でも、こんな様子なんだろうなぁ。
 でも可愛がるだけで獣医はやっていけないんだろう。
 帰ってきたテンは、やはり僕を見上げて不服そうに目を据わらせている。
 これは相当機嫌が斜めだ。
 帰ったらうるさいだろうな、と思いながらも再びキャリーバッグに入れる。
 しばらくキャリーバッグで生活してもらおうかな、という鬼のような考えが浮かんでしまった。



 家に帰った途端、キャリーバッグの中でテンが暴れた。
 これでもかと言うくらい全身で「出せ!」と抗議をしてくれたわけだ。
 僕は出したくないなあ…と思いながらも渋々キャリーバッグを開けてテンを解放した。
 すると自室に一目散に駆けていった。この隙に僕もどこかに逃げようかと思う。
「酷い!いきなり獣医に連れていくなんて反則だ!いきなりあんなところに連れて行かれるならもう二度とフェレットなんかにならない!!」
 服を着てリビングに戻って来たテンは、猛然と文句を並べてきた。
 感情の起伏が大きい子だから、笑うときも腹を抱えて笑うけど、怒るときも全力で怒ってくる。
 それだけ一生懸命になっている人って珍しいと思う。
「だって言ったらごねるだろ?」
「ごねさせてくれてもいいだろ!?ごねるペットを宥めるのが飼い主の義務じゃん!亮平はその義務を怠ったんだぜ!?俺が怒るのも当然だって!」
「そんな義務聞いたことないっての」
 いつ出来たんだよ。
「あのルディだってごねたんだぜ!?俺がごねないわけないじゃん!それくらい亮平だって分かってんだろ!?それなのにいきなりキャリーバッグに突っ込んで連行はないだろ!」
「注射したわけじゃないんだから、そこまで怒られることはないと思うんだけど」
 ルディさんも、豆吉君も、あれだけ嫌がっていたのは注射が嫌いだからだ。
 でもテンは今回診察だけで、注射は打ってない。
 痛い思いをしてないのに、二人と同等の被害を受けたと言い張っている。
 僕からしてみればあれは被害でもなんでもなく、ただの義務だと思うんだけど。
 飼い主には予防接種を受けさせる義務。飼い犬には受ける義務があるというだけで。双方諦めるしかないと思っているんだけど。
「注射じゃなくても、触られるのだって嫌なんだよ!亮平だって見ず知らずのおっさんにあちこち触られたら嫌だろ!?」
「見ず知らずのおっさんって…医者だろーが」
 そりゃ確かに見ず知らずのおっさんに理由なく触られるのは嫌だ。気持ち悪い。
 でもテンを触った人は獣医さんで、ちゃんと意味があって触っているわけだから。そこは仕方がないと納得するところじゃないんだろうか。
「医者でも嫌なもんは嫌!俺は亮平にだけ触られたいの!他のやつなんかに触って欲しくない!フェレットの時は特にそうなんだって!」
「そうなんだ」
 フェレットって人懐っこくて警戒心が薄いから、触られるのは平気かと思っていた。でもテンは違ったらしい。
「そう!それなのに何の心の準備もなくあんなおっさんに俺を渡すなんて酷い!鬼だ!俺は見返りを要求する!」
 んー…と僕はがんがん苦情を投げてくるテンを見て唸った。
 今まで飼ってきた動物たちを何度も獣医に連れていったけど。
 みんなこんな気持ちだったんだろうか。もしそうだったとすれば、日本語喋れたらうるさかっただろうなぁ。
「見返りって何」
 テンが要求するものなんてろくでもないに決まっている。
 どうしてかこのフェレット、というか男は僕を欲しがる。
 飼い主としてだけではなく恋人に近いことまで求めてくるのだ。
 平たく言うと、身体まで欲しがってくる。
 これには初めかなりのショックを受けた。
 同性に押し倒されるなんて、まして自分が抱かれる側になるなんて思ってもみなかった。
 何考えてるのかと、混乱したものだ。
 今では「テンはそういうことを考える生き物」として捕らえているので、わりと冷静さを保っていられる。
「キスして!もちろん舌入れで」
 やっぱりこのいたち馬鹿だ。
 僕は心底呆れた目でテンを見てやった。
 するとその視線に気が付いたらしく、テンはまた「酷い!」と声を荒らげた。
 酷くないだろ。
 だって男にキスねだるなんて。
 しかも舌入れって、今朝の鹿野さんと豆吉君でもあるまいし。
(って…あれを見たから…?)
 あの二人が濃厚なキスをしているのを見て、自分も欲しがったんだろうか。
(うっわ…迷惑だ…)
 お隣さんから時々怒鳴り声が聞こえてくることはあるが、今まで迷惑だと思ったことはない。
 むしろ付き合いやすい人たちだと思っていた。
 鹿野さんはよく朝の通勤が一緒になる。淡々としているがそれなりに会話をしてくれるし、いつもはクールでしっかりしているのに、半分眠っているような様子は見ていて意外性がある。
 豆吉君は礼儀正しいし、テンとも仲がいいみたいでよく部屋にも来ているけどたまにご飯を作ってくれている。僕もテンもご飯は作れないことはないんだけど、めんどくさがりやだから誰かが作ってくれると無条件で喜んだ。
 そんな二人を初めて恨んでしまいたくなる。
「豆吉だって、獣医行くのにキスしてもらってんだよ!?あの鹿野さんに!暴君鹿野さんが自分から舌入れてくれるほど獣医は俺たちにとって嫌なところなんだよ!それを何の見返りもなく行けるかっての!」
 ああ、つけあがっている。
 この馬鹿フェレットは調子に乗ってキスを強要している。
 僕は平手で頭を叩いてやろうかと思った。
 甘えるな!とはたいて突き放せばすっきりするだろう。
 だが二度とフェレットになってくれない可能性がある。
 正直なところ、フェレットになったテンに会えないのは大打撃だ。人生が嫌になるかも知れない。
「亮平!聞いてんの!?目ぇ開けて寝るって言うならこのまま押し倒して欲しいもん全部もらうけど」
「押し倒すな!」
「だって返事してくんないじゃん」
「呆れてんの。返事出来ないくらいに」
「なんで!?呆れるようなことじゃねぇって!正当な要求だろ?大体べろちゅうくらいでそんなに悩むことないって」
「べろちゅうくらいでそんなにこだわることもないだろ」
 冷静に返すと、テンがとうとうすがるような目で僕を見てきた。
「亮平〜」
 脅しの次は泣き落としのようだ。
 そこまでしたいもんなんだろうか。
 僕は見た目もテンみたいに格好良くないし、頭の出来もごく普通。収入だって平均的な会社員だ。そこまで欲しがる価値がどこにあるっていうのか。
 飼い主馬鹿なところがいいっていうのなら、甘えるだけでいいと思うんだけどなぁ。身体まで要求しなくても。
「どうしても?」
「どぉぉしても!」
 テンは執拗なまでに訴えてくる。
 こうなると手が着けられない。
 はいはい。と僕はおざなりに返事をしてテンの胸ぐらを掴んだ。
 心の中で大きく溜息をつく。なんでこんなことに…。
 そして一瞬だけ唇を重ねる。もちろん舌なんて出しているわけがない。
「へ」
 テンが呆気にとられて、僕を見下ろした。
 男に自分からキスをする日が来るなんて…。と少したそがれてしまう。
 嫌でも気持ち悪くもないけど、なんだか遠い目をしたくなった。
「こんだけ?」
 拍子抜けした声に、むっとしてしまう。
「これだけ」
「なんで!?舌は?べろちゅうじゃねぇの!?」
「しない!テンにはこれで十分だろ!?注射打たれたわけでもないんだから!」
 そう怒鳴ると「えー」と不服そうな顔をした。
 だが僕が睨み付けると、諦めたように溜息をついた。
 本当に手間のかかる奴だ。
 でもキス一つでここまでごねるなんて、面白いというか、面倒だというか、何というか。
「じゃあ、ワクチン打つ時はぺろちゅうしてくれよ?」
「は」
「えーっと、何ヶ月後だっけ?ワクチン打つの」
 テンはすぐさま機嫌を直して、リビングに飾ってある壁掛けカレンダを眺めている。
 そうだ。テンにも注射しなきゃいけない時期がある。
 それまでに今日のことを忘れてくれていればいいけど。
「カレンダーに花丸でも付けとく?」
 にこにこと上機嫌になってしまったテンに、僕は「いや…いらないんじゃない?」と控えめに止めた。
 ワクチンを打つ時はべろちゅうって…。なんだそれ。
 そんなの僕から出来るわけないだろ。さっきのキスだって抵抗あったのに。
 いっそ睡眠薬でも飲ませて獣医に連れていこうかと、頭の中で画策してしまった。




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