犬の飼い方 9



 風呂から上がって、缶チューハイに口を付けた。
 酒なんて飲み会でくらいしか飲まないのだが、今日は衝動的に購入していた。
 現実と正面から向かい合うのに疲れたのかも知れない。
 アルコールで程良く緩んだ頭。うとうと軽い眠気を覚えながら情報誌を読んでいた。
 傍らには豆吉がおり、丸くなっている。あぐらをかいた俺の膝に頭をくっつけていた。
 豆吉は俺が家にいると大抵こうして側にいる。見えなくなるのが嫌だと言っているみたいだ。
 安心しきっている姿。
 微笑ましいのに、ずきりと胸の奥が痛い。
 豆吉は今幸せだろうか。
 ペットを飼うと時々思うその疑問。豆吉が人間になると知る前まではその問い掛けは謎のままだった。豆吉は答えられないから、どんなことを思っているのかと想像していた。
 だが今の俺は断言出来る。
 幸せなんかじゃない。
 豆吉はこれでいいと言うかも知れない。
 だがいいわけないのだ。これが最上の幸せだなんて、有り得ない。
「なぁ豆吉。おまえそれでいいのか?」
 話しかけると豆吉は頭を上げて俺を見た。なぁに?と問い掛け返すような瞳に、俺は胸が締め付けられる。
「おまえの友達が心配してた。おまえに我慢させてるって俺に怒ってた。無理もないよな」
 俺は伊達に色々怒鳴ったけれど、言われていることを否定はしなかった。
 物の言い方は褒められたものではないけれど、筋は通っていた。
「こんなのおかしいだろ。いきなり人間のおまえが消えるようなもんだ」
 他人と関わりがあった人が、あんな風に心配してくれる、怒ってくれる友達を持っている人が消えてしまう。
 それは重大なことだ。それがこんなひっそりと進んでしまうのは、おかしい。
「俺がここにいたら、ずっとおまえは犬のままでいるつもりか?誰とも会わずにいるのか?」
 この部屋にずっといたのなら、俺と一緒に時間が長くなればなるほど。もう一つの豆吉の姿は潰されていくのか。
「それでいいのか?幸せなのか?」
 話しかけてもただ豆吉はじっと俺を見つめるだけだ。
 そこに答えがあるのだろうか。だが俺には見えない。
 眼球が曇っているというより、俺の思考がまともな判断を拒否しているのだ。都合の悪いことを外そうとしている。
 だが心はもう、それじゃ駄目だと言っていた。
「こんなのきっと壊れてる。おまえは普通じゃないけど。壊れていいわけないんだ」
 俺はそう言って立ち上がった。
 いいわけない。こんなの何も良くない。
 豆吉は普通の犬じゃない。なのに普通でいろなんて無理な話だったのだ。
 自分の思う形に押し込めて、思い通りにしようなんて豆吉は苦しいだけだ。辛いだけだ。
 俺はそんなことを強要するだけの飼い主じゃない。
 寝室に入って、俺は毛布を引っ張った。そして俺の後ろを付いてきた豆吉の上にかぶせる。
「人に戻れ」
 もう人間になんてなるな。そう心から願ったことは数え切れない。そしてそれに近いことも口にした。
 だが戻れと言ったのは、願ったのは初めてだった。
「もういいよ。戻ってくれ。おまえは人間だろ?」
 豆吉は毛布の中でもごもご動いていた。
 そしてひょっこりと頭を出しては首を傾げる。
 不思議そうなその仕草に俺は血の気が引いた。
「……戻れないなんてこと、ないよな?まさか…心底そう思ったから、戻れないなんて」
 もう人間の姿を捨ててしまって、引き返せないところまで来てしまったなんて、そんな事態になってしまったのか。
 俺は慌ててしゃがみ込み、豆吉を間近で見る。
「な、豆吉。戻ってくれ。今更こんなこと言うのは酷いけど」
 人間になるなと言っていたのに、戻れと命じるなんて利己的すぎる。だが俺は豆吉に懇願した。
 もうやり直せないなんてことになれば、俺は今までやってきた全てを憎むだろう。自分を殺したいと思うだろう。
 耳の近くで大きく響く鼓動に嫌な汗が滲んだ。
 豆吉は必死な俺から逃げるみたいにまた毛布の中に頭を突っ込んだ。
 そしてまたもぞもぞとしたのだが、その形が歪になる。
 ゆっくり、風船が膨らむようにその毛布の緩やかな山が膨張していく。
 戻っていく。俺が二度と会いたくないと思っていたはずの姿へと。
「鹿野さん」
 か細い、弱々しい声と共に男が現れる。
 見上げてくるその瞳は情けないほどに困り果てていた。
「……二度目だが、未だに信じられんな」
 俺は現実味の薄い光景に溜息をついた。受け容れがたい事実だ。
「すみません……」
 うなだれて男が謝罪する。また土下座でもするつもりだろうか。
「詐欺だ」
「はい……」
 責めると男の声がまた小さくなった。打ちひしがれているが、それはこっちがしたいことだ。
「……おまえ、水曜日に必修があるんだってな?」
 そう言うと男は驚いたように顔を上げた。
「大学生なんだな」
「…二回生です」
 ということは丁度二十くらいか。
 俺とも差のある年なのだなと思う。
「どこだ」
「宮園です」
 その大学はここから電車で十数分のところにある大学だ。俺が大学受験をしていた頃、なかなかに偏差値の高い大学だったと記憶してる。
「そこそこじゃねぇか」
 頭は悪くないらしい。豆吉も教えたことはすぐに覚えたから、きっと飲み込みも良いのだ。
「でも出席しないと単位出ないぞ」
 どんな講義であったとしても、出席が足りなくては単位は落ちないだろう。相当物好きな教授でなければテストもレポートも受け付ないはずだ。
「いいんです」
 単位という言葉に男はまた俯いた。
「留年するつもりか」
「構いません」
 俺の問いに男はすぐに答える。
 今さえ良ければいいと言うのだろうか。だが俺たちの生活は「今だけ」というものではないはずだ。これからもずっと一緒であるという前提だ。
「卒業出来なくなるぞ」
「いいんです。鹿野さんといられたらそれで」
 重すぎる台詞だ。
 それをこの男は本気で言っているのだろう。だからあれからずっと犬でいる。
 今だって戻れと言えばきっと戻るだろう。そしてもう喋らなくなる。
「将来までボロボロになるぞ」
「犬ですから」
 人間と違い犬の幸せは飼い主の側にいることだ。だから大学も卒業も将来も関係がない。きっと男はそう言っているのだろう。
「人間辞めるつもりか」
「鹿野さんと暮らせるなら」
 たったそれだけの、たった一つだけの条件を必死に守るためにこの男は他の全てを捨てるつもりだろうか。
「家族や友達はどうする」
「……それは」
「行方不明か」
 一人で生きているわけじゃないだろう。その意識は男にもあるようで、後ろめたそうに深く息を吐いた。
「家族は、分かってくれると思います。そういう一族ですから」
「血筋か」
 どういう仕組みで犬になるのかは分からないが、遺伝子に何かあるらしい。
 ということは犬になる遺伝、猫になる遺伝、と俺の知らないところで奇妙な人間の家系が存在しているのだ。
「友達は放置か」
「仕方有りません」
 そんな一言で決着を着けられる友達というのも気の毒だ。もしくは、それだけ俺が重要なのだと理解するべきなんだろうか。
「俺が全てか」
「僕は犬ですから。飼い主がいなければ生きていけません」
 犬だと人の口で言う。
 心配してくれる友達を捨てても、この男は俺を選ぶ。きっと誰でもなく俺だけを真っ先に求めるだろう。
 鬱陶しいほどの執着。息苦しいほどの束縛を感じる。だが一方で、そうでなければ俺の犬じゃないという無駄な矜持が顔をのぞかせた。
 これが俺の溺愛の形であるとすら思う。
「他にもっと融通が利く飼い主がいるだろ。おまえ見た目も悪くないんだ」
 ちょっと生真面目っぽい雰囲気はあるけれど、顔立ちは決して悪くない。年上の女に保護欲を掻き立てそうな印象だ。
 きっと犬になれるのだと囁いても、いけるんじゃないだろうか。
 そう、そそのかす俺に男は首を振る。
「僕の飼い主は鹿野さん一人です」
 貴方だけ。そう言われるたびに俺の精神がざわつく。
「馬鹿かおまえは。俺の何がいいんだよ」
 豆吉に対してならともかく、この男に対しては酷いことしか言っていない。しかも相当怒鳴ってきている。
 追いつめてきたのに、どうして俺だと言えるのか。
 理解できない俺に、男は顔を上げた。情けない表情ばかりだったはずなのに、今は恐ろしいほど意志を感じさせる双眸で真っ直ぐ俺を見上げてくる。
 ぞくりとした。
 怒りより、憎しみより強いものがそこにはあった。
「一目見て決めたんです。この人について行くんやって。そう思ったんは初めてです」
 何と言われようと、どう叩かれようと、絶対にこれは曲げない。
 そう主張しているようだった。
 そんなに強く決めてしまっていいのか。どうして迷わないのか。
 俺はその意志を壊せるほどの力が、思いがない。
「道を踏み外したな」
 こいつには、まだ色んな未来があったはずだ。色んな道と手段があったはずだ。
 けれどそれを自ら閉ざしてしまった。
 こんなところに来てしまった。
「外してません」
 哀れみすら覚える俺に、男は立ち向かってくる。
 その揺るぎなさがどこから来ているのか。俺には分からない。
 だって俺はあまりにもぐらぐらと、迷って悩んで、自棄になったくらいだ。
 心のどこかで、勝てないなと呟く声があった。


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