犬の飼い方 10



「犬の十戒を知っているか?」
 それはペットになった犬が飼い主に願う十つの思いだ。
 男はそれに頷く。
「俺はあの十戒をたまに思い出す。そして泣きたくなる」
 感動の超大作なんて呼ばれる物語には心動かされないのに、俺は単文が十つ並んでいるだけの文章に涙を誘われるのだ。
 奇妙なことだろう。
 だが俺にとってその十つの言葉は、どれも自分の飼い犬から聞こえてくるような気がするのだ。
「たぶんおまえには当てはまらない部分があるだろう。言葉や、寿命。それらは外されるんだろうな。だがおまえが俺を好きなことも、信じたいことも分かってる」
 豆吉はいつだって全力だ。
 だって犬は手を抜くことを知らない。
 生きることも、愛することも、彼らは一切怠けたりしない。
 だから俺が全力じゃないだなんて、それこそきっと卑怯なのだ。
「俺はこの十戒に、自分で一つプラスしてることがある」
 人差し指を立てる。
 あの十戒はどれも大切なこと、素晴らしいことだと思う。
 けれど俺はそこに一つ付け足した。それが俺にとっては一番大切なことだったのだ。
「犬は俺を幸せにしてくれる。だから俺も出来るだけ犬を幸せにするということだ」
 男が目を見開いた。
「これは戒めというより、俺の祈りだな」
 告げた後に苦笑してしまった。
 幸せにしたい。けれど愛犬にとってどれが最も幸せであるのかなんか俺には分からないのだ。
 どれだけ考えても、悩んでも、問い掛けても。犬は喋ることが出来ない。意志の疎通が出来ない。
 だから俺は犬が幸せになれるように、幸せでいられるようにいつだって頭を悩ませるのだ。そうでなければ駄目だと思っている。
 分かり合えないからこそ、深くなる思いだってある。
「俺は自分だけが幸せだなんて無様なことはしたくない」
 だってそれは馬鹿だろう。周りを、自分が好きな相手を犠牲にして成り立つ幸せに何がある。俺はそんな薄っぺらい幸せは欲しくない。
 そんな愚鈍な人間でいたくない。
「だが今はどうだ」
 現状は、俺の姿勢通りになっているだろうか。
「僕は幸せです!」
 己を嘲る俺に、男は反論するように宣言した。だがそれに俺は同意しない。
「犬である時はな」
「僕は犬ですから!」
 どうしてそんなに堂々と発言出来るのか。俺はそろそろこいつの神経を疑ってしまう。
「そんなの人間としては終わってる!」
「ええんです!」
「良くない!」
 方言で力強く告げた男に、俺はきつく言い返した。
 問答無用とばかりに怒鳴りつける。
「俺はおまえが幸せでなければ不満だ!自分の犬が不幸だなんて冗談じゃない!たとえ人間になるなんていう訳の分からんオプションが付いていてもだ!」
 もう俺の中でそれは豆吉のオプションだった。人間になれるという事実は豆吉の愛おしさに押し負けたのだ。
 だって失いたくもない。泣かせたくない。いつも嬉しそうにしていて欲しい。
 そして不自由などさせたくないのだ。
「裏で我慢してる、不幸でいるなんて許せるか!」
 俺は正直なところ。人間でいる豆吉を否定して消そうとすらしたのに。
 伊達の口から豆吉の不遇を聞かされて衝撃を受けた。
 どうして自分が知らないのに、伊達が知っているのか。そんな単純な事実に打撃を喰らったのだ。
 愛犬のことなら一番よく知っていたい。その気持ちを分かっていたい。
 それが俺であったはずだ。
 なのに、その主義すら誤魔化していたのだ。
「俺は飼い主だ!愛犬家だ!犬好きなんだよ!」
 そんなの言うまでもないことだろう。そう俺は訴える。
「おまえに情けない面させるわけにはいかない!おまえは俺の犬だろうが!」
 その表情を見れば見るほど、不甲斐なさを噛み締めるのだ。
 裏切られたと被害者でいれば自分は守れるけれど、豆吉は守れない。
 ならばそんな意識は捨ててしまえばいい。
 丸ごと守れるだけの度量が俺にはあったはずだ。
「はい!」
 男は、豆吉は背筋をぴんっと伸ばして覇気のある声で返事をした。
 そして驚いていたその顔に、喜色がぱぁと広がっていく。
 それに俺は納得してしまう。
 俺の犬なのだから、そうやって喜びを見せていなければ駄目だ。この瞬間瞬間が嬉しいのだと、俺の側にいて良かったのだと実感しなければ駄目だ。
 だってそれは俺だって感じたいことだから。
 分かっていた、分かり切っていたことだけれど。
 やっぱり拒絶するより、認めて受け容れ合った方がずっと心地良い。
「分かったなら、水曜は大学行って単位取って来い。水曜だけでなく必要な場合は俺の前でも人間の姿に戻ってもいい」
 人間で暮らしてきた過去があるなら、犬だけでいる方が土台無理なのだ。
 軋みが出来るに決まっている。すでにそれは生じているののだろうから、これから埋めていかなければいけない。
「だが出来るだけ犬でいろ!俺は犬に癒されたいんだから!」
 戻っていいと許可を出した途端に、犬の豆吉を撫でたくなって俺はそう念を押す。
 暮らしたかったのはあくまでも犬だ。愛くるしい生き物だ。
 そこは決して代わらない。
 男はそれに不安そうな顔を取り戻す。
「……本当にそれでいいんですか?」
 あれだけ嫌がっていたのに、今日になってそれを認めるなんて、良いのだろうかと思っているようだ。けれど俺はそれに笑ってしまう。
 ずっと、あの時からそれを考え続けていた。悩んでいた。
 認められないと言いながら、自分に言い聞かせながら。俺は受け容れる覚悟をしていたのだ。人からすれば唐突な決断かも知れないが、随分時間はかかったのだ。
 受け容れるつもりがなければ俺はあの時、豆吉と離れていた。
 俺が迷うということは、その時点でかなりの確率でもって認める方向に動いているようなものだ。
 そういう自分の性格を、俺はいつも失念してしまう。決着をつけてから思い出すのだ。
「人間と同居なんてごめんだが。仕方がない」
 渋々そう告げる。仕方がないという表現以外思い付かないような現状だ。
「どんな事情であっても一度飼った犬を捨てるなんて俺には出来ない」
 理由はそんなシンプルなものでいいじゃないか。
 吹っ切ってしまった俺に豆吉は微かに表情を歪めた。泣き出すのをぐっと堪えた子どもみたいだ。
「鹿野さん」
「なんだ」
「ありがとうございます」
 ずっしりと思いの丈を込めたであろう響きに、俺はもう重いとは感じなかった。
 それどころか飼い犬からその言葉を貰える俺は、もしかすると幸せ者かも知れないとすら思う。普通の犬ならどれだけ言いたくても言えない。俺がどれだけ聞きたくても聞けない。
 だが俺たちはそれが出来るのだ。
「僕、最高の飼い主に出会えて幸せです!」
「そうだろうよ」
「はい!」
 否定もしない、照れもしない。ただ自信を溢れさせて肯定する俺に、豆吉は元気良く答える。
 俺も豆吉には甘いのだろうが、こいつも大抵盲目的だ。
「……ところで、大学に行ってるってことはおまえにも戸籍やら何やらはあるんだよな?」
 今まで目の前の男が豆吉だと認めたくなかったので深く追求するのは止めていたのだが。腹を括ってしまうと細々としたことが気になる。
 俺はまだ何も知らないのだから。
「はい。あります」
「名前は?」
 間抜けな質問だった。
 俺たちは二ヶ月以上前に出会い、一緒に暮らしていた。大きな問題にも直面して、声を張り上げて言い合ったというのに。名前も年齢も知らないなんて馬鹿馬鹿しい。
 しかしある意味これが、始まりになるのだろう。
「柴田康史です」
 ふぅんとそれに相づちを打ちながら、柴犬だから名字に柴が入っているのだろうかと思った。だとすればなんだか安直だ。
 それにしても思ったよりずっと普通の名前だ。
「でも豆吉って呼んで下さい!僕は鹿野さんの犬やから!」
 嬉々として宣言する豆吉に「ああ」と応じつつも、堂々と自分を犬だと言う姿はアブノーマルだなと思う。
 とてもではないが他人に見せたい光景ではない。
 それでも俺の目にはなかなか悪くない様に映った。



「あの、じゃあ。行ってきます」
 玄関で豆吉がおずおずと告げた。
 水曜日の講義は二限からのようで、その時間に合わせて出て行く頃には俺も起きていた。休日はだらっと眠っていたいのだが、豆吉と暮らし始めてから朝方の生活に変わったのだ。
 人間の姿を取っている豆吉は緊張したように俺の前で色々と動き回っていた。伊達の部屋に置いていたという私物もこの部屋へと随分運び込んでいるようだった。
「帰るのは三時くらいだと思います」
 抑揚は方言を出しているのだが、言葉だけだとそれが出ていない。無理に方言を隠す必要もないだろうに。
「それから散歩に連れて行って下さい!」
 今朝は豆吉を散歩に連れて行っていない。休日は大抵俺が朝のっそりしているので昼から出ているのだ。
 それを今日は豆吉が帰宅してからにしてくれと言っているのだ。つかそんなこと今言わなくてもいいだろう。
「分かったから。早く行け」
 別にわざわざ話さなきゃいけないことでもないだろう。改まった態度に俺はやや疲れてしまう。そんなに気を張らなくてもいいと思うのだが。
 しかしそんな俺とは対照的に豆吉は目を輝かせた。
「なんか、新鮮です!嬉しいです!」
 言葉で表現するが、それより何よりその顔が喜びを示していた。
 分かっている。あまり見せるな、俺まで羞恥を覚えてしまいそうになる。
 それにしても尻尾が生えてきて、ぶんぶん振りそうな勢いだ。
「あ、マジで行けるんだ!」
 廊下から伊達の声がした。
 そして軽い駆け足の音と共に部屋の前までやってくる。今日はかなりラフな格好だ。ホストの仕事帰りではないらしい。
「無理なら乗り込んで豆吉強奪しようかと思ったんだけど。良かったじゃん。万々歳って感じ?」
 軽い口調で伊達はとんでもないことを言う。
 きっと俺が豆吉に、人間の姿を取ることを禁じて今日も犬のままでいるのかと思ったのだろう。
 だが生憎その問題はすでに解決してしまっていた。
「さすがは豆吉が見込んだ飼い主。一番大切にしてくれる人ってことだな」
 伊達は俺と怒鳴り合いをしたことなんて忘れてしまったみたいに、からっと笑った。
 その割り切りの良さに俺は肩をすくめた。
 ちゃらちゃらしてて、ノリばかりある軽いだけの人間は嫌いだ。こいつそういうタイプかと思った。だが人のために必死に声を出したり、こうしてわだかまりをすっぱり消してしまうところは気に入った。
 俺が思っていたよりこいつは、いい奴なんだろう。
「当然だ。俺は犬にとって最高の飼い主だからな」
 そう堂々と告げると伊達は声を上げて笑った。
「すげぇ!自信満々で言うし!しかもここまで来てそれを言う!」
 その口でよく言えるなと含まれている台詞に俺に笑みを深くした。
「事実だからな」
 ふんぞり返って何が悪い。もう腹を括って立ち向かうことを決めた俺は豆吉に関しては誰より強い。
 そう信じている気持ちが、きっと俺たちには何より重大なことなのだ。
「鹿野さんは僕にとっての一番やから」
 俺の過剰な自信を、豆吉が補強してくれる。
 最も俺に冷たい態度をとられたはずなのに、こいつは全く堪えていない。もしくはあの冷たさより一緒に暮らしていける嬉しさの方が遙かに大きいせいかも知れない。
「見てりゃ分かるっての」
 そんな俺たちに、伊達もさすがに呆れが見えた。
 しかしそんな表情すらも俺に笑みを誘うのだから、豆吉はどこまでも俺に喜びを与えてくれる犬だ。
 今日ふかふかの犬を抱き締めるのはもう少し先になるが、我慢して豆吉の帰りを待ってやるのも仕方がないかと思える自分がいた。




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