犬の飼い方 8



 豆吉は何日経っても犬のままだった。
 人間の姿なんて持っていないと言うように、犬のまま暮らしていた。
 仕事から帰えると出迎えてくれて、それから俺にべったりとくっついている。
 もう離れたくないというような態度だ。
 豆吉はただの犬じゃないと思いながらも、俺は可愛さについ抱き締めてはわしわしと全身を撫でた。すると豆吉は更に喜んでじゃれついてくる。
 穏やかな時間の中で、俺は豆吉を撫でながら部屋を見渡す。
 仕事に行く前と変化がないか調べてしまうのだ。
 豆吉が人になる前なら、それは単純に悪戯されていないか、事故の形跡などはないかと確かめるためだった。
 けれど今は、豆吉は人間に戻っていないかということを調べている自分がいた。
 戻らないと言った言葉を真に受けているわけではない。人間だったものが、いくらペットとして大事にされたいからと言って人間であったことを忘れられるわけではない。
 だからいつかは人間に戻るはずだと踏んでいる。
 しかし、もし人間に戻った痕跡がそこにあったところで俺はどうしたいのか。
 豆吉をなじるのだろうか。
 きっとこの子は俺に何を言われているか分からないだろう。ただ困惑して、悲しむだけだ。そんな様は見たくない。
 犬の豆吉には何の罪もない。
 同じ生き物であるはずなのだが、俺はどうしても犬と人間を分けてしまう。だからこそ混乱を極める羽目になっている。
 人間になったじゃないか!そう、心のどこかでは怒鳴りたいと思っているのだろうか。
 自分すら分からなくなっている。
「飯にするか」
 悩んでも底なし沼に落ちるだけだ。
 だから吹っ切るようにそう口にした。俺はあまり独り言は言わないタイプなのだが、この部屋に帰ってきてからやたら増えた。
 これでいいのか?
 そう自分自身が尋ねている声を掻き消そうとしているようだ。
「な、豆吉」
 声を掛けると豆吉は嬉しそうにわふんと小さく鳴いた。
 あの男には家族がいる。友人もいるだろう。ここに来るまではどこに住んでいて、何歳なのか。あの方言は西のものだが、厳密にはどこの出身なのか。名前は何なのか。
 俺は一つも知らない。
 ここにいるのに、俺は何も分からない。
 そして豆吉も喋りはしない。ただ鳴くだけだ。
「これでいいんだな…?」
 俺はそう問い掛けた。
 駄目だと言うはずもないと理解していて尋ねるのだから、あの男を卑怯だと罵る権利はもうないだろう。
 豆吉は小首を傾げて俺をじっと見てくる。
 物言わぬ子の眼差しは素直過ぎて、俺は苦しさに息が止まりそうだ。
 良いも何も。もう決まってしまったことだ。
 俺もこの子も離れたくないから。だからこの形を取った。これが最善だとした。
 だがあの男にとっては、これが正しいことだなんて思えないだろう。多大な犠牲を払っているはずだ。
 そして、いつまでも続けられることじゃない。
 分かりながら俺は目をそらし続けているのだ。
 とんでもないことをしてしまっている。そう自覚しているくせに、誤魔化しているのだ。
 生ぬるく、自分にとって都合が良いだけの時間は安定しているから。
 くうん。
 そうねだるような声に俺は無理矢理微笑んだ。
「豆吉。豆吉は可愛いな」
 それだけあれば十分なのだと自分に諭すように、繰り返した。



 朝の散歩を終えて、通勤が鬱陶しいと思いつつ仕事に行こうとしていた時だった。
 階段を下りていると前方から伊達が上がってきた。
 眠そうな顔と良い、派手な印象を持つスーツと良い。どう見てもホストではないだろうか。
 伊達は俺を見上げると目を眇めた。
 その不機嫌丸出しの表情に俺はむっとしてしまう。顔を見られたごときでこんな態度をとるなんて失礼だ。
 無視しようかと思ったのだが、それはそれで大人げない。
 一瞬迷うと伊達はがつがつと靴音を荒々しく響かせながら階段を上がってくる。
「鹿野さん。いつまで豆吉を犬のままにしておくつもりだよ」
 伊達の言葉にぎくりとした。
 自分でもこのままでは無理だと思っていることを他人の口から聞かれるというのは、棘が無数に突き刺さるようだ。
 必死に目をそらしていた現実を伊達が突き付けてくる。
 鼓動が早くなったのは憤りではなく、きっと後ろめたさだろう。
 分かりながらも俺は虚勢を張る。
「あいつがそうしたいって言ったんだ」
「アンタはそれでいいのかよ!」
 俺は悪くないと、子どもが言い訳をするような口調に、伊達は牙を剥いた。
 本気の怒りに俺は突き飛ばされるような感覚を覚える。
 けれど折れることは出来なかった。
「良いも何も俺は人間と同居した覚えはない!人間になるなんて知ってたらこの部屋にだって入ってない!」
 裏切ったのは豆吉の方だ。おまえらが騙していたんだろうが。そう恨みを込めて怒鳴ってしまう。
 階段に大きく反響した俺の声は、そのまま自分に返ってきてはまた痛みに変わる。
「だからって豆吉に犬のままいろって酷いだろ!」
「あいつがそれでいいって言ったんだ!」
「そうしなきゃアンタは出ていくつもりだったんだろ!?」
「当然だろ!」
 どうしてこんなに俺が責められるのか。理不尽さに俺は真っ向から罵声を浴びせる。
 清々しい朝の空気なんてもはやどこにもない。
「人間と暮らす気なんてさらさらなかったんだ!犬と一緒に生活したかった!なのに本当は人間だったなんて詐欺だろ!」
「詐欺呼ばわりかよ!」
 酷い表現だと伊達は言いたいようだっだが、俺にとってはまさにそんな感じだったのだ。
「そうだよ!騙してただろうが!人間になるなら初めから言えよ!」
 豆吉もそうだ。荻谷もルディも伊達も、他の住人たちだって事実を知っていたのではないか。それをどうして黙っていたのか。
 俺はここにいる間中ずっと、周囲から馬鹿だという目で見られていたのだろう。
 そう思うと今すぐ出ていきたくなる。
「言ったらアンタたち普通の人間は引くだろ!?どん引きすんだろ!?気味悪がるだろうが!」
 当然だろうが。
 俺はそう言い返したかった。
 だが伊達の声はあまりにも切実で、言い返したものならそこで伊達がぶちキレるような気がした。深く傷付いて。
 俺はそれを見透かせないほど怒り狂っていない。だが頷きたくもないので睨み付けた。
「俺たちだって好きでこんな風になってない!人間の姿だけでいたかった!アンタたちみたいに普通で暮らしたかった!でも出来ぇんだよ!やりたくても無理だからこうなってんだろ!?」
 俺にそれをぶつけられても困る。
 八つ当たりするなよ、と呟くのだが伊達の耳には届かない。
「ペットでも人間でも俺たちは認めて欲しい!大切にして欲しい!」
 訴える言葉は豆吉も同じだろうか。
 きっと酷似しているのだろう。
 大事にして欲しいという願いに俺は全力で応えたい。大切に決まっているだろと言いたい。
 だが俺の胸の内はその気持ちにざらつくのだ。痛みを覚えてしまう。
「そう思う相手をおまえたちは騙すのか?」
 大切にして、そう囁きながら彼らは何をしたのか。
 自分たちの気持ちを訴えるだけじゃないか。俺のことも考えずに、分かってと言うだけじゃないか。
「裏切られた、俺の気持ちはどうなる」
 この痛みはどこにいけばいい。
 俺は自覚していることだが、慎重な性格だ。警戒心も強い。だから他人と接する時にかなり保守的な考えに走る。自分が傷付かない方法をいつも探してしまっている。
 だから自然と人とは距離が出来てしまい、冷たい人間だと思われがちになる。
 それは仕方ないことだった。諦めているどころかそれでいいと思っていた。
 そんな俺の心をえぐるほど傷付けて、その上で大切にしてよなんて都合が良すぎるじゃないか。信じてよとなんて無茶苦茶過ぎる。
 伊達はそれまで好戦的だったのに、しゅんといきなり勢いを削いだ。そして叱られた少年のように肩を落とす。
 逆キレをしたなら俺だって伊達に斬り捨てるような台詞を吐いて、二度と接触するなと言っただろう。だがそんな風に後悔している様を見せられると、俺だって怒りが萎む。
「悪かったって思うよ」
 そんな、悪かったなんて一言で終わらせて欲しくない。
 俺は奥歯を噛み締める。
「でもペットの姿でいる必要が、俺たちにはあるんだ」
「何故」
「ペットは人の気持ちに敏感だから。自分を大切にしてくれる人が、ペットの姿なら分かる」
 こいつもそんなこを言うのか。
 ペットは人を見抜くのだと言うのか。
「豆吉は鹿野さんを選んだんだ。自分を大切にしてくれる人だって信じて自分を預けたんだ」
「身勝手過ぎる」
 伊達の言うことを俺はそう斬り捨てる。
 だが言っていることは分かるのだ。豆吉が俺に預けたものは信頼と、自分自身だ。もし犬の姿の時に酷いことをされれば、豆吉は耐えられなかっただろう。
 犬と人とでは大差がある。
 とっさに危害を加えられれば逃げられない。その危険性をはらみながらも豆吉は俺に飼われた。
 分かっているのだ。豆吉は俺を慕ってくれていると。だがそれに答えたいと思う気持ちと、出来ないと思う気持ちがある。心が痛いから。
「…あいつ、鹿野さんの目に触れるところでは人間に戻らないって決めたから。水曜日に必修講義があんのに行ってないんだって」
 伊達がそう話して、俺は初めてあの男が大学生なのだと知った。見た目からして若いと知っていたのだが二十そこそこなのだろう。
 水曜日は俺の休みだ。店が定休なので確実にその日は家にいた。
 豆吉は俺の前で人間にならないことを決めており、水曜日はずっと俺と一緒にいた。
「このままじゃ出席足りなくて単位が取れない。後期も水曜日に必修ならそれも無理、留年するし今後水曜日に必修が入ればあいつは卒業出来ないまんまになる」
 俺は自分が大学に通っていた頃を思い出す。
 必修の日は朝一番でもちゃんと起きて出席したものだ。忌々しいと思いながらもあくびを噛み殺していたものだ。
 必修を落とすなんて真似をしたことはないが、それが致命傷に繋がることは知っている。
「このままずっと犬でいさせて大学も出さないままでいるつもりかよ」
 伊達は挑むように俺を見る。それでいいのかと突き付ける眼差しに俺は舌打ちをしたくなった。良いなんて思ってないだろうと決めつける言い方は好きじゃない。
「あいつが望んだことだ」
「それでいいのかよ!愛犬がどっかで我慢して悩んでんのにアンタはそれでいいのか!飼い主なんじゃねぇのか!豆吉がどうなってもいいのかよ!?」
「世の中の飼い主がみんなペットを第一に考えると思うな!あいつの代わりに今度は俺に我慢しろって言うのか!」
 愛犬のためなら何だって我慢出来る。俺にとっては愛犬が一番です。すごく大切なんです。
 そう告げた自分はそう遠いものではない。
 あの時は自分がこんな愚かしいことを堂々と宣言するなんて思わなかっただろう。それどころか目の前でそう言う人間がいたなら溜息をついたことだろう。
 俺はそうは思わないな、と内心呟いたはずだ。
 いつから俺は自分の意志を容易に曲げてしまうような人間になったのだろう。
「出来ねぇなら解放してやれよ!豆吉を!」
 どうしてそんなことを言うのか。
 誰もかれも自分と豆吉を引き離そうとする。
 ただ一緒に暮らしたかっただけなのに。俺はあの犬が大好きで、離れたくなくて、幸せな空気を吸って生きていたかっただけなのに。
 どうして上手くいかないんだろう。
 その答えはもう見えているのに、俺はそれを拒絶している。分かっている。そこまで分かっている。
 だがもう一歩が、一声が出ない。
「……遅刻する」
「ちょ、遅刻とかどうでもいいじゃん!鹿野さん!」
 止める伊達を放置し、俺は階段を下りた。
 そう仕事なんてどうでもいい。でもどうでも良くないんだ。それがなきゃ飯も食えない家賃も払えない。そう心の中だけで返事をした。
 考えるべきはそれじゃないのに。


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