犬の飼い方 7
引っ越しする為にも、あの部屋から荷物を運ばなければならない。 そのためには纏めなければいけないし、何より友人の家にいつまでも世話になっているのは悪い。 四日目にして俺は部屋に戻る決心をした。 もし豆吉がいればここから出ていくと一言だけ言えばいいのだ。新しい飼い主を捜せと、俺のことはなかったことにしろと言えばよい。 すがられるかも知れないが、一緒に暮らせないのだからこうする以外道がない。 友人に帰る旨を伝えると「大丈夫か?犬はいつ戻ってくるんだよ、それまでいろよ」とすごく心配された。 よほど酷い顔をしていのだろう。 しかし犬は、俺の豆吉はもう戻ってこない。 だから力無く微笑んで「大丈夫だ」としか言えなかった。 どくりどくりと脈を打つ心臓を抱えて部屋の鍵を開けた。 中は静まり返っており、俺がドアを開けたというのに豆吉の爪音は聞こえなかった。 当然だと思うのに、落胆してしまうのを止められない。 どうやらあの男もいないようで、俺の呼吸と足音だけが聞こえる。 リビングのテーブルには一枚の紙が置かれている。 角張った綺麗な字で、明日帰ってくるということが書かれている。あの男の実家がどこであるのかは分からないし祖母の容態も知らないので、それが長いことか短いことかも分からない。 だが今日は会わないということに安堵してしまう。 引っ越してきてまだ二ヶ月。段ボールも結構な数残っているのが幸いだった。 静かに荷造りをしては、新しい部屋のことを考えていた。 仕事が仕事であるだけに次の目星はつけていた。 がさがさと物音を立てると足元に寄ってくる気配がないことに、違和感を覚えてしまう。 何してるの?ねえねえ何してるの?というように見上げてくる愛らしい生き物がいない。 もう会えないかも知れない。 その事実に俺はへたり込んだ。 すごく、すごく豆吉に会いたい。撫でたい、抱き締めたい。一緒に遊んで明日の朝は散歩に行きたい。でも豆吉は、俺の豆吉はいないのだ。 寂しかった。どうしようもなく。 これが病気なら、事故なら、俺は泣いただろう。泣いて恋しがって、壊れてしまうかと思うくらい思い詰めただろう。 だが今はそのどれもが出来なかった。 俺を寂しくさせているのは、傷付けたのは、俺に幸せをくれた豆吉本人なのだ。 恋人に裏切られた男というのはこんな気分なのだろうか。 しかし俺は相手が人間であるなら、人は信用出来ないという目で見ているからこんなにも落ち込まなかっただろう。 犬だからこそ、こんなに苦しい。 新しい部屋、新しい犬、新しい生活。 それを得ればこの痛みはなくなるのだろう。 俺はそんな考えから目をそらすように荷造りをした。 次の日、俺は仕事から帰ると家に戻った。 あの男がいるかも知れないと覚悟をしながら。 ここを出ていくにしても一度はあの男に言わなければならないだろう。 もうおまえとは暮らせない。だから出て行く。探すなよ、と。 案の定帰ると部屋の電気がついてあった。物音をしており、俺は奥歯を噛み締めて鍵を開けた。 二ヶ月間ここにいたけれど、鍵を開けるのがこれほど怖いと思ったのは初めてだった。 「鹿野さん!」 部屋に入るとあの男が居た。 今日はきっちり服も着ている。 あの時は分からなかったのだが、俺より若いのかも知れない。柴犬は凛々しい顔立ちをした犬だが、その通りに男は精悍な顔つきをしている。だが所詮男だ。 ぎゅぅと心臓を掴まれる緊張感に包まれている俺に男は近寄ってくる。 どこか泣きそうな目をしているが、俺だって泣きたい。 俺の豆吉を返してくれと言いたい。おまえじゃない!と続けて叫ぶ羽目になりそうだが。 「僕!」 必死に訴えようとしてくるその姿勢に、俺は思わず後ろに下がって玄関のドアを閉めた。何も考えられなかった。ただ男と対峙することが出来なかったのだ。 どうしていいのか分からない。 「鹿野さん!話を聞いて下さい!」 「後日にしろ!今日は無理!」 そう言い残して俺は駆け足でマンションから出ていた。 玄関が開けられて豆吉が大声で俺を呼ぶのが分かったけれど振り返らなかった。 第一後日っていつだよ、と自分でも思うのだが誰も突っ込んではくれない。 再び友人の家に行くのも気が引けて、俺はビジネスホテルにそのまま泊まった。 次の日も仕事が終わって帰ろうとしたのだが玄関で立ち止まってしまい、やけくそになってスーツを新着してまたビジネスホテルに泊まった。新しいのが欲しかったからいいんだと思いながら、言い分けすぎると情けなくも思った。 こんなことをいつまで続けられるのか。 ずっと逃げ続けるなんて無理に決まっている。 あの日から丁度一週間が過ぎた時、俺はもう疲れ果てた気持ちで部屋に帰った。 逃げるのも、怒るのも力尽きて、新しい部屋の見取り図を持って玄関を開けた。 そこにはあの男が居た。 やっぱりいるんだなと思い、俺は息を吐いた。 「出ていくから」 「行かないで下さい!」 言おうと決めた台詞は、零れるようにして俺の口から出てきた。 すると男は即座にそれを止めた。すがるような態度に俺は首を振った。 部屋に入り、寝室から固めた荷物を持ち出そうと思った。ビジネスホテルを第二の家にしても良いと思っている。 しかしそんな俺を遮るようにして男はその場に膝をついた。そして深々と頭を下げる。 土下座だ。 営業職でなければ滅多にすることもないだろうと思われる姿勢だ。俺だって私生活で見たのは片手で数えるほどしかない。 そこまでするのか。 「……俺は他人とは暮らさない」 結婚もせず、今後もずっと一人で生きるかどうかは分からない。だが少なくとも今は人間と生活を共にしたいなんて思えないのだ。 諦めろと言う声に男は顔を上げた。 「犬でいます!ずっと犬でいますから!」 全身で叫んでいるようだった。 千切れそうな声に俺はまた胸の内側が引っ掻かれる。 「出来るわけないだろ。今まで人間として暮らしてきたんだろ?」 この二ヶ月は誤魔化していたのだろうが。今後もずっと犬で生きるなんて無理だ。 事実祖母の関係でこいつは人間に戻らなければならなかった。そういうしがらみがあるのだ。 「出来ます!祖母の件は僕が判断を誤ったんです!もう戻ったりしません!」 祖母が倒れたというのに、犬から人間に戻ったことを誤りだと男は言った。 その強さに頭がくらりと揺れる。 この男はどこまで俺に感情を向けているのだろう。どれほどの重さを見せつけるつもりなのか。 「人間辞めるつもりか!」 俺が言うずっとは、生きている限り続くということだ。 本物の犬であったのなら十数年だろう。だが人間同士であったのならばこの先何十年という時間だ。 それを全て捨てるというのか。 「一緒に暮らせるのなら!貴方と共に生きられるのならそれで構わへん!」 目の前が真っ暗になりそうだった。 こんな情熱を俺は知らない。 「なんで……」 「鹿野さんは僕の飼い主なんです!他の誰でもない!やから鹿野さんに捨てられるくらいやったら僕はずっと犬でええんです!構わへん!」 方言が混じっているのは興奮しているせいだろう。 俺はその勢いに吐息すら根こそぎ奪われていくような錯覚を覚える。この男は、やはり危険だ。 「お願いです!」 「無理だ……」 すがる男から目をそらして俺は寝室へと向かう。 もう考えたくなかった。ここに来るまでずっと悩んだのだ。無理だと思ったのだ。それを今更覆して再び悩むなんて、疲れた。 解放して欲しい。 溜息をついて寝室に入り、うなだれながら髪を掻き混ぜた時だった。 鳴き声がした。 俺の意識を引き付けて、どうしようもなく切なくさせるあの声。 振り返ると一匹の柴犬が俺の足元に駆け寄ってきた。ふわふわとした尻尾が力無く振られている。潤んだ黒い瞳が俺を窺っている。 「っ……おまえは、卑怯だ!やり方が汚い!こんなの!」 こんなの…!と俺の口からは呻き声が上がる。 きゅうんきゅうんと鳴いて擦り寄る犬を、どうして捨てられるだろう。それは自分が捨てられるよりずっと痛いことだ。 それを分かって、あの男は犬になったのだ。 なんて酷いやり方だ。そして狡猾過ぎる。 俺は脱力してその場に座り込んだ。すると豆吉が俺の顔を舐めてくる。 あの男と同じ生き物だとは到底思えない。 「……卑怯だ」 そう呟きながらも、俺は豆吉を一週間ぶりに抱き締めた。 懐かしく、あったかい感触だった。 豆吉は犬になった。 まるであの騒動はなかったかのように、俺の日常が戻ってきた。 あまりにもあっさりと帰ってきた「当たり前の暮らし」に俺自身が戸惑いを多く残していた。 朝の散歩に行くと豆吉は大喜びで尻尾を振り、俺は眠たい目を擦りながら部屋を出る。 刺すような朝日。 もうこの朝日を拝みながらリードを掴み、豆吉と歩くことはないんだと思ったのに。そしてそれを惜しんだというのに。知らぬ顔で豆吉は前を歩いている。 マンションを出ると荻谷がルディの散歩から帰ってきたところだった。 再び豆吉を連れている光景に、荻谷は問いかけをしなかった。 「おはようさん」 気怠そうにそう言っただけだ。 俺は大口を叩いた手前、馬鹿にされるのは仕方がないことだと思っていたのだが。拍子抜けした。 犬の姿でいるルディは豆吉と鼻先を突き付けている。楽しげな様子だが、何を話しているのだろう。 俺と暮らせることになったと報告でもしているだろうか。 以前なら微笑ましいと思って口元を緩めていたのだが、今はきっと浮かない顔をしていることだろう。 これでいいのか。 そう考えてしまうのだ。豆吉は俺の側にいて、寄り添ってくれる。 人間の姿にならないのなら、俺は人間と暮らしていることにはならない。意識もしない。 だがそれでいいんだろうか。 俺はただ、豆吉がここにいる。もうあの男の顔は見ないだろう。それだけの事柄に捕らわれすぎていないか。 犬同士の挨拶が終わったらしい豆吉が、早く行こうと言うように俺を見上げた。 ルディも荻谷を見ていた。全身を預けているその様に、俺はずきりと後ろめたさを覚えてしまう。 荻谷はルディの何もかもを受け容れて、大切にしている。ルディもきっと同じだろう。信じ切っている。 だが今の俺にそれは遠すぎることだ。 信頼関係がペットと飼い主の間には必要だと、これまで思ってきたはずなのに。それを無視している。 しかし俺がしたことは二人から視線を外して歩き出すことだった。 next |