犬の飼い方 6



「泊めてくれ」
 独身で一人暮らし、と目星を付けいきなり友達の家に押しかけた。
 友達は俺のただならぬ様子に顔を強張らせた後、中に入れてくれた。
 そして俺が荷物をどさと部屋に置いて大きく息を吐いたところで「なぁ」と声を掛けてきた。
「どうした?」
 心配そうなその声に、俺はようやく現実を取り戻したような気がした。
「どうしたもこうしたも!」
 俺は怒りのまま、さっきまでの状態を説明してやろうと思った。だが犬が人間になった、なんて言って誰が信じるだろうか。俺だって目にしていなければ信じられない。
 真顔で言ったところで頭の心配をされるのがオチだ。
 この友人は俺に負けず劣らず現実主義なのだ。
 なんせ人間よりパソコンを求めるような人間だ。
「泊まってくって、犬はいいのか?買い始めてから犬犬言ってたじゃないか」
 そう指摘されて、俺はまたぐっと言葉に詰まった。
 友達に会うと「犬を飼い始めた」とまず報告するのが俺の挨拶になっていた。
 だから俺の友達は俺が犬を溺愛していることを知っている。
 そんな俺が、部屋に犬を置いてこんなところに来ることは訝しいらしい。
 まさかその犬から逃げてきたなんて言えるはずもない。
「いいのか?」
「あ…ああ」
 良くないなんて言えるはずもない。なんで泊まって行くんだと訊かれた時のいいわけまで用意していなかった。俺の頭の中にあったのは、ただひたすらにあの男への驚きと恨みである。
 ここまで冷静さを失うのは我ながら珍しい。
「どうしたんだ?犬になんかあったのか?」
 俺が犬を残してここにやってきた。ということは友人の中ではかなりの異変らしい。
 急に深刻そうな顔をしてくれる。
 ペットに何かあっただけでここに駆け込んでくるような友達と思われているらしい。あながち外れていないのが悲しいところだった。
「まぁ…ちょっとな」
 何かもどうも、人間になりやがったのだ。
 忌々しい。犬だったはずなのに、犬のままであるべきだったのに。いや、この場合人間でなければ良かったのにと思うべきなのだろうか。
「だから荒れてんのか」
 友人の目には俺が相当動揺を見せているようだった。その通りで、平静さなどかけらもあるはずがない。
 むしろちゃんと友人の家に数日泊まれる荷物を持って押し掛けられたこと自体、よく出来たものだと自分を褒めたいほどだ。
 あの後何も持たずに勢いで飛び出しても異常ではないだろう。
「それで犬はどうした?病気か?怪我か?」
 俺の近くにあぐらをかいて、友人は尋ねてくる。きっと話を聞いてやったほうが俺は落ち着くと思ったのだろう。
 眼鏡を押し上げる様は真面目そのもので、俺は真実を口にすることは到底無理だと思った。
 迷っていると、友人は勝手に表情を曇らせる。
「まさか亡くなったなんてことは…」
「いや。大丈夫。ちょっと病気で、入院してるだけだから」
 死んだなんてことは例え話でも言いたくなかった。
 俺の思っていた豆吉はどこにもいないけれど、それでも愛らしいあの子が死んだなんて嘘でも嫌なのだ。
 その辺りが複雑だった。
「いつまで?」
「え?ああ…病状による」
 つい入院してるなんて言ったけど、中身は全く考えていない。だから適当に誤魔化した。
 友人はあまり俺に詳しく尋ねるともっと動揺すると思ったのか「そうか」と犬の話をそこで止めた。
 あまり詮索しない性格がありがたい。
 もしこいつが今後困った状態になったら俺は手助けをしよう。俺みたいにペットが人間になったなんて、生き物があまり好きではないこいつにはないだろうことだが。
「落ち着くまでここにいろよ」
「悪い」
 頭を下げると友人は軽く笑った。
「犬のことになるとおまえって過敏だよな。人には関心ないのに」
 そう言われ、俺は「仕方ない」と答えていた。
 だって犬が好きなのだ。好きなものに対しては誰だって敏感で、心配で、不安なものだろう。
 俺は今そんな気持ちを全て覆されて、馬鹿にされた気持ちでいっぱいだった。
 たとえあの男にそんなつもりはなくても俺にとっては、裏切りなのだ。



 次の日は丸々部屋のことを無視して暮らした。友人の家から仕事に行って、そして友人の家に帰った。友人は昼出社して夜中に帰って来るという仕事なので、俺とは時間がずれている。
 なのであまり会話はないのだが、そっとしておいてくれることに安堵した。
 しかし一日経つとあれが現実だったのかどうか、疑問が沸いてくる。
 だって人間が犬になるなんてあってはならないことなのだ。あれは何かのトリックではないだろうか。
 もう一度確認をしよう。
 どちらにせよ部屋をあのままにはしておけない。
 休日ということもあってマンションに戻った。あの男は祖母が倒れたと言っていたのできっと部屋にはいないだろうが、もし会ったとしても冷淡でいられるように腹に力を入れていた。
 緊張しながらマンションの入り口に入ると荻谷が携帯電話を閉じたところだった。
「おや、帰ってきたのか?」
 荻谷は俺を見ると愉快そうに口にした。それは俺に何があったのか知っている様子だった。
 ざりっと胸の内側に爪を立てられるような不快感が込み上げる。
「豆吉から、出ていったと聞いたんだが」
「出たさこんなところ!」
 面白がっている荻谷に俺は真っ向から怒鳴りつけた。
 元はと言えば管理人である荻谷がちゃんと男のことまで説明しないから、俺はこんな目に遭ったのだ。
「どういうことですか!あんな重大なことを黙ってるなんて!」
 とんでもないことだと噛みつく俺に荻谷は涼しい顔をしていた。これくらい何でもないと想ってるような態度だ。
「別に」
「はぁ!?別にって!」
「ペットと同居することが条件だとは言ったが、そのペットが人間にならないなんて俺は言ってない」
「普通はならない!」
 荻谷の発言に俺は目を見開いた。どんな論理だというのか。
 ペットショップに行って、この犬は人間になりませんかなんて確認をしている奴がいるとすれば確実に病んでいる奴だ。
 この世の常識、いや常識以前に正常な思考ならば犬が人間になるなんて疑いはしない。
「普通じゃないとも言ってない」
「異常なら異常だってちゃんと言うべきでしょう!?こんなの詐欺だ!」
「詐欺って言えば詐欺になんのかね」
 心を乱す俺とは違い荻谷は淡々としている。こんな契約は無効である、非道であると言いたい。訴えたい。だがそれが出来ないことを見越しているのだ。
 なんて神経。
 舌打ちをしてこの男をどう切り崩してやろうかと頭をフル回転させる。俺はやられっぱなしなんて性に合わない。
 だが悠然としている荻谷の足元に一匹の犬がやってきた。金色のふさふさした毛並みは艶がある。手入れされたゴールデンレトリバーだ。優しい瞳がじっと荻谷を見上げていた。
 ふわふわと揺れる尻尾は信頼が滲んでいるように思える。俺の犬もあんな風に俺の足元で大人しく従っていた。
「ルディ」
 荻谷は俺に向けない優しげな表情で犬を撫でた。
 聞いたことのある名前に俺は溜息をついた。
「あの人ですか」
 荻谷の傍らに控えていたあの女性の名前がルディだった。言われてみれば彼女の雰囲気とこの犬とは似通っている。
「ああ。彼女のもう一つの姿だ」
「本当、ですか?」
 まだそんな人種がいるとは信じられない。だからつい尋ねてしまう。冗談だと言って欲しいという微かな願いもあった。
「元に戻してやろうか?まぁ……そんな光景を見せるのは不愉快なんだがな。こいつは俺の女だし」
 そう言われ俺は豆吉が人間になった時を思い出す。犬であったのだから服は着ていなかった。きっと裸体なのだろう。
 まさか全裸を見せるはずもないだろうが、それでも他人の前で異変を晒すというのは抵抗があるのだろう。
 俺が望んだわけでもないのに荻谷はすでに不機嫌になっていた。
 女という言い方にも独占欲が露わになっている。
「いりません。ここが異常な場所だということは分かりました」
 現実を再び突き付けられるなんて勘弁して欲しかった。衝撃を何度も受けたいとは思えない。
「それでどうする?」
「出て行くに決まっているでしょう」
 豆吉が人間でもあるなんて、認められない。
 人間と暮らす予定なんて俺にはないのだ。何の異常もない、心臓が止まりそうな出来事のない平淡な日常に戻る。
「大体、契約違反だ」
 俺は吐き捨てるように言った。すると荻谷はルディを撫でながら苦笑した。
「おまえさんよー、こんな条件のいい部屋が三万であるとでも?不動産噛んでる人間なら分かるだろ」
 契約を口にする俺を荻谷は笑っているのだ。
 何もなしにあんな値段であの部屋が借りられるはずがない。裏があるに決まっている。
 そんなの言うまでもないだろうと、荻谷は言っているのだ。
 実のところ俺は悔しさに言葉を失っていた。
 荻谷が言っていることは俺が毎日のように思っていることだった。
 部屋は値段に見合った物だ。条件が良いのに安いというのはそれだけ「何か」があるのだ。それが契約時には見えなくとも、確実に「何か」が潜んでいる。
 殺人現場であったり、水周りが良くなかったり、霊が出るだの騒がれたり、周囲が騒音の嵐であったり、様々だ。
 俺だってその辺りは覚悟して入った。だがこれはあんまりだろう。
「出ていくなら引っ越す日を言ってくれ。豆吉にも新しい飼い主が必要だからな」
 荻谷は睨み付ける俺を叩きつぶすように言った。
 新しい飼い主という響きに俺は後ろから刺されたような驚きに襲われた。
「…新しい、飼い主…?」
 俺がここにいるのに、と言いたくなった。
 だが俺はあの部屋を出ると言ったのだ。豆吉はあの部屋にいる犬であって、あそこから出てしまえば豆吉と共にいることは出来ない。そもそも、俺は豆吉が嫌で出ていくのだ。
 だってあの犬は人間になるから。それが嫌で、信じられなくて引っ越すつもりなのだ。
 そして一人になった豆吉はまた新しい飼い主を探すのだろう。
 飼い主と共に生きるペットだと、男が言っていたのだから。
「…こんなにころころ飼い主を変えるのか」
 俺が駄目だったからすぐ次に行くような生き物なのか。
 ならば俺も豆吉のことは忘れて、それは幻覚だったと自分に言い聞かせて新しい部屋を探せばいい。
 あんなにすがりついたけれど、所詮その程度かと見下しているとルディがくぅんと鳴いた。
 俺を掻き乱す犬の鳴き声だ。思わず唇を噛んだ。
「変えないさ。そんな簡単に変えるわけがない。まして犬は忠義の生き物だからな」
 犬は人懐っこい。けれど、主人をたった一人と決めればてこでも動かない犬というのはいるものだ。
 主人を慕い、主人を求め、信じ続ける。
 だが俺は豆吉に裏切られた側だ。騙した相手を信じられなくなることは当たり前じゃないのか。
 しかし荻谷の言葉がのし掛かる。
「でも一人じゃ辛いだろう。寂しい」
 なあルディ、と荻谷は自分の犬に語りかけている。
 頭撫でて、慈しんでいる。
 一昨日まで俺がそうしていたように。
 尻尾を振って他の何でもなく俺だけを見ていたあの犬が、他の人間の手に渡る。他の人間を飼い主として従う。
 それを想像すると胃が焼けるようだった。苛立ちが一気に込み上げてじっとしていられない。
「好きにして下さい」
 嫌だ、そんなことは許せない。
 そう叫ぶ心とは裏腹に。俺はそう言い放ってはきびすを返した。
 部屋に戻ろうとしていたはずなのに、これ以上マンションにいるのも辛くて逃げ出したのだ。
 早足で数分歩き、息が上がっても俺は止まれなかった。無性に何かを抱き締めたくて仕方がなかった。


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