犬の飼い方 5



 これ以上は何も知りたくない。
 そう後込みをしていた。だが目の前にあるものを無視したまま生きられるはずもない。そもそもそれをなかったことにはしてくれないだろう。
「どういう、ことだ」
 うわごとのような俺の声はかなり小さかった。
 外から聞こえてくる車の走る音の方が大きかっただろう。だが緊迫した空気の中に、それはちゃんと広がったらしい。
 男が頭を上げた。
「僕は、犬になれるんです」
 信じられないことを言う男を凝視した。
 どこかで見たことがあるような気がしたが、今はそんなことにこだわっていられなかった。
 犬になれるという言葉が俺の中を駆けめぐる。
 その内容が指し示すものが一つあるのだ。それを俺は見たくなかった。
「なれるって……」
「僕は特殊な人間で。犬になれるんです」
 男は独特のイントネーションで喋った。普段は関西弁を使っているのだろう。話している言葉だけは方言が出ていないけれど、響きにはそれが如実に出ていた。
「さっきまで鹿野さんと一緒にいたのは、僕です。僕が、豆吉です」
 正気かと言いたかった。
 だが言えずにいるのは、この男の目の前にいきなり現れたからだ。そして俺の柴犬はいなくなってしまった。
 その事実を繋げようと思えば、男が言ったとおりになってしまう。
「そんなの……」
 目視したことを確認してしまったとしても、俺の気持ちはそれらを一切否定した。
 あってはならないことは、認められない。
「信じられないのは分かります。でも夢じゃなくて事実なんです」
 男は俺の動揺を見ているはずなのに、静かに語っている。その冷静さが俺の胸を引っ掻いてくるようだった。
「僕たちは飼い主を持つ生き物です。共に生きることを願うペットであり、人間なんです。このマンションはそういう人種が集まった、僕たちみたいな人種のためのマンションらしいです」
 ペットのためにあるマンションだと荻谷は言った。
 どれだけ入居したいと願っても、ペットに気に入られなければ入れない。ここではペットが主導権を握っているのだと。
 その裏側にこんな仕掛けがあるなんて知らなかった。
「そんなの、そんなの聞いてない!」
「言えません。口外出来るようなことやないんです。特殊過ぎて秘密にしないと生きていけない」
 生き物に変化出来る人間なんて、冗談としか思われないだろう。俺のように目の前で見せられると仰天して信じる羽目になるかも知れないが、その先に待っているのは研究所に送られるか、テレビで見せ物になるか、少なくとも平穏な生活は送れないのだろう。
 だからこいつらは口を閉ざした。
 けれど秘密にされた方にしてみればたまったものではない。
「こんな事実があるのなら入居の前にきちんと説明されるべきだ!これでは契約違反だ!」
 俺はとっさにそんなことを叫んでいた。
 現実離れした事実を見せつけられて、俺に出来ることはいつも客たちに言われているようなことを自分が言うことだけだった。
「でもペットと同居することは事前にお話してるはずです」
「俺が暮らすのを許可したのは柴犬だ!人間じゃない!」
 こんなことを知っていれば俺は死んでもこんなところには入らなかった。
 人間の男と暮らすなんてまっぴらごめんだ。何のメリットもない。
 大体家にいる時くらい俺は人間の顔を見ずにいたいのだ。仕事で嫌というほど人の顔を見ているのだから解放されたいと思ってもおかしくないだろう。
「分かってます!」
「ならなんでこんなことになったんだよ!」
 ただの犬が良かったのだと知っているのなら、何故この男はここにいるのか。
 特殊な人種なんていらないのだ。俺が欲しているのは平凡な日常だ。
 なのにどうしてこんないきなり壊されなきゃいけなかったんだ。
「僕も犬として暮らそうと思ってました!貴方が人嫌いなのも分かっていたから!だからこのことは隠そうと!少なくともこんな早くにバラすつもりはありませんでした!」
「ずっと騙し続けようとしたってことかよ!」
 自分は人間なのに、犬で居続けることで俺を騙して。それで一緒にいるなんて卑怯だ。
 俺は謀られたという屈辱でいっぱいなのに、こいつはまだ犬であることを隠していたことを反省もしていない。
「貴方と一生暮らしたかった」
 男は噛み締めるように告げた。
 それに頭の先まで昇っていた怒りが、すっと一端落ちていくのを感じた。
 なんだそれは。
 一生なんて、暮らしたいなんて。
 豆吉は俺にすごく懐いていたけれど、それを覚悟してくれるほど、願ってくれるほど強く慕ってくれていたなんて。少しだけ胸がぐっと締め付けられた。
 だがそれはあくまでも柴犬に対してだけであり、目の前の男にあるのは憤怒だけだ。
「でも、今朝祖母が倒れました。年が年なだけに今帰らなければもう会えないかも知れない。だから、帰らないといけなくなりました」
 男の年から計算すると、俺の祖母と大差ない年齢だろう。倒れたと聞かされれば、それはある程度の覚悟を迫ってくる。
 今会わなければ、もう会えないかも知れないという判断は間違っていない。
 もし俺が友達にそれを聞かされれば、帰った方が絶対にいいと言っただろう。
 だがこの男にそれを言われても、同情も出来なかった。自分の驚愕が大きすぎるのだ。
「犬がいなければ貴方は心配して、探し回ると思いました。きっと寝ることもなく町を彷徨うんだろうと。貴方は優しいから」
「っ……」
 飼い犬の口から聞かされると、泣きたくなるような台詞だ。
 もし何も知らずにいきなり豆吉がいなくなれば俺は男が言うように必死になって探し回るだろう。仕事をする以外の時間、全て豆吉の捜索に費やすはずだ。見付かるまで。
「それは、辛い」
 男が俯いてそう呟いた。
 だが俺はその一言にふつりと糸が切れるのを感じた。
「ふざけんな!俺はこの現実の方がずっと辛い!」
 思わず拳が出て、男の横っ面を殴ってしまった。
 人を殴るなんて何年ぶりだろう。
 俺は感情的になるのが嫌で、怒りを覚えても手を出すことはしない。暴力に出ればその時点で法律的には負けたことになる。だからなるべく手ではなく口で、容赦なく叩きつぶすことを考えるのだ。
 だから人を殴ると自分の手も痛いという、単純なことを忘れていた。
 男は黙って殴られた。唇を噛んで、じっと耐えている。
 その様がいっそう俺を追いつめているようだった。
「こんなの詐欺だ!犬だと思ったから一緒にいた!この部屋で暮らしたいと思ったんだ!」
「僕は犬です」
「人間だろうが!最初から人間として出てこいよ!こんな騙し討ちするんじゃなくて!」
 もしそうされていればここに二人はいない。分かっているが俺はそう恨み言を投げつけるしかなかった。
「それでは貴方と暮らせなかったはずです!俺は必要とされたかったんです!ペットとして!犬の俺をどうしても必要としてくれる人が欲しかった!」
 悲痛な声だった。
 突き刺さるみたいな音だ。だが俺だって、俺の気持ちだって辛い。
 裏切られた心が痛い。
「人間として必要とされてもペットとして必要とされなければ僕にとっては意味がないんです!そんなの嫌なんです!」
「その逆もあるってことを分かれよ!ペットして必要とされても人間のおまえはいらないってことだってあるだろ!?」
 現状がまさにそうなのだ。
「ペットとして必要とされないよりマシです!人間としてだけなら周りの人は僕を見てくれます!人間として生活してきましたから僕を認めてくれる人もいます!友人もいます!でもペットの僕を知っているのは家族と同じ境遇の人たちだけです!」
 特殊な人間だと本人は言っていた。俺もそうだと思う。
 だからこの男は今まで、黙っていたのだ。
 話すことが出来るのは同じ秘密を持った人間たちだけ。
 隔離された世界みたいだ。その中に俺はいきなり放り込まれたわけだ。
「人間の僕を好きになってくれても犬の僕を好きになってくれるかなんて分からない!むしろ気味悪がられる可能性の方が高いんです!」
「そんなの探せばいるかも知れねぇだろ!人間でも犬でも好きってやつが!」
「貴方です!僕は貴方だと思った!」
 男が切実に声を上げた台詞に、俺は絶句した。
 豆吉はいつも全力だった。そんなことをふっと思い出してしまう。けれどそれを丸のまま受け容れるなんて俺には出来なかった。
「か…勘違いだ!冗談じゃない!俺はおまえなんかと一緒に暮らせない!出て行け!」
 こんな事態を容認するなんてとても出来ない。今まで平然とここにいたことを忘れたい程だ。
「いやここはおまえの部屋だったな、俺が出ていく!」
 この部屋は豆吉に気に入られたから入った部屋だ。豆吉に出て行けというのは契約に反するのだろう。
 そう気が付いて俺は立ち上がった。
 こいつが出ていけないのなら俺が出ていくまでだ。自然なことだった。
 そうだ、一人暮らしだって短い期間じゃなかった。だから元に戻ると思えばいいんだ。この二ヶ月ほどは夢だったと処理すればいい。
「待って下さい!」
「誰が待つか!」
 足にすがろうとする男を振り払って俺はクローゼットを開けて中から服を取り出す。
 デカイ鞄もついでに奥から取り出す。
「これ以上おまえとはいられない!こんな侮辱初めてだ!信じられない!」
 俺は豆吉に毎日のように可愛いと言っていた。雄だがそんなことは関係なく豆吉は本当に可愛かったのだ。
 俺の一挙一動を気にしてちゃんと俺の視線を読んで、素直で賢くて、俺の中で大吉の次に大切な犬になっていた。
 この先も一緒に暮らしたのなら、大吉を越えることもあったかも知れない。
 だがそれはもう永遠になくなった。俺にとって豆吉はもう幻の犬だ。
「待って下さい!鹿野さん!」
「大体おまえどうやって生活してたんだよ! 俺が来るまでどこにいた!」
 ここには豆吉の荷物なんて一つもない。だが豆吉はここで世話をされていた犬だと聞いている。荻谷の家でも犬として暮らしていたのだろうか。
「上の階にいました。僕が暮らしてた時の荷物やら何やらは友達の部屋に預かって貰ってます。伊達って言うんですが」
「あの金髪か!」
 やたら豆吉に親しく声をかけてくると思ったら友達だったのか。
 しかも俺が豆吉を飼っているのに事実を教えもせずに、会ったら挨拶するだけだった。
 心の中ではどう思っていたことか。それを言うならこの男だって豆吉にでれでれの俺をどんな目で見ていたか。
 想像するだけで腸が煮える。
「金髪っていうか、茶髪っていうか」
「あいつもペットか!?」
 髪の色の正確さなどどうでもいいのだ。俺はあんなちゃらちゃらとした奴は元々好きじゃない。
 だがこのマンションにいるということはあいつもへたするとペットかと思った。
「フェレットです」
「いたちみたいなやつだな。ペット特集とかでたまに見かける」
 俺はペット番組が好きでよく見ている。大体ペット飼っている人はあの手の番組をよく見てしまうものだろう。
 その中にフェレットという生き物もたまに出てくる。やたら胴の長いいたちだ。
 あれがホストみたいな男になるのかと思うと意外だった。
「ここはそういう生き物ばっかりか!魔界か!」
「魔界とまでは……」
 俺の後ろでおろおろとしている男を無視し、俺は最低限の服を鞄に詰め込んだ。そして通勤用の鞄も握る。この二つがあればどうとでもなる。
「とにかくこんな部屋は解約だ!こんなの有り得ない!」
「鹿野さん!」
 俺は男に宣言してどすどすと玄関に向かって歩いた。男は毛布で身体を隠しながら付いてくるが、伸ばされた手を払いのけた。
 酷く傷付いた目に俺は罵声を留めてしまう。こいつが悲しもうがどうなろうが知ったこじゃないのに、呼吸まで止まってしまいそうだった。
 直視できなくて、俺は黙ってそのまま部屋を後にした。


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