犬の飼い方 4
俺は朝が苦手だ。 見たところからして低血圧っぽいと言われるのだが、実際血圧は低い。そして朝に弱い。 朝日を見れば目に染みるし、安らかなベッドから出なければならない時間はまさに地獄だと思っている。 楽園から追い出されるような気持ちだ。 しかしそんな俺がここのところ起床時間を早めている。 何の為かと言うと、豆吉の散歩のためだ。 仕事から帰った後に散歩に行くという手もあるのだが、その日によって俺も疲れ果ててもう動きたくないという場合があるのだ。 そんな時に豆吉の散歩へ行くと、どうしても面倒だという思いが出てしまう。 せっかく楽しい豆吉との散歩に、そんな気分を引きずりたくない。 だから出来るだけ朝に行くようにしている。 朝も辛いけれど、ここで豆吉を補給しておけば、仕事で多少理不尽なことが起こってもある程度我慢が出来るような気がするのだ。 そして今日も俺はくあと大きなあくびをして部屋を出た。 朝の眩しい光が瞳孔に突き刺さる。夕日は鋭いとは思えないのに朝日は鋭い。 沈む角度にもよるのだろう。 げんなりしている俺とは反対に、豆吉は尻尾を振ってリードをくわえていた。 その先を早く握ってくれと言うように俺を見上げている。 赤い首輪とリードを繋ぎ、俺はまたあくびをした。 そして「行くか」と声を掛けて歩き出す。 豆吉は人間だったらスキップをしているだろうと思うほど軽い足取りで先に行く。子どもの頃から犬の散歩は日常だったので、新鮮さというのは薄いのだが。それでも柴犬の茶色の背中を眺めていると嬉しさが込み上げる。 マンションの入り口では荻谷が煙草を吸っていた。 こちらも散歩に行こうとしているのかも知れない。 しかしゴールデンの姿はない。もう帰ってきた後だろうか。 「おはようございます」 声を掛けると荻谷はくわえ煙草のままこちらを見た。 「おはようさん。散歩か?」 「はい」 荻谷は面白そうに顎をさすった。 「どうだよ豆吉との暮らしは?」 「最高です」 豆吉との暮らしは俺にとって幸せに満ちていると言えた。 癒されるし和むし、活力になる。豆吉がいるから仕事も嫌々ながらもやるかと思うし、仕事が終われば直帰する。待っていると思うと無駄なことはしない。 自分がいることで喜んでくれる存在がいるということは、重大なことだ。 ペット相手にそれを感じるなんて寂しい人だと言う人間もいるかも知れないが、見た目が可愛く従順である分人間より俺は好きだ。 「やっぱり犬は良いです」 何度も実感していることを今日も口に出した。 すると荻谷は深く頷いてくれる。 「だな」 ゴールデンレトリバーと散歩をしている荻谷を見たことがあるのだが、俺に負けず劣らず犬好きだなという印象を受けた。 愛犬を褒めている時の荻谷の表情の安らぎっぷりは驚くほどだ。普段はガラの悪いおっさんだというのに、その時ばかりは人が良さそうに見える。 これは大きな変化だ。 「良かったな豆吉」 そう言いながら豆吉を見下ろす瞳は柔らかだ。きっと俺も荻谷と似たような、それよりあからさまな眼差しをしていることだろう。 別に恥ずかしいとは思わないので気にしない。 豆吉は応じるようにわふんと小さく鳴いた。 「はよー」 マンションに一人の男が入ってくる。 金色に近い髪に、少し着崩したスーツ。気怠そうな様子はとても早起きとしたというものではない。確実に朝帰りだ。 ちゃらちゃらしてんな、というのが俺の印象だった。 こういういい加減そうな人間とは極力関わりにならないようにしている。常識が感じられない上に距離を測ってこず、妙に馴れ馴れしいから苛立つ。こいつもそういう傾向があった。 だが不快感がないのは、なんとなくその人なつっこさが癇に障らないのだ。 そして何より豆吉がよく懐いている。 俺がここに入る前から豆吉とは遊んでくれているようだった。 「伊達、また朝帰りか」 「仕事だもんよー。なかなか帰らせてくんなくてさ。俺はとっとと帰って寝たいってのにねばられてたまんないよ」 肩をすくめて伊達と言われた男はうんざりとした顔を見せる。 「鹿野さんもおはようございます」 「おはようございます」 会釈までされるとさすがにこちらも礼儀正しく挨拶をする。そして伊達はしゃがみ込んだ。 「豆吉もはよ。今から散歩かぁ。いいなぁ。羨ましいよ。俺も早く身を固めたいんだけどさ、どこにいるのか俺の運命の人。会いたいな」 豆吉を撫でながら、伊達はよく分からないことを喋っている。運命の人なんて、今時少女漫画でも言わないのではないだろうか。近年の女性たちは益々現実味が強くなってきているからな。職場の事務員を見ていると、男の方が夢見がちではないかと思う。 「豆吉は幸せもんだな」 そう豆吉に話しかける伊達を見て、俺はまんざらでもない気分だった。 良い飼い主だと言われることは嬉しい。自分が褒められることも悪くない気分なのだか、愛犬を褒められることはもっと嬉しい。それと同じことだろう。 それにしてもここの住人はやたらペットに話しかける。豆吉の散歩に行く途中に住人に会うと必ず会話の矛先は豆吉になり。他にも荻谷が愛犬といればその愛犬、猫を抱いて散歩に行く人がいれば、その猫はやたら「可愛い」「美人」と褒められている。 気位の高そうな猫なので、美人という形容がよく似合うのだがそんなに褒めても猫には伝わらないような気がした。 ペットを重視しているマンションなので、これでも普通なのかも知れない。 そう俺は豆吉が可愛がられていることに満足しつつ、散歩に出掛けた。 豆吉と暮らし始めて二ヶ月も経つと、豆吉がいる暮らしのリズムも把握して生活することに慣れる。仕事もさっさと切り上げて、上機嫌で帰宅出来るのだから万々歳だ。 今日も心の中で地獄に堕ちろと思った客がいたことを記憶から吹き飛ばしながら、家に帰って飯を食った後だった。 豆吉が落ち着かない。 帰ってきた時に大喜びで迎えてくれることや、俺が飯を食っている時も傍らでうろうろして構って欲しがっていることは同じ。 だがいつも俺を見てはどこか不安そうにきょろきょろしているのだ。寂しかったのかと思っていつもより多く撫でて声をかけて構ってやるのだが、それでも豆吉は大人しくならない。 なんだか焦っているみたいだった。 「どうした?どっか痛いのか?」 様子の違う豆吉に、俺は次第に血の気が引いていくのが分かった。 大人しく従順な豆吉は俺を困らせることがなかった。その分異変が俺を盛大に混乱させる。 「豆吉?どうしたんだ?腹でも下したか?でもおかしいとこなんてなかったし、餌も食ってるし」 豆吉と同じように俺まで立ち上がって部屋の中を点検する。何かおかしいところはないか、豆吉がこんな風になる原因がないか調べる。 だがどこもおかしいと思うようなところがないのだ。 どくりどくりと鼓動が大きくなる。冷静にならなければと思うのだが、豆吉がきゅうんと鳴く声に動揺は広がるばかりだ。 「足も引きずってない、汚れているところもない、熱でも出したのか?」 もしくは消化器官とは違う内臓に問題でもあるのか。 人間なら言葉を出してなんとか事情を伝えてくるだろうが豆吉は言葉を喋れない。 当然である事実が、こんな時に俺を責める。 「病院に行くか」 こうしていても心配することしか出来ない。なら専門家に看て貰って状況を知るべきだ。 身体に何もなかったのならばそれで良い。獣医に叱られて帰ってくるだけのことだ。それで一つの可能性が消える。 時間は夜中に近くなろうとしていたが、救急病院を知っている。ここに引っ越してくる際に荻谷に聞いたのだ。獣医の情報はペットを飼う上で必要不可欠だったから、ちゃんと場所も電話番号も知っている。 情報と地図が書かれた紙をどこに保管しただろうかと思って、書類を保管している棚を開けようとすると豆吉が俺のズボンの裾を噛んで引っ張った。 「豆吉?」 どうした、何が言いたい?そう問い掛けると豆吉は寝室へと行ってしまう。 そこに何があるのかと思い、ドアの前でお座りをした豆吉にドアを開けてやる。 中に入ると豆吉と俺のベッドがある。もしかしてもう休みたいのだろうか、だとすれば深刻な体調不良じゃないかと不安になっていると、豆吉は俺のベッドに上がった。 そして毛布を噛んで引っ張りながらベッドから下りた。そして床に毛布を下ろそうと頑張っていた。 「何してんだ豆吉?」 どういう理由があっての行動かと思って、困惑が深まる。しかし豆吉が必死になっている様を見ていると止められず、しばらく見守ることしか出来なかった。 だがそれに変化が訪れる。 柴犬一匹が中にいるだけだというのに、その毛布は不自然な膨らみを現し始めた。 隆起するその形。先ほどまでとは比較するのも馬鹿らしいほどの膨張。 俺は目の前で何が起こっているのか分からなかった。 豆吉は何をしているのか。 凍り付いた頭でそこまでの思考しか出来ずにいると、毛布の端が持ち上がった。 決して豆吉では動かせない高さまで、毛布が盛り上がる。 そして中から人間の手が見えた。 犬しかいなかったはずの毛布から、人間が出るなんて有り得ない。 「は……?」 俺はそんな声を零した。だがそれを聞く気もないのか、手だけでなく顔や胴体まで現れて来る。 一人の男がそこにいた。 可愛い茶色のもふもふとした柴犬ではなく、立派な筋肉がついた青年がそこにいたのだ。 服を着ておらず明確になった体格は俺より良く、背も高いだろう。短髪で顔立ちは誠実そうだった。だが心底弱ったというように眉毛が下がっており、途方に暮れている様はどこか情けない。 なんとなく豆吉に似ているなと思った。 だが印象がどんなものであろうとも、豆吉は犬であって人ではない。 「夢か……?」 現実であるはずがない。微かな理性がそんな儚い判断を下した。 しかし夢であるなら。一体どこで俺は気を失ったというのか。どうせ失うなら今がいいのに。 呆然とする俺に向かって、男は頭を下げた。土下座に近いほど深く。 「すみません」 男は非常に申し訳なさそうに言った。 すでに打ちのめされたような顔をしているのだが、その表情を浮かべたいのは俺であってこいつではないような気がする。 「本当のことをずっと黙ってて、すみません」 男の口から告げられた、本当のこと、という表現に俺は身体の芯が凍り付き指先が冷たくなっていくのを感じた。 next |