犬の飼い方 3



「お回り」
 そう指示を出すと犬はくるりとその場で回った。
「すごいな!もう覚えたのか!おまえは賢いな!」
 スーツが犬の毛にまみれるのも気にせず、俺は犬をわしゃわしゃ撫でる。すると犬も興奮したようにわふわふ小さく鳴きながら喜んでいた。
「賢い犬ですね!しかも人懐っこい!今何ヶ月ですか?」
 これは手間のかからないタイプの子だろうなと思いつつ俺はそれまで存在を忘れていた二人を振り返る。
「二十歳ですから」
「え、二十?」
 ルディがぽろりと零した台詞に俺は耳を疑った。
 毛並みといい体つきと良い、瞳だって艶やかでとても老犬には見えなかったのだ。むしろまだ子犬であるように見えるのだが。
「あ、いえ。人間の年齢だとそれくらいだということです」
「なら一歳ちょいくらいですね」
 どうして人間の年齢を基準にしたのかは分からないが、犬で計算するとそれくらいだろう。
 思った通りまだまだ若い犬だ。
 やんちゃ盛りというところだろう。
「今はどこで暮らしてるんですか?ブリーダーさんのところですか?」
 飼い主はいないと言うがこれだけ手入れと躾をされている犬ならば、きっちりと飼ってくれている人がいるのだろう。
 ぱっと思い付いたのがブリーダーだ。愛情を込められた犬にしか思えなかった。
「いえ。今はうちで預かってます」
 微笑むルディに俺はこの二人に好意的な目を向ける。愛犬家だろうと予測はしていたが、全く外れていなかったようだ。
「血統書はありますか?」
「あります。手元にはないですが取り寄せましょう」
「ワクチン接種は?」
「証明書がうちにあります」
 俺の質問にルディは次々答えてくれる。しっかり管理している証拠だ。
「名前は何ですか?」
「それはまだ決まっていません。名前を決めるのは飼い主さんの役目ですから」
 俺はルディの言葉に完璧だと言いそうになった。
 飼い犬に名前を付けるのは飼い主の特権であり、喜びだと思っている。
 それが自分の犬であり、自分との絆を現す一つであるように思うのだ。名前というのはその犬を示すために必要である分、目に見えない繋がりのような気がする。
 それをこの二人は今まで自分たちのものにせず、みだ見ぬ飼い主のために残していたのだ。
 それだけで俺は頭が下がる。
「で、どうする?犬は鹿野さんがいいって言ってるぞ」
 黙って笑っていた荻谷がそう言う。尋ねてはいるのだが、俺の答えがもう見えているみたいな態度だ。
「誰にでも懐く犬じゃないんですか?」
 俺を見てすぐに懐いてしまった柴犬は、他の人を見ても似たような反応をするのではないか。そんな疑いも小さくあった。
 人間自体が好きな犬だっていっぱいいるのだ。
 だが荻谷は俺に対して愉快そうに口角を上げた。
「まさか。ここのペットは馬鹿じゃない。飼い主は一人だ」
 たった一人、と告げられて俺はぐっと心臓が引っ張られるのを感じた。無論引っ張っている先は荻谷じゃない。ルディでもない。
 俺の膝に前足をかけている柴犬だ。
「動物がそんなにきっちり一人と決められるでしょうか?」
 一時を生きている者が、今後の自分なんて考えられるはずもない。目の前にいる人が好きかどうかだけで生きているのではないか。
 俺はたまたま気に入られただけで、もしかすると他にも気に入った人間がいるのではないか。比べればそちらの方がいいのではないか。
 だって動物がそんな契約じみた概念を持っているとは思えない。
 可愛い柴犬の頭を撫でながら俺は冷静さを取り戻すのだが、二人は同意しなかった。
「決められますよ。ペットだからこそ、誰が自分を大切にしてくれるのかよく分かるんです」
 ルディはまるで自分のことのように力強く断言した。
 妙に説得力があって、俺は現実味が薄いとは言えなかった。
「この子は貴方なら、と信じて懐いたんでしょう」
 犬の心が見えるかのようにルディは語る。そしてそれが重く届いてくるのだ。
 きっとルディはずっと犬と接して暮らしてきたのだろう。自分のことのように犬を感じられるほどに。そんな様子に俺は共感を覚えてしまう。
「いつ引っ越してくる?」
「え、私はまだ」
 荻谷が面白そうに尋ねてくるが、俺はこの部屋に来る予定を一つも立てていない。
 だって入れるかどうかなんて頭になかったのだから。
「来ないのか?ここでしかこいつには会えないそ?」
 会えないと言われて俺は尻尾を振っている犬を見る。真ん丸の潤んだ瞳が俺をねだっているようだ。
「私は、別に…」
 この犬を自分のものにすると、まだはっきり決めたわけではないのだ。大体自分が入居する部屋くらい、じっくり考えた上で実行に移したい。
 成り行き任せ、勢いに流されて、なんて状態は性に合わない。
 だが一端ストップをかけようとすると、それを察知したように犬がキュゥンと何とも切なげに鳴いた。
 この鳴き声に弱い愛犬家は多いだろう。
 哀れみと恋しさを掻き立てる声だ。
 俺はこの声を聞くと脈拍が乱れ心が苦しくなる。いきなり病気かと思うほど神経が乱れるのだ。無性に犬を抱き締めたくなる衝動にかられ、ぐっと奥歯を噛んだ。
 この犬は人の会話が理解出来るのだろうか。
 だからこそ、こんな鳴き方をして俺を引き留めているのだろうか。
 嫌だ、どこにも行きたくない。
 そう言いたくなる気持ちが急激に育っていく。
「こんなにいい部屋、他にはねぇぞ」
 大きく揺らいでいる俺にトドメを刺すように、荻谷がそう口にする。
 俺は足元が音を立てて崩れるような感覚に襲われた。



 この部屋はヤバイ。何か裏があるのではないか。
 後出しでとんでもない条件が来るとか、そういうオチがあるんじゃないか。
 そんな疑惑を抱きながら、俺は引っ越しをした。
 柴犬の誘惑に負けたのだ。
 相手が人間であったのなら、俺はどんな美人だろうと、スタイルの素晴らしい女だろうと即決することはなかっただろう。男相手なら言うまでもない。
 だが相手が犬になると俺は途端に駄目になる。
 自覚していたのだが、抗えなかった。
 あの柴犬は豆吉と名付けた。
 柴犬にはやはり漢字の名前が似合うし、実家で飼っていた柴犬が大吉という名前だったのでそれを少し受け継いでいる。
 大吉は豆吉より大きな柴犬だった。俺が物心付いた時から一緒に暮らして、俺が大学に入ってすぐに亡くなった。
 かなり高齢で、最後は散歩もろくに出来ないような状態だった。
 けれどよく眠り、俺が近付くと顔を上げて手を舐めてくれる大吉は最後まで俺たち家族の大切な存在だった。今だって大吉は俺たちにとってかけがえのない家族である。
 よく生きた、長生きした子だったと大吉が亡くなった後に家族は泣きながら言った。俺もそう思う。
 でも、もっと一緒にいたかった。
 無理だと分かっているが、ずっと一緒に生きていきたかった。
 それから実家には新しい犬が来た。暗く沈んだ家はそれで明るさを取り戻し、俺だってその実家の犬が大好きだ。無性に合いたくなってよく週末は実家に帰った。
 だが俺はどこかで大吉が恋しかったんだろう。実家の新しい犬は柴犬ではないせいか、大吉の存在感を全ての柴犬に共通して求めてしまっていた。
 そんな中、豆吉の出現は巨大すぎた。
「ただいま」
 以前の部屋から比べると職場は少し近くなった。
 それも利点だなと思いつつ今日も玄関を開けるとすぐそこにちょこんと豆吉が座っていた。
「いい子にしてたか?豆吉」
 俺の元まで来ると豆吉は盛大に尻尾を振ってじゃれついてくる。
 数時間ぶりの再会に大喜びだ。
 俺も今朝ぶりに会う豆吉に心が躍っていた。
 たった数時間、と冷静な人間は思うのだろうが。この数時間豆吉は一人でこの部屋におり、寂しく過ごしていたのだろうと思うだけで可哀想に思えて仕方がないのだ。
 俺の帰宅を喜ぶ様を見れば見るほど、愛おしさが募る。
 ついでに仕事なんか行きたくない。
「ご飯食べたか?悪戯してないか?」
 そう声をかけてわしわし撫でた後、俺は部屋に上がる。
 ゴミ箱は倒されていないし、餌は綺麗に消えている。
 床の上には玩具が散らばっているが、きっとそれで遊んでいたのだろう。人と違って、俺が帰ってくるまでにこれを片付けるなんて無理な話だ。
 それより部屋が荒らされていないことに俺は今日も感心した。
 教えた覚えもないのに、この子は良くできた子だ。
「豆吉は本当に賢くていい子だな。俺の自慢だ」
 手間の描かない頭の良い犬だ。俺個人としてはもう少し駄目なところがあっても、躾る楽しみがあるのだが。
 だがそれは欲張りというものだろう。
 褒めると豆吉は軽くワン!と鳴いて俺の周りをくるくる回る。
 もっと撫でて褒めてと言っているかのようだ。
「本当に豆吉は可愛いな。頭は良いし、うちに来る客どもにも見習わせたいくらいだ」
 俺は靴を脱いでリビングに上がりあぐらをかいて豆吉を撫でる。すると豆吉は腹を出してきた。
「予算と合わない部屋を欲しがるし、ないって言っても探して来いって言うし。あるわけねぇって言ってんだろうがクソ野郎が。そんなに欲しけりゃ自分で探して来いよ。もしくはもっと金を積め」
 あまり品がよいとは思えない単語と共に仕事を愚痴るのだが口調は大変柔らかい。だって俺は今の機嫌は上々であり、目の前にいるのは大好きな愛犬だ。
 苛々はこの部屋の玄関を開けた時に終わっている。
 まして棘のついた声で喋っていれば豆吉が怒られているのではないかと勘違いしてしまう。そんな可哀想なことはしない。
「自分の身の上話をする奴もいるしな。てめぇが離婚して親権取られて家追い出されたとかマジどーでもいいし。部屋の話しをしてくれよ。おまえ個人のことなんて知りたくねぇよって。言ってやりたいんだがな」
 言えるわけもない。
 延々離婚の恨みをつらつらと言われても不倫したおまえが悪いんじゃないか?としか思えない俺は相づちしか打てなかった。
 最後には空気読めないし人の話聞かないせいもあるんじゃないか?と思ったが、それもやはり言えなかった。
 悲しい商売だ。
 そんな俺の世知辛い話を豆吉は真ん丸の瞳でじっと俺を見ながら聞いている。
 絶対服従の態度に俺はらしくなく胸がときめいてしまう。
「豆吉は可愛いな。豆を仕事に連れて行きたいよ。そしたら仕事も苦じゃないが。怒られるんだろうな」
 上司の心底呆れ果てた顔が想像出来る。
 常識に外れた行動をあまりとらない俺なので、きっと病気か何かだろうと想われるのだろう。
 哀れみを向けられたあげく解雇されると嫌なので、ぐっと我慢しているのが現状だ。
 だが出来ることなら仕事もせず、毎日ここで豆吉は暮らしたい。
「……あー、仕事したくねぇ」
 この部屋に入る前も毎日呟いた言葉なのだが、あの時より満たされている日常のはずなのに本気度合いが深まっていた。


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