犬の飼い方 2



 とりあえず、と空いている部屋を見せて貰った。
 昼過ぎの陽光が大きな窓から燦々と降り注いでいる。
 フローリングの床に反射して天井まで明るい。
 壁には染み一つなく、目立った傷もない。
 汚れなど見当たらず、俺の中で疑問が膨らんでいく一方だった。
「家賃は本当に三万ですか」
 改めて尋ねると荻谷は至極真面目に頷いた。
「三万だ」
「安すぎます」
「そうだな」
 利益というものをこの男は知っているのだろうか。それともこれは税金対策か何かなのだろうか。金が余りすぎて捨てるほどあるため、こんな酔狂な真似をしているのか。
「どうしてですか?」
 あまり家賃だの何だのに関して追求はしないのだが、俺はどうしても気になった。自分がここに入りたいと小さくとも思ってしまったせいだろう。
「ペットのためだからだ。どれだけペットが自分の飼い主を選んだとしても、家賃が高くて部屋に入れませんじゃ話にならない」
 可哀想だろう、と荻谷は冗談めかすわけでもなく言った。この男はきっと真剣にそう考えているのだろう。
「どうしてそこまでペットに固執するんですか?」
 何かそこまでしなければならない理由が、荻谷にはあるのだろうか。
 顔を窺うのだが、分かり易い表情がそこにはない。ただ淡々としていた。
「幸せにしたいだけだ。可愛いだろう、ペットたちは」
 おっさんの口から可愛いなんて単語が出てきたことに違和感を覚えるのだが。言われていることにはおおむね賛成だった。
「可愛いですが」
 だからといってやりすぎではないかと、俺は思う。そんな気持ちが感じられたのか、荻谷は苦笑した。
「人間のためでもある。ペットと暮らしたい飼い主のためでも」
 ここはペットと飼い主を繋げる場なのだろうか。
 随分甘いことを語っているものだ。まぁ金があって、それを実行出来ているのだから好きにすれば良い。俺の問題じゃないし。
「こんな変なマンションがこの世に一つくらいあってもいいだろ」
 荻谷は難しいことを言うのが面倒なのか、そう言って肩をすくめた。
「ペットに気に入られた人間だけが入る。気に入られなかったら入れない。ある意味シンプルだろ」
「確かにシンプルですが。ペットが人間を飼い主として気に入ったと、誰が判断するんですか?」
 ペットは喋れない。どれだけ気に入ったところで「この人がいい!」と公言することは出来ないのだ。
「俺が立ち会うさ。まぁ向こうもあからさまな態度取るだろ」
 大したことじゃないと荻谷は言いたいようだが。犬猫ならともかく、は虫類相手なら感情を読みとるのは至難の業だろう。そもそもは虫類なんて機嫌が良い場合はどんな態度なのか俺にはさっぱり分からない。
 もしくは、は虫類なんていないのか。
「家賃が家賃なだけに、人が群がりそうですが」
 ペット可能の三万、駅から五分なんて貴重な部屋だ。入りたいと希望する者は後を絶たないだろう。
「厳しい条件をもう少し足そうかと思ってる」
「そうですね」
 客がこの部屋にばかり集中してだだをこねると面倒だ。この部屋じゃなきゃ駄目だ!と言ってもペットに気に入られなければ駄目だなんて条件では、どれほどごねる者がいることか。
 考えるだけでぞっとする。
「ところで、鹿野さんもこの部屋を個人的に検討してるらしいが」
 荻谷はふと口元に意地の悪そうな笑みを浮かべた。食えない表情に俺は思わず身構える。
 何を言い出すかと思えば先ほど挨拶の際にちらっと言ったことだ。完全に冗談に聞こえるように言ったので笑って流すかと思ったのだが。
「はい。今ペット可の部屋を探してまして」
「犬飼ってんのか?」
「いえ、今は。実家ではずっと犬と暮らしてまして、一人暮らしの際に一度離れたのですが。そろそろ収入や生活も落ち着いてきたので犬が欲しいなと思いまして」
 そう人に語るたびに、俺は犬が欲しいという気持ちが膨らんでいくのを感じた。
「犬がいない生活にそろそろ限界が」
 わしゃわしゃと犬を撫でる感触を思い出しては空しくなる。なんで俺は一人で暮らしているのか。
「犬はいいよな。俺も飼ってる」
 焦がれる俺に同調するものがあるのか、荻谷はしみじみと口にした。今まで交わした会話の中で最も感情がこもっている。
 犬の話になって、俺は思わず目をばっと開いてしまった。平淡であった気分がつい波打ってしまう。
「犬種は何ですか?」
「ゴールデンだ」
「いいですね!」
「最高だな」
 金色の毛並みをした大きく、穏やかな犬の種類に俺は力強く答えた。
 すると荻谷も即座に応じてくれる。
 犬好きの予感をひしひしと感じられるほどだ。きっと荻谷はかなりの愛犬家だろう。なんせ目の輝きも先ほどとは異なっている。
 たぶん俺もそうなっているだろう。
「小型犬が人気のようですが俺は中型、大型が好きです」
 仕事中の一人称は「私」なのだが、それが抜け落ちるほど俺は興奮していた。
 すると荻谷も嬉しそうに頷いてくれる。
「大型犬が走ってる姿の美しさは最強だからな。小型犬は室内で飼うのにいいんだが俺は走ってる姿が好きだ」
「分かります!」
 荻谷の語りに俺は同意する。犬が力一杯走っている時の躍動感、しなやかな筋肉の流れ、そして嬉々としたあの表情は見ていて俺も楽しくなる。
 犬は狩猟のために飼育されたのが始まりである、というのがよく分かる姿だ。
 人の元で愛され、可愛がられ、尻尾を振っているのも彼らの幸せだろう。しかし力一杯走っているのもまた彼らの幸せであると俺は思う。
 だが一方で犬が力一杯走ることの出来る場所が減ってきていることが、悩ましいところだった。日本は領地が狭すぎる。
「つかぬことを訊くが、好きな犬種は?」
「俺の中では柴が一番です」
 ゴールデンレトリバーを飼っている荻谷にとっての一番はやはりゴールデンレトリバーだろうと思いつつ、俺はかつて実家で飼っていた犬を答えた。
 すると荻谷は何故か驚いたようだった。
「……すごいな。これが巡り合わせか」
 小さな声でそう言うのが聞こえた。だが俺には意味が分からない。
「どういうことですか?」
「柴犬がうちにいる。飼い主待ちの犬だ」
 飼い主を選び、部屋に招く犬だ。その中に柴がいると言う。
 俺は当然のごとく興味を持った。
「会っていくか?」
 そう誘われて首を振るはずがない。もしかすると犬と部屋の両方が一気に手に入るかも知れないのだ。
「是非」
「もし犬に気に入られた場合は問答無用で入って貰うことになるが?」
 念を押す荻谷に俺は笑顔を向ける。営業スマイルではあるが、半分は珍しく心から滲み出るものだった。
「大歓迎です」



 次に案内された部屋に、ルディが立っていた。
 そして俺を見るとやんわりと微笑む。荻谷の嫁だと思われるこの女性も、どこか犬っぽい。
 大人しくて優しそうで、そして従順であるだろう印象がそう思わせるのだ。女も犬も似た趣味なのだろうと失礼なことを思う。
「どうぞ」
 ルディが玄関を開けて俺を中に導く。すると中から犬がフローリングの上を歩く、独特の「カシャカシャ」という爪の音が聞こえた。
 懐かしい音だ。
 実家でもよくこの音を聞いていた。犬が来ると俺はその方向を見上げて、揺れている尻尾を眺めながら犬を撫でていた。
 部屋の中にいたのは少し小さめの柴犬だった。
 茶色のもこもことした身体。凛々しい顔立ちに、優しさを付け加える白いまろ眉。くるんと丸まった尻尾に引き締まった足。
 俺はその犬を見た途端、血圧がぐぐぐっと上がるのを感じた。低血圧なので平常値が低いのだが、それが平均値を上回る程度にはテンションが上がる。
 自然と俺の腰は下がり、犬と目線を合わせようとする。
 俺の横にはルディ。そして斜め後ろには荻谷がいるのだが誰も口を開かない。
 飼い主が決まっていない犬らしいので、誰かに触っていいかと許可を得る必要もない。
 柴犬はゆっくりと俺に近寄ってくる。引け腰なのは見知らぬ人間だからだろう。警戒しながら俺の足元に寄ってきたかと思うとふんふん匂いを嗅いでいる。
 誰なのかと認識を行っているなと思いつつ、俺は撫でたいと彷徨う手を持て余していた。
 匂いを嗅ぎながらくるりと一回りすると柴犬は俺に頭をすりつけた。
 構ってくれと言うような仕草に、俺の中でぷつりと音を立てて我慢が切れた。
「警戒心薄いなおまえ、それでいいいのか?」
 そう声を掛けながら頭を撫でると、もっとと言うように顎を上に向けてくる。掌に頭を付けてくる様に俺は舞い上がりそうだった。
 両手でわしわしと首元を掻くように撫でると、柴犬の尻尾が忙しなくなる。
「喉元は急所なんだぞ。ペットには分からないだろうがな。こんなに無防備じゃがぶっといかれるぞ」
 喉を撫でて喜ぶ犬には、毎度そう言ってしまう。実家の犬にもそう言うのだが「わかんなーい」という様子で喜ばれるだけだ。
 それはこいつも同じらしい。
 撫でれば撫でるほど嬉しいらしく、わふわふと呼吸が荒くなっては身じろぎをしている。
「あ、こら」
 撫でるだけでは満足出来なくなったのか、柴犬は俺に飛びかかってくる。ぶんぶん降られる尻尾は俺に構ってくれ!と大声で求めているようだ。
 犬に求められるのは悪くない。というかとても良い、大歓迎で素晴らしいことだと思っている。
 俺は一応仕事中であることも忘れ、両手で犬の全身をやや手荒く撫でる。だがこの刺激が犬にはたまらないらしい。
 キャウ!キャウ!とやや高くなった声でじゃれついてくる。
 中型なので押し倒されずに相手しているが、大型なら間違いなく上に乗られていることだろう。
「なんだこのテンション。俺は初対面の人間だぞ。そんなに構って欲しかったのか?」
 締まりのない口元でそう言うと、そんなことは知らないと言うように俺の顔を舐め始めた。
 唾液でべたべたになる、これでは顔を洗わなければいけない。ああ、でもそんなことどうでもいい。
 犬だ犬。可愛い犬だ。嬉しい嬉しいと主張する素直な犬。本当に犬は可愛い。
「よし。お手!」
 慌ただしく喜んでいる柴犬に、俺はそう指示を出した。
 誰かに躾を受けているだろうかと思ったのだ。
 犬は少しきょとんとした後自らお座りをした。遊んでばかりではないということを俺の声から察したらしい。
 そして俺が掌を上にして出すと、そこに片足を乗せた。
 これには軽く感動した。特定の飼い主がいないというのにちゃんとお手をするらしい。
「おかわり」
 もう反対側の手が乗せられ、俺は犬の周りに小さな花が咲いていくような錯覚を覚えた。日常でこんな感覚を覚えていれば完全に頭のいかれた人なのだが、犬の前だとそういう現象が起こる。
「伏せ」
 ぺたんと身体を伏せて、犬は俺を見上げてくる。じっと向けられた視線は次の指示を求めているものだ。人に従うことを自分の幸せだと感じる犬らしい眼差しだった。
「お回り」
 実家ではそこまでは基本として教えているのだが。これに犬はきょとんとした。しばらく悩んだかと思うと首を傾げる。
 意味が分からないと首を傾げてしまうのは人も犬も同じだ。そして俺はこの仕草は非常に可愛いと思っている。
「お回り分からないか?くるっと回るんだよ」
 犬の前に人差し指を持っていき、犬がそれに注目した時にふっと上に持ち上げて犬を立ち上がらせる。
 そして大きく円を描いて犬を回らせた。
 その動きをする際に、ちゃんとお回りと口頭で言って響きに慣れさせる。
 一週回ると「そうそう」と声のトーンを上げて滅茶苦茶に褒める。もう犬は褒めれば褒めるほど喜んで賢くなる。
「はいもっかい。お回り」
 単純なこの作業をもう一度行い。そしてまた大袈裟なくらい褒める。すると犬はお回りという単語に反応を見せ始める。
 そのやりとりに俺はくらりと脳味噌が柔らかくなるような幸福感を覚えていた。


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