犬の飼い方 1



 犬が飼いたい。
 それは俺の願いだった。
 大型中型小型に関わらず、犬が欲しいのだ。
 もこもこの生き物が足元を走り回って、まとわりついてくるのを想像するだけで俺は癒される。それが現実になったとすればどれほど喜ばしいことだろうか。
 仕事中にコーヒー飲みながら世界滅びろと呟く回数も激減することだろう。
 それに伴い事務員を怯えさせることも減るはずだ。
 接客中の俺と、客がいない時の俺の態度にはかなりの差がある。自覚しているし、四六時中にこにこしていれば俺が病むので、それは構わないと独断で判断しているのだが。
 このままでは接客中の笑顔にも崩れが出そうだ。
 それほど俺にはストレスが溜まっていた。
 客商売の悲しいところであり、ストレスというのは積もり続けることは容易でも消すことは困難なのだ。
 そろそろ限界だと感じ始めた俺は、犬に救いを求めることに決めたのだ。
 だが今一人暮らしをしている部屋はペット禁止である。
 就職して給料が落ち着くまではペットなしで我慢しようと決意していたので、仕方がない。
 だがもうある程度貯蓄も出来始め、犬の一匹や二匹くらいならちゃんと養える。
 ならばちょっと家賃が高くなってもペット可能の部屋に引っ越そうと思ったのだ。
 犬のいない生活はもう嫌だ。
「引っ越しを考えているんですが」
 俺は職場に出勤して上司に報告した。
 引っ越しなんて部屋が決まってから報告するのが通常の職場かも知れない。けれど俺の勤め先は不動産関係であり、部屋の斡旋をしている。
 いわばそれは上司への報告というより相談、もしくはいい部屋を出してくれというものだ。
 俺も数多くの部屋の情報を持っているのだが、上司は俺よりコネがあり、良い物件も隠し持っているはずだ。
 その中に立地条件、家賃、そしてペット可の部屋もあるかも知れない。
 使える者は何でも使うのが俺の考えなので、それを実行したのだ。
 三十半ばの上司は茶を飲み、新聞片手に俺をちらりと見上げた。
 腕まくりをし、目つきの悪い顔にデカイ態度。あまりガラの良い見た目ではない。中身もそれに見合っているのだが頭は切れるので不満はなかった。
「犬有りか」
「そうです」
 俺が犬好きであり、犬に飢えていることは以前からぼやいていたので上司も知っている。ここのところそれが酷くなっているのも気が付いていることだろう。
「実家で補充するのはもう限界です。週末のたびに帰っては両親に鬱陶しいと嫌がられます」
 俺自身も割と冷静で、他人とは距離を置く性格なのだが両親もその類だった。特に母親は成人して独り立ちした息子が毎週帰って来るのを「実家戻りか」と不審がるほどだ。
 一人暮らしなのか実家暮らしなのか、どちらかに落ち着けと言いたいようだった。
 実家では出勤に時間がかかる上に、気楽さが奪われるので俺としては一人暮らしを続行したかった。だが犬たちに囲まれる生活は楽園のようであったのだ。
「そうか。そんなおまえにこんなのが入ってきた」
 上司は犬を求めて目が据わっている俺の前に、ぴらりと一枚の紙を差し出した。
 それを手に取ると見取り図と説明が書かれてある。俺が初めて見るものだ。やはり上司は情報を隠し持っていたらしい。
「ペットと同居することが条件…」
 俺は紙面に並んでいる文字から一文取り出して音読した。
「自分が飼ってるペットじゃなくて、向こうにいるペットとの同居らしい。しかも面白いのがこのペットに気に入られないと、部屋には入れないそうだ」
 この上司は面白い物件が好きなのだ。部屋の間取りが変わっている、建物が変わっている、入居条件が変わっている物が大好きだった。俺はそういう面倒なものは嫌なので遠ざけがちなので、上司の取り扱いしている部屋は新鮮なものばかりだ。
「それは、特殊ですね」
 今まで聞いたことのない条件だ。用意されているだろうペットと暮らすことが条件だなんて、一体それで大家にはどんなメリットがあるというのか。
 そんな仕組みを決めた理由が気になる。
「ペットに気に入られなかったら、どれだけ部屋に入りたくても無理らしい」
「変な部屋ですね」
「だろ?」
 素直に変だと言ったら上司は嬉しそうな顔をする。この人も相当変わっている。
「俺の友達がやってんだがな。ペットのためのマンションらしい」
 ペットと一緒に暮らせるマンション。というのは割とあるのだが、ペットのためのマンションとは大きく出たものだ。しかも実際飼い主のことは二の次であるような決まりになっている。
 しかし俺としてはそのスタンスは悪いものではない。むしろ興味を惹かれる。
「場所もかなりいい処じゃないですか」
 渡された紙に住所が書かれているが、ここなら特急が止まる駅から徒歩で五分というところだろう。
 周囲にスーパーやら公共施設もあり、住み心地は悪くない。俺が今いるところより条件は良いだろう。
 だがその分、問題になるだろう部分があった。
「家賃いくらですか?」
「敷礼なしの月々三万」
 上司が三つ指を立てるのを見て、俺は絶句した。
「三万!?この条件で!?」
 敷金礼金なしというのも驚くのだが家賃三万というのにもっと驚いた。三万なんて、駅の真ん前で囂々電車の音が届く1ルームくらいの値段じゃないか。風呂もユニットか、もしくはついてないかくらいのレベルだ。
 だがこの見取り図はどう見ても2LDKだ。有り得ない。
「殺人現場か何かの後ですか?どんな曰く付きなんですか」
 そんな値段で出るなんて有り得ない。絶対にその場所で何かあったんだと俺は決めつけた。そんな美味い話がこの世にあっていいわけがない。
「いやー、何もないだろ。普通にマンションやってきたところだし事件もなかったしな。ただペットに気に入られれないと駄目っていうのがネックなんだろ」
 最初のハードルが高いから、家賃は下げたというところだろうか。しかしそれでも安さが異常だ。
「ペットって何ですか?」
 まさかリクガメやら、クロコダイルか。もしくはタランチュラとかの昆虫類だろうか。ヘビとかならまだしも大型ワニなどになるとさすがに飼育は出来ない。
 俺は自分に合った条件のペットはいるだろうかとつい尋ねてしまった。
「犬やら猫やらうさぎらしいぞ」
 身構えたというのに上司の返事はあっさりとしたものだった。
 拍子抜けしてしまう。
「…普通ですね」
「あぁ、だが飼い主を選ぶのはかなりうるさいらしい」
 普通ならペットは飼い主が選ぶ。ペットショップで色んな種類を見て、その中から選ぶのがポピュラーだろう。
 だがそこでは立場が完全に反対だった。
 ペットに選ばれる、というのは悪くないような気がする。自分が選ばれるかどうかの自信はないのだが面白そうだと思う。
 もしかするとそこで犬と縁が出来ないものだろうか。
 家賃は安いし駅からは近いし、犬とは暮らせるし、となればかなり幸せなことになるのだが。
 まぁ、そう上手くはいかないのだろう。
「入居者いるんですか?」
 こんな胡散臭いところに入る人間はいるのだろうか。その内の一人になれるものなら、と考えている自分を棚上げする。
「数件埋まってるらしいぞ」
 ということはすでにマンションとしてはこれで動いているということだろう。
「行ってみようかな。挨拶と、ついでに下見に。運が良ければ入りたいですし」
「だろうな」
 この業種なので別に挨拶にいったところで不信ではない。それに自分のことも考えて真剣に部屋を見たいというのもあった。大体の部屋は見たら住み心地の良さ悪さは分かる。
 見取り図を眺めつつ、ここにこんな家具を置きたいものだと勝手に想像していた。
「出来れば犬は柴がいいんだが」
 そんなことを呟きながら、犬がいたとしてもそれが自分を気に入ってくれるかどうか分からないし、まして柴犬である確率なんてどれほど低いか。
 現実味はないと自分でも分かっていたのだ。



 そのマンションは建てられてから年数が経っていないことは見て明らかだった。
 外壁もエントランスも、何の問題もない。一階は駐車場のスペースで大幅に埋まっているがその駐車場も整っており車が数台止まっていた。
 エントランスを照らすオレンジ色の柔らかな光に包まれながら、オートロックの呼び出し台の前で腕を組んだ。
 頭上を見上げても電球一つも切れていない。当然ではあるのだが、こんなに綺麗で立地条件が良くて三万の家賃なんて正気とは思えなかった。
 どんな大家だ。
 事前に電話でアポは取ってあるのだが、声は普通の男だった。上司とさして年の差のない相手であり、このマンションは祖父から受け継いだ物らしい。元々大家はマンションには興味がなく手放そうとしていたらしいのだが、ある時突然本腰を入れてマンションを改装し、店子を求めたらしい。
 どんな心境の変化があったのかは知らないが、もっと真っ当な経営をするべきではないだろうか。
 確かにここはホテル並の装飾を施したマンションではない。規模も大きくない。だがそれにしたってこの値段はない。
「ありえねぇな」
 馬鹿じゃないのかと内心思いつつ、ここで突っ立っていても意味がないのでオートロック解除のために呼び出しをしようとしたのが、不意にマンション内部へと続く自動ドアが開いた。
「鹿野さん、ですか?」
 声を掛けてきたのは二十代半ばの女性だった。
 栗色のふわりとした髪に大きめの瞳は目尻が少し下がり気味で、穏和そうな雰囲気を纏っている。これは揉めない相手だな、と客を見る目で相手を見てしまった。
 どうも人を見ると「めんどくさそう」「めんどくさくなさそう」という基準で判断してしまう。
 この女性は後者だった。人の話を聞いてくれそうな空気からしてまず安堵してしまう。
「はい」
 俺の名前を知っているということは大家の周囲にいる人間だろう。きっと嫁か彼女かだ。
 約束の時間にスーツを着てここにいる時点で、俺が連絡した相手だということも察しが付いたはずだ。
「今荻谷を呼びます。少しお待ち下さい」
 女性は再びマンションの中へと入っていく。そしてすぐに男を連れて戻ってきた。
 上司と似たような印象を持っている男だった。ガラはあまり良いとは思えない見た目だ。ざっくりとしたシャツにジーパン。自由業であることを窺わせる服装だった。
 体格が良く、学生時代は運動部に所属していましたと言いそうだ。煙草を吸っていたのだろう、微かに煙の匂いがした。
「初めまして、お電話でご連絡を致しました銀路地不動産の鹿野です」
 頭を下げて名刺を差し出す。男はそれを受け取りながら自分もポケットから名刺入れを取り出して渡してくれた。そこには「荻谷久良 文筆業」と書かれている。
 ここの経営がメインではないらしい。
 もしかするとここは道楽でやっているのかも知れない。
 名刺交換をしている間に二人ほどマンションの中から人が出てくる。その二人ともが俺をちらりと見ていた。探るような視線を向けられ、違和感を覚える。
 見知らぬ人間がここで大家と立ち話をしていれば何事かとは思うだろうが、何故まじまじと確認するような視線なのか。
 不審者に見られるような格好ではないと思うのだが。
「こちらの部屋を是非拝見したいと思いまして。上司から話を聞いた時には驚きました」
 そう部屋の話をしようとした時、マンションの中からこちらに来ようとしていた男が自動ドアの前で立ち止まった。
 目を真ん丸にして凍り付いているようだった。
 ドアが微かな音を立てて開かれても、その男は微動だにしない。
 この世のものではない、衝撃的な物を発見してしまったかのような驚愕を顔に張り付かせている。その有様に俺の方が驚いてしまう。
(なんだこの男!)
 見たところ凡庸そうな男、しかもまだ若い、学生っぽいように見えるのだが。それより何より何に驚いているのか。
 思わず声を止めて見てしまったのを荻谷が怪訝そうにした。そして俺の視線を追って振り返る。
 隣にいた女性も同じく背後を見て四人ともが黙ってその場で固まった。それはそうだろう。だってどう見てもおかしい光景だ。
「……へぇ、マジか」
 最初に声を出したのは荻谷だった。愉快そうにそう呟いたかと思うと勝手に頷いた。何か納得したらしい。
「ルディ、あれなんとかしとけ」
 面白そうに口元を緩めては隣で戸惑っているらしい女性にそう指示を出した。ルディとは、日本人の名前ではない。
 よく見ると日本以外の血が入っていそうな、いなさそうな容貌だ。クォーターくらいだろうか。
「はい」
 ルディは頷くとようやく笑顔になってマンションの中に入っていく。そして男に声を掛けては男がびくりと肩を跳ねさせた。何を言ったのかは分からないが、男はルディに従ってマンションの奥へと入っていった。その際俺をちらりと見てきたのだが、意味が分からなかったので綺麗に無視をした。
 何であったのか、挙動不審な男だが意外と世間には変な人間が多いので、俺はすぐに男のことは意識から排除した。


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