慈しみ方 4



 空から容赦なく雨が降り続ける。
 シャワーみたいだ。
 視界には薄い青が霧みたいにたちこめていた。
 そんな中、二人で一つの傘を共有してたら肩もびしょ濡れになる。
「折り畳みとか、予備で置いとくべきだな」
 肩がひんやりとしてきた。
「いいじゃん、相合い傘出来て」
 テンも肩や腕が濡れているというのに、そんな気楽なことを言う。表情は、まだ硬いけど。
 僕の傘を、テンが持っていた。
 身長が僕より高いからだ。
 そしてテンの傘は、ゴミ捨て場に捨てられていた子犬のところにある。
 この雨に濡れていないだろうということだけが、その子にとって唯一の救いだろう。
「子犬拾ってきて、どーすんの?ちょっとの間ならともかく、ずっと飼ってるとバレるんじじゃねぇかな。犬って俺と違ってわんわん鳴くし。豆吉の鳴き声ってことにしても、声が違いすぎるだろ?」
「数日の間だけ置いてもらえるよう大家さんに頼むよ。その間に実家に電話して引き取りに来てもらうから」
「実家って、もう犬いるんじゃねぇの?飼ってくれんの?」
「飼ってくれるよ。昔から捨て犬とか譲り受けてたし。来るもの拒まず。飼ったら何でも可愛い、ってのがうちだから」
「亮平の家って感じだな」
「うちの親にとってはペットの世話が生き甲斐みたいなもんだよ」
「じゃあ、あいつが行ったら喜んでくれる?」
「もー、あんたまた犬増やしてどーすんの。ってだっこしながら笑うよ」
「亮平のおかんに会ってみたいなぁ。きっと亮平みたいに笑う人なんだろーな」
「僕みたいに笑うって?」
「出逢えたことが嬉しいです。そう言ってくれるよーな笑い方。フェレットの時、俺によく見せてくれた顔だよ。どんなのか亮平には分かんないかもしんないけど。すげー優しい」
「へぇ」
 僕は自分がそんな顔をしているのは想像出来ない。だけど母さんがそうしている顔はよく見ている。
 可愛い、可愛い、って嬉しそうな表情。小さな子どもと接しているときの母親ってああいう顔するなぁって思うけど、僕もそうなんだろうか。
 子持ちでもなければ、女の人でもないのになぁ。
(あ、でも親父も似たような顔してるか)
 夫婦して、子犬、子猫にはものすごく甘い。
 ずっと笑顔を見せてるくらいだ。よっぽど動物好きなんだなあって思うけど、僕も二人と大差ない自覚はある。
「あいつにも…見せてやりたい」
 ぽつり、と激しい雨に消えそうなくらい小さな声だった。
 テンは子犬を置き去りにしたことに酷く後ろめたい気持ちを抱いているのか、ずっと肩を落としたままだ。
「今から、会いに行くんじゃないか」
「うん」
「テンが大事にしてあげなよ。少しの間だけだけど」
「俺?」
「僕はテンを、テンは子犬の世話をする。これでバランスがいいだろ?誰も寂しくない。どこもヤキモチ妬かない」
「あーそれいい。なんだ、それでいいんじゃん。でも亮平はヤキモチ妬かないの?俺が子犬にかかりっきりになったら」
「楽だよね」
「なんだそれ!楽だよねって、俺の世話すんのそんなにしんどい?」
「しんどいってのもあるけど鬱陶しい」
「鬼!鬼の発言だ!この鬼飼い主!」
「こんなに優しい、慈悲に溢れた飼い主が他にいるか!甘えるなこの駄目フェレット!」
 ぱしっと頭をはたくとテンは不服そうな顔をした。だけど口元が緩んでいる。
 ようやく、明るさが戻ってきたみたいだ。
「あ…」
 向こうの角から、二つの傘が現れた。
 遠目でも分かるくらいよく知っている二人、大家さんとルディさんだ。
 大きな箱、段ボールだ、を抱えている大家さんと、両手が塞がっているため傘を差せない大家さんに傘を差してあげているルディさん。
「犬!」
 隣でテンが声を上げた。すると二人と目があった。
「おぎやんが拾ってくれたんだ!」
「おぎやん言うなって言ってんだろうが」
 大家さんは盛大に顔をしかめた。小走りでテンが近寄るから、僕も自然と走る羽目になった。
   近寄ると、確かに大家さんが抱えている段ボールの中には子犬が一匹丸まっていた。
 雑種みたいだけどすごく可愛い。しっぽがくるんと丸まっている。
 目はまだ開いてそんなに経ってないみたいだ。本当にふにふにした感じの身体だ。
 茶色のふわふわした子犬は、くぅんと一声鳴いては怯えた目で僕を見上げた。
 大きな黒い瞳に、僕は顔の筋肉が緩むのを抑えられなかった。
 ちょっと震えているみたいだけど、寒いのか、怖がっているのか。でも見たところそんなに衰弱してないみたいだ。
 ずっと放置されていたわけでもないんだろう。
「この傘。見覚えがあるって思ったんだけど、テンちゃんの?」
 ルディさんが腕にかけていた傘は、テンの物だった。
「段ボールにかけられているのを見たとき、どこかで見た記憶があるなぁと思ったんだけど。朝テンちゃんが持ってたね」
「うん、俺の…」
 ルディさんから傘を貰い、テンはその傘を差そうとした。
 だから僕が自分の傘を返してもらおうと思ったんだけどテンはなかなか手渡してくれない。
「テン?」
「このまんま帰りたいなぁ、なんて」
「早く返せ。自分のを差せ」
 僕が冷たく切り返すと、テンは「ちぇ」と傘を僕に差し出してくれた。そして自分の分をぱさぁ、と開く。
 これで濡れずにすむ。
「こいつを拾いに来たのか?」
「そうなんです。テンが教えてくれて」
「うちはペット厳禁だって知ってたか?」
「変な話ですよね。ペット厳禁って。ペットのための部屋なのに」
 僕はそう笑ったけど、大家さんは「当たり前だろうが」と真顔だった。
「同居するペットのためにある部屋。そのための同居人だ。その同居人が他にペットを飼うなんて傲慢だろうが。一人のペットを大切にすることが、最低条件だ」
 そういえば、入居の時にそんな話を聞いた覚えがあった。
 ペットのためにある部屋だ。同居するペットを大切に可愛がるのが入居の最低条件だ。って。
 随分ペットが重視されている部屋なんだなぁと妙な感じには思ったけど、入居してすぐにテンが可愛くて仕方なかった僕は、そんなことは当然のこととしてすっかり忘れてしまっていたらしい。
「ペット厳禁ってのは、俺が教えたよ」
 テンは大家さんにそう言いながら、興味津々といった様子で段ボールの中を覗いた。
 物珍しいのかも知れない。
 子犬と目が合ったのか、笑顔を見せた。
「それでもこれを拾いに来たのか?」
「少しの間だけ置いてもらえないか、大家さんに相談しようと思っていたんです」
「なし崩しになりそうな提案だな」
「大丈夫です、次の飼い主は当てがありますから」
「へぇ、飼い主探しが得意なのか?」
 捨てられる犬や猫が溢れている中、飼い主を見つけるというのがどれほど困難なことか、大家さんは知っているのだろう。
 あちこちで見かける「飼い主探してます」のポスター。ネット上にもいっぱい載っている。
 捨てられるペットは数え切れないのに、それを拾って飼う人間は限られている。
「実家で飼ってもらおうかって」
「飯塚さんのご実家はペットは飼えるんですか?」
 ルディさんにおっとりと尋ねられ、僕は頷いた。
「猫が三匹と犬が一匹います。その内猫一匹は僕が拾ってきた子だし。他の子ももらわれてきた子ばっかりです。もらってくれって言われると、ついつい飼っちゃうんですよ」
「親御さんが?それとも飯塚さんが?」
「両方です」
 家族みんなペット好きなんです、と言うと大家さんは小さく笑ったみたいだった。
「おまえさんらしい家庭環境だ」
「らしい、ですか?」
「ああ。生まれた時からペットに囲まれてきたんじゃないか?家族みたいなもんだっただろ?」
「はい。でもなんで?」
 どうしてそんなことが分かるんだろう。そう思っていると、大家さんは優しい目で段ボール箱の中にいる子犬を見下ろした。
 包み込むみたいな視線だ。
「あんたはそんな目をしてる。さっきこいつを見たときも、自分の子どもか、もしくは弟が生まれたみたいな目をしてた。可愛いって思っているだけじゃない、慈しむような目だ。小さな頃からペットと暮らしてる奴はたまにそういう目を持ってる。自分のところに迎えると決めたときからペットを家族として見てるんだな」
「家族、ですか」
 意識していなかった。
 それは、テンがさっき言ったみたいに「出逢えて良かった」って笑い方をしているのと同じことなんだろうか。
「飼育する、支配する。そんな気持ちじゃなく、これから一緒に暮らしていく仲間、家族だって認識を無意識の内にしているんだろうな」
「大家さんもそうじゃないんですか?」
「俺は飼育するって気持ちで接する。おまえさんみたいに優しい目は持ってないし、そんな人間でもない」
 素っ気なく大家さんは言ったけど、その隣でルディさんはにっこり微笑んでいた。
 こんなこと言ってるけどね。とルディさんの目は僕に伝えてくれる。
 飼い主と飼い犬だって大家さんは言っているけど、どう見ても二人は夫婦みたいな関係だった。
 それは犬の姿をしている時もそうだ。
 かけがえのないパートナーとして支え合っている。
「おぎやんって照れ屋だよな」
 僕も思っていたことをテンはさらりと言った。
 すると大家さんにぎっと睨まれて首をすくめていた。
「こいつ、どうしても実家で飼ってやりたいか?俺はこいつを譲りたい相手がいるんだが」
「譲りたい相手?」
「ああ。小川のじーさんだ」
 僕は思わず「ああ!」と声を上げてしまった。
 そうだ、小川さんがいた。あの人ならきっとこの子犬も可愛がってくれる。タロウ君をずっと大切に、自分の子どもみたいに育てていた人だから。
「もう生き物は飼いたくないなんて、しょげてやがるが。こいつを飼ったら元気にもなるだろ。このままぽっくり逝かれたら夢見が悪い」
「でも飼いたくないって言ってる人に譲って大丈夫ですか?小川さんならこの子を捨てたりなんかしないと思いますけど」
「んなもん口だけだ。預ければ次の日には溺愛してんだろ。どうしても駄目だって言われたら、そん時は実家の方に頼む」
「うちはいつでも構いませんけど」
 でもタロウ君と遊んでいる小川さんを思い出すと「駄目だ」なんて言うところは想像出来なかった。
「ペットのを失った悲しみを、一番早く癒してくれるのはやっぱりペットなんですよね」
 実体験を話すと、大家さんは「だろうな」と言いながら段ボールを抱え直した。
「まるでこうすると、タロウの代わりを持ってきた。みたいになるけどな。犬にだって個性があるだろ。全く同じ個体なんかない。ここが違う、あれが違う、だからってその違いを厭うかね。普通厭わねぇだろ。そうしてみんな、この世でたった一匹のペットを可愛がっていくんじゃねぇか?」
 雨を傘が軽くノックする音の中、子犬がまた一つ不安そうにくぅんと鳴いた。
 それを聞いて四人ともが、目元を緩めて笑った。
 この子が元気に駆け回る姿が、近い内に必ず見られる。
「おぎやんがそんなこと言うと、重みがあるよなぁ。いつも怠そうだから、真面目になると説得力ある」
「おまえは喋りすぎだから、軽薄そうなんだよ」
「軽薄?そう?亮平、俺って軽薄そーに見える?喋り方はまぁ軽そうかなぁとは思うんだけど」
「軽いね」
「即答されたし!んじゃ今度から寡黙になろっかな。ちょっとしか喋らないで、ずーっと黙っとく。そしたら何言っても重みが出んじゃね?」
「絶対我慢出来ない」
 僕がそう言うと、テンはあっさりと「うん、俺には無理」と納得した。
 そういうところがまず軽いんだってことに、気が付けばいいと思うんだけど。
「よくこんなうっさいペット飼ってられんな。ある意味尊敬に値する」
「おぎやんなんて飼い主の側にいるルディを俺は尊敬するね。亭主関白そのまんまって感じじゃん。みそ汁がぬるかったら、こんなの飲めるか!ってちゃぶ台返してそー」
「うちにちゃぶ台はない」
 大家さんがちゃぶ台の有無を言うと、ルディさんはくすくす笑った。
「久良さんは猫舌だから、熱すぎるほうが困るの。それに亭主関白に見えても実のところは世話焼きなのよ」
 大家さんは無表情でまた段ボールを抱え直した。だけど僕の目からしても、それは事実をバラされて照れてるだけに見えた。
 中からがりがり、と段ボールを掻くような音がして、テンがまた中を覗き込む。
「夏だけど、こいつ一匹だけで寒くなかったのかな」
「どうだろう。子犬って集まって丸くなっていることが多いから、ちょっと寒かったかも。中に新聞紙も入ってないし。それにしても、一匹だけって珍しい気がするなぁ、数匹入ってることが多いから」
 僕が見たことある捨て猫は三匹集まっていたし。他にも一つの箱に数匹入っていたというのを聞く。
   既に飼っていてた子が子どもを生んで、飼えずに捨てる。ってことが多いらしいから。一回の出産で数頭生む犬猫なんかは多頭で捨てられるのかも知れない。
「最初は、他にも兄弟らしきやつがいたらしい」
「マジ?俺が見たときにはもうこいつ一匹しかいなかったけど。その前に誰か見たの?その人が他のヤツは拾ってくれたとか?」
「いや、推測だ。この段ボールがあったところの近くで、子犬が車にはねられたらしい」
「え…?」
 僕とテンの口から同時に、言葉にならない声がもれた。
 頭が理解する前に、大家さんの溜息が大きく聞こえてくる。
「話を聞いただけだが、たぶんこいつと同じくらいの子犬だ。段ボールから出て歩き回っている時に、車と接触したんだろうな」
 その子は、この冷たい雨が降る中、車にはねられて命を落とした。
 暖かな思いを一度でも感じただろうか。幸せを一回でも味わっただろうか。
 今の大家さんに抱えられている子のように、不安で震えながら、親犬を探したあげくに亡くなったとすれば、それはあんまりにも。
(酷すぎるじゃないか…)
 生まれながらの野良犬だって、親の元で育てられてその暖かさを知って育っていく。
 だけど、その子犬は親のぬくもりを覚える前に、離されて、捨てられた。
 人間の手によって。
「親のぬくもりも、人のぬくもりも、愛情を何一つ知らずにその子は死んだんですね…」
「さぁな。こいつらが誰の元で、どうやっていたのかを知らないから何とも言えないな。だが…少なくとも幸せな命の閉じ方ではない」
 大家さんの言葉に、僕は唇を噛んだ。
 同じ人間がやったことだ。
 激怒、そう呼んでいいだろう感情がふつふつと生まれてくる。
 何かを殴りつけたい衝動を抑えるために、ぎゅっと空いた手で拳を握った。
「珍しくないことだ。だがその珍しくないということにすら、俺はどうしようもない憤りを感じるがな。まぁ、こいつは、幸せになるだろうさ」
「幸せにするよ。じーちゃんがしてくれると思うけど、もしそうじゃなかったら俺が幸せにする」
 テンは力強く言った。その言葉は強くて、堅い。
 軽いなんてことを言ったことを僕はすぐに否定することになった
「一度、俺も捨てたようなもんだから。こいつに悲しい思いさしたから。俺が幸せにする」
「だってさ、うちを出ていく覚悟で言ってんだろーな?飯塚はどうするよ、このいたちについてくか?おまえさんなら一緒に住みたいってペットのヤツは他にもいるだろーから、残ってくれてもかまわんぞ」
「亮平は俺と一緒に出てくんだって。だってペットの面倒は飼い主が最後まで面倒みるんだろ?そーゆー約束なんだし、亮平だってこの子犬飼う気でいたじゃん。仲良く二人と一匹で暮らしていこーぜー」
「改めて聞かれると、ちょっと悩むよな。テンだけでも手一杯だからさ」
 僕が唸ると、テンが慌てたようにして「ちょっと待て!」とすがるような目で見てきた。
 だけど心の中では、それもいいかな。と思い始めていた。
 今より騒がしくなって、忙しくなる。でも嬉しいことも増えるんじゃないかな。
 ぴちゃん、と傘の先端から大粒の雫が跳ねて落ちる。
 くぅんと鳴く声がして、僕は目を伏せた。
 この子の兄弟らしき子は、かけがえのないたった一つの命として誰かに抱き締められただろうか。
 一度でも、優しい声を聞いただろうか。撫でられただろうか。
 そうだといい。暖かさを感じたことがあればいい。
 この雨の中でも冷えないだけのぬくもりを、知っているといい。
 そう、祈るような気持ちを抱くと、痛みが心臓を締めた。


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