慈しみ方 5
雲一つない天気だった。 でも夜はずっと雨が降り続けていたおかげか、涼しくて過ごしやすい。 暑さにとても弱いテンも今日はご機嫌だ。 眩しい日光を浴びながら、僕はテンと二人で歩いていた。 休日の昼下がり、普段は静かな住宅地や公園も少しだけ賑やかだった。 子どものはしゃぐ声が聞こえてくる。 「実家ではよくこうして散歩したなぁ」 「犬の散歩?」 「そう。でも夏近くなると日が落ちてからだけどね」 「なんで?」 「アスファルトが焼けてるからだよ。人間でも暑いのに、犬なんて裸足だろ?身体もアスファルトに近いし。だから日が落ちて涼しくなった頃に散歩するんだよ。もしくは朝とかね」 「へー。散歩するのもそうやって考えてやってるんだ。さすが」 「基本だと思うけど。テンは散歩好きじゃないからちょっとつまらない」 「フェレットは散歩する必要ねぇの。部屋ん中だけで十分じゃん。走り回ってるし。フェレットで外出ると色んなもんが溢れすぎてて、どうしていいか分かんねえよ。あれなんだ、これなんだ、それなんだって興味示してる間にパニック起こすって」 フェレットは新しいものを見ると、必ず興味津々で寄って行く。 においを嗅いだら大概は満足してそっぽを向くんだけど、外に出た時はあれもそれも、ってにおいを嗅いでると前になんか進めない。 玄関前で何分も立ち止まらなきゃいけない。 それじゃつまらないからって、僕は引っ張るようにして散歩に出掛けるんだけど、すぐにテンは足下にしがみついてくる。 抱き上げてくれ!ってしつこくねだるんだ。 歩くのが面倒なのかな、って思ったけどそれは違うってことに気が付いたのは、帰宅した時だった。 玄関の鍵をポケットから取り出すために一端テンを下ろすと、すごい勢いでドアにすがった。 入れて!家に帰りたい!と必死になっているようで、僕はその時ようやくテンが散歩が好きではないということを知った。 「人間の時に見慣れてるんじゃないの?」 「フェレットだと全然違ったように感じるんだよ。においとか、音とか、人間の時とじゃ捉え方が違うし。よくわからんものに囲まれて、どんどん慣れた場所から離れていくから勘弁してくれよっと心の中で泣いたって。最近は散歩も諦めてくれたみたいだからほっとしてるよ」 「散歩するフェレットだっているのに、なんでテンは嫌いなんだか」 「俺は散歩好きなフェレットなんか認めないね。あれは絶対諦めと慣れだ。それまでは飼い主に引きずられてたに違いない。可哀想に、俺はフェレットとしての悲しさをしみじみと感じる!」 「テンが言っても全然悲しそうじゃない」 偏見だ!とテンは言うけど、僕の意見に同意してくれる人はいっぱいいると思う。 「あれ、おぎやんとルディじゃん」 前の方で今日は人間の姿をしているルディさんと大家さんが二人で歩いていた。 スーパーの袋らしきものを大家さんが手にぶら下げているので、買い物の帰りかと思ったけど。 マンションとは正反対の方向に向かっている。 「どこ行くんだろ?」 「さあ?買い物したなら普通家帰るよな?」 テンも不思議そうな目で二人を見た。 「おぎやん!ルディ!」 興味を惹かれたのだろう、テンは後ろから大声で名前を呼ぶ。すると大家さんは振り返って思いっきりテンを睨んだ。 おぎやんって呼ぶなって言ってんだろ?そんな目だ。 「どこ行くの?」 立ち止まってくれた二人に、テンが駆け足で寄っていく。 僕はゆっくり後から歩いた。 「小川のじーさんとこだ」 「じーちゃんとこか。俺もついてく。あいつどうしてるか気になるし」 あいつ、とは捨てられていた子犬のことだ。 茶色のふわふわした子犬は、大家さんに拾われた後一日マンションで預けられた。 身体をお湯で拭いたり、ミルクをあげたりして様子を一日看ていたらしい。 多少弱っているみたいだけど、健康に問題はない。そのことは獣医にも確認をしてもらってから、小川さんのところに子犬を連れていった。 最初は大家さんだけで行くみたいだったけど、僕やテン、ルディさんも気になって仕方なかったから、四人で小川さんの家に行った。 平日だったから、僕が出勤する直前の朝早くになったけど、早起きの小川さんにとってみれば迷惑な時間じゃなかったみたいで歓迎してくれた。 だけど子犬を見ると、考え込んでしまった。 タロウがいるから。 そう亡くなった飼い犬を忍んでいたけど、大家さんがこの子犬が捨てられていたことを説明すると悩み始めた。 「もしじーさんが飼えないってなら、俺はこいつを保健所に持っていかなきゃいけない。ルディは嫌がらないだろうが、うちはペットは一匹だけだって条件で成り立っているところだからな。示しがつかねぇよ。悪いが、生活かかってんだ」 小川さんが飼えないなら、僕が実家で貰い受けることになっているのに大家さんはそう言った。 情けに揺さぶりをかけるみたいなやり方はまずいんじゃないかな。と僕は隣で思っていたんだけど、大家さんは言ったことを覆さないし、ルディさんも黙っていた。 「駄目かな」 テンが珍しく静かに尋ねると、小川さんは目を閉じて唸った。 そして、ふっと笑った。 「タロウもな、捨てられた犬だった。元々犬なんか好きじゃなかったけどな、家内が拾ってきて、どうしても駄目かと何度も聞くから折れるみたいに飼った。そん時、タロウもこうして不安そうな顔でこっちを見ていた」 小川さんは手を伸ばして、大家さんに抱かれている子犬の頭を撫でた。 「うちに来るか。いつ死んでもおかしくない老いぼれだけどな」 子犬は潤んだ瞳で、小川さんを見上げていた。 あれから六日ほど経ったんだけど。 「元気にしてる。昨日も散歩がてらに見に行ったが、あの子犬跳ね回って遊んでた。じーさんも相手すんのが大変そーだったな」 「でも小川さん生き生きして、楽しそうでしたよ。子犬から元気もらってるんでしょうね、きっと」 ふわりとルディさんが微笑む。 「それで、俺はこれを頼まれた。どうもじーさんは子犬を一人にするのが嫌でなるべく買い物には出たくないそうだ。買いだめしてるようだが、これを買い忘れたらしくてな」 大家さんは下げていた袋を軽く振った。 「何ですか?それ」 膨らみからして大きくないものらしいけど、中身は透けて見えない。 僕は気になって尋ねた。 「首輪とリードだ」 「気が早くないですか?まだワクチン全然済んでないのに」 犬は狂犬病の予防接種や数回のワクチン接種をする。少なくとも子犬は生後三ヶ月まではワクチンの接種が終わっておらず、散歩には出ないのが妥当だ。 「気持ちの問題だろ。早くルディと一緒に散歩してやりたいって言ってるぞ。それに散歩に行く前から首輪にはならしておいたほうがいい」 「それはそうですけど、それにしても早いですね」 よほど子犬が来たことが嬉しいんだろう。 子犬を連れていった時に、躊躇ったのはタロウ君が亡くなってすぐだったことと、それだけ可愛かったってことなんだろうな。 「詳しいなぁ、亮平」 テンが関心したような言う。 「子犬なら、二匹くらい世話してたから」 「亮平は子煩悩なパパになりそうだよな。育児のこととか調べまくって。おかんより詳しくなってそう」 「飯塚がパパになるってことは、おまえは居場所なくなるな」 大家さんの一言に、テンが凍り付いた。 「俺が亮平のペットであり、子どもだから!それで子煩悩を満たしてくれ!いいじゃん子どもなんかいなくても、それでも幸せな夫婦はいっぱいいるって!」 「おまえは妻じゃないけどな」 「おぎやんいらんことばっか言うなよ!どうせおぎやんトコはルディが子ども産んでくれるもんな!でも俺んトコは亮平が孕んでくんねぇよ!」 「公道で何言ってんだ!」 僕はとんでもないことを言ったテンの頭を慌ててはたく。背が高いので思いっきり手を振り下ろせない。きっとそんなに痛くないだろう。悔しい。 「馬鹿なこと言うな!孕む孕まない以前の問題だろ!?妙なこと言い出すなよ!」 テンはあっさり、身体の関係があります。みたいなことを言ったけど、そんなの大家さんやルディさんは知るはずがない。 そして僕も知られたくない。だからなんとかテンのギャグにしてしまおうって思ったんだけど。 「男相手にいくらヤっても孕むわけねぇだろ」 大家さんは平然とそんな台詞を口にした。 僕の背中に嫌な汗が流れる。 まるで、僕たちが何をしたのか知っているみたいな口調だ。 (なんで…テンがバラしたとか?だって最近は一切そんなことさせてないし) ちらりとテンを見ると、意外そうな顔をしていた。 「なんで知ってんの?」 「あ、あほかぁ!!」 僕はまたテンの頭を反射的に叩いた。どうしてそう肯定するんだよ! 「家と仕事場往復してるヤツにキスマーク付いてたら分かるだろ。だいぶ前のことだけどな。珍しくない現象だから、気にしなかったが」 「珍しくない……」 「ああ。あそこじゃ日常だな。かなりの確立でそうなる」 (かなりの確立って…) ということは、大家さんは最初から、僕とテンがこうなるかも知れない。と分かった上で入居させたのか? てか、珍しくないって。お隣の人は?他の住人はどうなんだ? 「みんな仲良しだから。一線越えるのも不自然じゃないよ」 にっこりとルディさんは言うけど、そうなんですかー、と笑顔で返事出来るような内容じゃない。 「ここ…同性のほうが多いんじゃ…?」 「あ、子犬の鳴き声がする!マジ元気そーじゃん」 衝撃に呆然とする僕の隣で、テンが脳天気な声を上げた。 きゃんきゃん、と子犬特有の高い鳴き声が小さく聞こえていた。 小川と書かれた表札がかかっている家はこぢんまりとした一軒家だった。 垣根もちゃんとあって、一昔前の家の空気が流れていた。 大家さんがインターホンを鳴らすと、小川さんが子犬を抱いて出てくる。 「お、どうしたみなさんおそろいで」 短く刈った白髪に、まだしっかりのびた背筋。表情はタロウ君を亡くした頃とは比べものにならないくらい溌剌としていた。 十才くらい若返ったみたいだ。 そんな小川さんの腕の中で、茶色の子犬が丸い目で僕たちを眺めた。 不安そうな眼差ししか見ていなかった僕は、その瞳にほっとした。 まだ慣れない環境に落ち着いていないかも知れないけど、子犬は小川さんという飼い主と出会って安心し始めているのは確かだった。 人を見ても怯えはない。 「じーちゃん、こいつ元気そーじゃん。なんかデカくなってね?子犬ってすぐデカくなるんだなぁ」 「元気にはじゃぎまわって、追いかけるのも一苦労だ。すくすく育ってデカくなるさ。だからってタロウと会った時みたいに、酒飲んで絡むなよ」 「もー、絡まないって。絡むならじーちゃんに絡むよ」 「迷惑な小僧だな」 そう言いながらも、小川さんは嬉しそうだ。 「これ頼まれもん。早すぎるんじゃねぇかって飯塚も言ってるぞ」 大家さんが袋を見せると「ありがとさん」と小川さんが言う。 「そりゃそうだけどな飯塚さん。こういうのは手元に置いて、楽しみにしとくのが老人の生き甲斐ってもんだ」 にこにこ。元々優しそうなおじいさんなんだけど、それがさらに明るくて穏やかになっている。 「それはそうと、名前は何にしたんですか?」 前がタロウだから、今度はジロウかな。と僕は予想していた。 テンは太郎左右衛門だから、次郎介とかじゃない?って言っていたけど。 「茶々だよ」 あれ。と僕は拍子抜けして間抜けな声を上げてしまった。 前がタロウで、今度は茶々。確かに茶色の犬だし、和風なんだけど。 「茶々?なんか格式あるーって感じの名前じゃん。次郎介とかじゃねぇの?」 テンが僕も思っていたことを言った。 するとルディさんがくすくす笑う。 「この子は女の子なのよ」 あー、と僕とテンは納得した。確かに女の子でジロウはないよなぁ。 「でも茶飲んで育ちそうな名前だよなぁ。犬って茶飲むの?いっそ抹茶飲まして育てたら緑色の犬になったりして。でもそうするとカビ生えたみたいだよな」 「人の犬にとんでもないことぬかすな」 こつん、と小川さんはテンの頭をこづいた。 腕に抱かれた子犬、茶々は興味深そうにテンのにおいをくんくんと嗅いだ。人間でもない、犬でもないもののにおいがするのかもしれない。 「だっこしてやろっか?」 テンが両手を出すと、子犬はじっと見上げていた。そのままでいると、小川さんが茶々をテンの胸にそっと渡した。 「こいつを見つけてくれたのは、あんただろう?」 テンが慣れない手つきで茶々を抱くと、小川さんは目を細めた。 「ありがとう」 戸惑いながら、テンは首を振った。 「俺、一回こいつ見捨てたんだ。雨の中で、段ボールに入ってるこいつ見つけたのに」 「聞いたよ。だが、それからあんたはまた迎えに行っただろう?」 「亮平が、いいって言ってくれたから。亮平が連れてってくれたんだよ。それにおぎやんがその前に拾ってくれてた」 「傘をかけて、一番最初に優しくしてくれたのはあんただよ。それに、荻谷さんがもしこの子を見つけてくれなかったら、拾ったさ」 そういうやつだろう?そう言うように小川さんはテンを見た。 僕もそう思う。きっと僕っていう飼い主がいなかったら、テンは迷わず子犬を拾っただろう。僕がいたから、迷っただけで。 テンが僕のペットだっていう特殊な事情を知らない小川さんは、断言するみたいに堂々としていた。 「僕がいなくても、拾ってましたよ」 テンは情けない顔で、僕を見た。腕の中にいるあったかくて小さな子犬を大切そうに包みながら。 「軽薄そうに見えても、優しいやつですから」 あの時、僕がいなかったら。そう考えても、結果は同じだったと思う。 困り果てて、迷って、途方に暮れながらも、テンは子犬を迎えに行ったんじゃないかな。 自分の同じだっていうペットが、捨てられていることを見過ごせるようなやつじゃないから。 「亮平。なんかすげー誉めてる。珍しい」 いつも叱ってばっかなのに、とテンがまだ情けない顔をしたままで言う。黙ってれば格好いいのに、そうしていると本当に子どもみたいだ。 「あ、こら」 子犬がテンのところにいるのに飽きたのか、暴れ始めた。 思わず手を伸ばすと、すんなり僕のところに来てくれる。 柔らかくて、ふわふわした毛並み。子犬独特の感触に僕は嬉しくなって笑いそうになる。 「可愛いなぁ。子犬の時期ってすぐ終わるから、なかなかこの可愛さに浸ることってないんだよな」 目が大きくて、潤んでいる。くぅんって鳴くのがなんか胸に響いては可愛がりたい!って気持ちを掻き立てる。 「…俺、やっぱり他のペットと同居なんか出来ない」 「だろうな」 テンが呟くと、大家さんが当然だと返した。 「なんで?」 「飯塚さんが可愛いからでしょうね」 ルディさんがにっこり言う。 可愛い。それを僕に向けられるのは心外だ。 「この子は可愛い。すっごく可愛い。僕じゃない」 テンに主張すると「わかってないなぁ」と呆れるように言われた。 なんでテンに呆れられなきゃいけないんだ。 「可愛いじゃないか。大の大人が子犬でそんなに幸せそうにしてるなんて」 小川さんは、いいことだ。とほのぼのする。 そんなに幸せそうかな。確かに可愛いから幸せなんだけど。 もぞもぞと子犬が動いたから、僕は「ん?」と声をかけた。するとふんふんとにおいを嗅いでは手の甲を舐めてくれる。 撫で回したい衝動を抑えていると、背後から溜息が聞こえてきた。 「ペットは一人一匹厳守。だから可愛がるのも一匹厳守。って契約作ろうぜ、おぎやん」 「無茶言うな」 大家さんがさっくり斬り捨てると、テンは舌打ちして髪を掻き乱した。 悔しそうな顔に、笑いを噛み殺すと茶々が不思議そうな顔で僕を見上げていた。 |