慈しみ方 3
「…なんで…?」 子犬は飼えない。 そう告げたテンが、僕より辛そうに見えた。 いつもならぺらぺらいつまでも喋っているのに、今はすぐに口を閉ざしていることからもそれは感じられた。 言葉が出てこないくらいのショックを受けているんじゃないだろうか。 「どういうこと?」 僕は腰を上げて、しゃがんだような格好のまま固まった。 「ここ、ペット厳禁」 「はぁ!?だってここペットのための部屋なんだろ!?」 入居する際に、大家さんはそう言っていた。 ペットのための部屋だ。入居する人間もペットが決めるくらいに。 そして出ていくならペットじゃなくて人間側だということも。 それくらい重視されているのに、どうしてペット厳禁だなんて。 「だからだよ。俺たちがペットだから、他のペットは厳禁なんだ」 「テンが、ペットだから?」 「もめるからだよ。他のペットと違って、俺たちは人間だ。だけどペットでもある。他のペットみたいに、別のやつを連れてきても大人しく受け入れられない。分かりやすく言うと、恋人が恋人連れてきたようなもんかな…」 「でも、相手は子犬だろ!?」 「そうだよ!でも俺たちにとっては、俺にとっては自分と同じペットだ!」 俯いたまま、テンは叫ぶように言った。 「…受け入れ、られないの…?」 「出来ない」 「でも、その子犬。このままじゃゴミと一緒にされるよ…」 即答され、僕は呟いた。 我が儘だと一蹴すればいい。我慢しろと言えばいい。 だけど僕はそうしなかった。 腕を掴んでいるテンの手は、痛いと、苦しいと訴えていたから。 指先で、僕の体温をぎゅっと握りしめながら。 「それは、テンが一番辛いんじゃないのか…?」 肯定するかのように、テンはぎゅっと更に強く僕の腕を掴んだ。 少し痛いけど、僕はテンを見ている目や、心臓のほうがずっと痛む。 「どうして……かな」 テンは呆然というような声を零した。 「どうして、捨てられるんだろう。俺たち」 「…それは…僕には分からない…」 「捨てられるために生まれてくるわけじゃない。殺されるために生まれてくるわけじゃない。俺たちは、ペットは愛されるために生まれてくるんだよ」 愛されるためだけに。 ペットはそのために人によって交配を支配され、生まれてくる。より可愛い、より格好よく、より賢く、より美しいものを生み出すために繁殖を操作させられる。 そうして長い間人間の元で、人間の側で、人間のために生まれてきたペット。 それなのに、人間はいとも容易くペットを捨てる。 「俺たちは愛される術を知っている。愛してくれる人が分かる。どんな人が自分を大切にしてくれて、誰が愛してくれるか、ずっと側にいてくれるか。俺たちは本能で知ってるよ」 ペットだから。 テンはぽつりぽつりと語る。 感情を抑えるみたいに、時々深く息をしながら。 「だから、俺みたいなヤツは飼い主を選べるんだ。分かるから、誰だったら俺が人間になれるって分かっても、ちゃんと愛してくれるか。こうして一緒にいてくれるか」 確かに僕はテンに選ばれて、テンが人間になれるって分かっても一緒に暮らしている。 叱りながら、呆れながら、それでもテンっていう存在はもう僕にとっては大切なものになっている。 「みんなそうならいいのに。ペットが人間を選べばいいのに、そうすれば捨てられるヤツなんかいなくなる。みんな幸せになれる。捨てられない、殺されない、処分されない。そのほうがずっと…ずっといいのに」 なんで。 テンはペットとして、そう問い掛けた。 僕が人間の立場から言ったものとは違い、それはあまりにも切実な声だった。 ペットの声が聞きたい。 そう願ったことは数え切れないくらいある。実家にいたときから「こいつら何考えてんだろ」と思っていた。 だけど、実際ペットの声が聞けたなら、彼らからはこんな声を聞いたかも知れない。 身勝手すぎる。と。 私たちは生きているのに、と。 「…それならなおさら迎えに、行きたいよ」 捨てられた子犬は、きっと自分を抱き上げてくれる人を待っているから。 声が聞けたなら、おなかが空いた、寂しい、怖い、そんなことを泣きながら言っているだろうから。 「出来ない……」 テンの声は一層苦しげになった。 「駄目、なんだ…。俺も連れて来ようって思った。子犬の前で立ち止まって、亮平なら喜んで迎えてくれる、大切に飼ってくれる。分かってた。だけど駄目だった」 テンは顔が床に触れるんじゃないかってくらい、深く頭を落とした。 「どうしても、動けなかった。子犬を連れて帰れば亮平を奪われる気がして。独占されるんじゃないかって。俺は、亮平にとって都合のいいペットじゃない。人間になるし、そしたらウザイくらい構って欲しがる。子犬のほうが、俺よりずっと可愛い。そう思うと手が伸ばせなかった。あいつ助けてって言うみたいに鳴いてたのに、俺…」 子どもみたいだ。僕はそう思ったけど、でもそれはテンの本音なんだろう。 これが誤魔化せない、冷静になれない思いなんだ。 僕は力を抜いて、座り込んだ。 怒ろうか、もう大人なんだからって。 それとも人間なんだからそれくらい我慢出来るだろ、か。 同じペットなのに、子犬を守るくらいの余裕はないのか、か。 結局、自分が大切なのか、か。 だけど、どの言葉も僕の頭をするりと抜けては消えていった。 言おうとする言葉が見つからず黙っていると、テンの手が僕の腕から脱力するように落ちた。 「傘をかけて…俺もあいつを捨てたんだ。自分が可愛いから、亮平をたった一人で独占したいから。そんなの酷いって、最低って分かってるのに、今も動けないんだよ…。亮平を行かせたくない。俺……おかしいよな…」 素直過ぎる子なんだ…。 テンは素直過ぎる。こうして僕を子犬のところに行かせたくないなら、初めから黙っていればいいのに。子犬が捨てられていたことなんて、知らない顔をすればいいのに。 見てしまって、なのに拾ってくることが出来なくて。テンは痛みに黙っていられなかったんだろう。 そしてまた、自分の気持ちをそのまま口にしている。 はっきり言えば、僕はこんなこと言われたらどうしていいか分からない。知らないほうが良かった、そんなこともちらっと思った。 だけど、テンが子犬が捨てられていても平気でいられるような人間じゃなくてほっとしているところもある。 子犬だって、ペットだって、痛いんだって、ちゃんと知っている人で良かった。 それはテンがペットだからかも知れないけど。 きっと頭の中がぐちゃぐちゃになって、どうしていいのか分からなくなっているだろうテンの髪を一房摘んだ。 そして、気を引くみたいに、つんって引っ張る。 「僕は、ペットが都合のいい存在だとは思わない」 顔を上げてくれないテンに、僕は語りかけた。 「朝すごく眠くても、暴れて僕のこと起こすし。御飯くれーって騒ぐし、構ってくれ、遊んでくれって、こっちが忙しくてもお構いなしでじゃれついてくる。元気がなかったら、すごく心配で気になって仕方ないし。人間と同じで病気にだってなる」 ペットは生き物だから、自分たちの心があって、思いを持っている。 人間に合わせてくれるけど、でもやっぱり悲しいことは悲しい、辛いことは辛い。 自己主張だってするし、欲しいものはねだる。嫌なことは抵抗する。当たり前だ。 だけどそれは人間にとって都合の悪い場合だってある。時と場合なんて、弁えてくれる子は滅多にいない。 飼い主を困らせて、怒らせて、呆れさせる。それもペットだ。 「それでも、僕はペットが大切だし。生きていく上でもう欠かせない存在なんだよ」 テンは、僕が何を言おうとしているのかまだ分からないみたいだった。 肩を落としたまま、小さくなるみたいに床に着いていた手を自分の側へと引いた。 丸まろうとしているみたいで、僕はもう一度髪を一房引っ張る。 何が怖いんだよ。そう言う代わりに。 「だから、都合が悪いからって君を捨てたりしないし。子犬のほうだけ可愛がったりしない。君が一番だよ。飼い方の基本だろ?先住の子を優先してあげるのは」 大の男の向かって、君が一番、なんてことを言うとは思ってなかったけど。 すんなり出てきて抵抗感はなかった。 犬でも猫でも、どんなペットでも。多頭飼いをするなら、先に住んでいた子を何事も優先させてあげるのが大切だ。 後から来た子ばかり可愛がると、先に飼っていた子がヤキモチを妬いたり、寂しがったりして身体を壊してしまう。 (なんか、ホントにペットみたいだ) テンが自分でペットだって言っていたけど、人間の姿をしているとその実感は感じなかったけど。 こうすると、本当にテンはペットなんだなぁという気持ちになる。 飼われている生き物とか、支配される生き物って意味じゃなくて。 愛されるために生まれてきた生き物なんだって、感じた。 「…俺、フェレットだけど、でも人間でもあるんだけど。それでも、同じこと言える?」 「そんなこととっくに分かった上で、僕は言ってるんだよ。子犬は可愛いだろうし、構いたくなるだろうけどね。でも……色んな意味でテンは特別なんだよ、僕の中では」 不安そうな声に、僕はそう応えた。 「初めて、自分だけで飼った子だし。実家にいるときは家族みんなで飼ってたから。世話も分担してた。一人で世話するとわりと大変だって分かったし。人間にはなるし、僕のこと押し倒すし。毎日振り回してくれるし」 僕は摘んでいた一房を離し、テンの頭をくしゃっと混ぜた。 「時々殴ってやろうかって思うんだけど。それでもなんか…許せるんだよ。人間の姿しててもさ、むかつくことぺらぺら喋ってても」 怒っているときも、きょとんとしてるテンを見てると「こんなことで怒るのはちょっと大人げないか」って思う。テンがすごく落ち込んでるのを見ると「まぁ、反省したみたいだし」って許してる。 たった四つしか違わないのに、親みたいな感情だ。 だけど、それが心地よかったりする。 人間相手にそんなこと思うのは、初めてだった。 「フェレットから入ったせいなんだろうけど。でも子犬より手間掛かって、厄介なのは絶対だよな。それでもテンが一番だって保証するよ。飼い主馬鹿なのは、テンも知ってるだろ?」 「…うん。亮平は相当な飼い主馬鹿だよ。こんなフェレット大事に飼ってんだから」 少しだけ、ほんの少しだけテンの声が暗さを和らげた。それが嬉しくて、僕はテンの頭をくしゃしくゃって撫でる。 「こんなフェレットだから、かもな。だってただのフェレットだったら、何度も好きだって言わないし」 「でも見てたら分かるだろ?」 「分かるけど。言葉として入ってくると、特別にもなるよ。否応なしに」 「だったら、毎日言おう。亮平が俺なしじゃ生きていけなくなるまで」 「それはウザイと思うけど」 「酷っ」 いつもに比べると弱い笑い声が、聞こえた。だけど僕はそれだけでほっとして全身から自然と力が抜けた。 怯えてるようなテンを見てるのは、精神的にもすごく重かったから。 「テンは、僕がテンを捨てるんじゃないかってことが怖いの?まだ、僕がテンのこと嫌いになるなんてこと思ってんの?」 一ヶ月前に、人間になれるフェレットだから嫌いになられるんじゃないかって、テンはかフェレットのまま僕と生活したことがあった。 たった四日間くらいだったけど。 あの時、僕に嫌われることを怖がってた。 「捨てられるのは、怖いよ。前も怖かったけどさ、今はもっと怖い。だって亮平に嫌われても、今は出て行こうなんて勇気ねぇもん。亮平なしで生きれるなんて、もう思えない」 テンは顔を上げた。目は伏せたままだったけど、その表情は真剣だった。泣きそうに歪められていたんだろうなって思われる、微かな名残も消してしまいそうなほど、意志が強く現れている。 「…なら、僕もちゃんとここにいるよ。ペットにそれだけ思われてるのに、捨てられないよ」 ペット、なんてことを言ったけど、人間相手でも僕は捨てるなんてこと出来なかっただろう。 その重さを感じて、平気ではいられないから。同じだけのものを返そうとまでは思わないけど、でも軽く流してしまったり、無視することは出来ない。 きっと、そういう性分なんだ。 男相手っていうのが、複雑なんだけど。 「テンが、一番だって」 今度は冗談めかすみたいに言った。真面目に何度も言える台詞じゃない。 「うん」 テンは頷いて、それから少し切なそうに笑った。 大人びた表情で、僕は少しだけ驚いた。子どもみたいに素直に本音を伝え続けていたのに。 「信じる。俺が一番だって。んでもって、たった一人の存在になってみせる。亮平にとって、一番で、一人だけの、特別な存在になる」 「一人だけの存在?」 何のことだろう。僕はよく分からないんだけど、テンは微笑んで頷くだけだ。 その微笑み方も、まだ沈んでいるようだった。 らしくないテンに僕はまだどうしていいか分からずにいると、窓の向こうから激しい雨音が始まった。 急に大降りになったらしい。 「……行こう」 叩きつけるみたいな雨音に、僕は立ち上がった。 この雨は、子犬の頭上にも降り注がれている。不安で、寂しくて、震えているだろう子犬の上にも。 いても立ってもいられなかった。 「その子犬は、大切な命だ。ゴミじゃない。だから迎えに行こう」 手を差し出すと、テンは握り返してくれた。 くいっと立ち上がらせると、テンは僕を抱き込んだ。 小さく項垂れていたテンは僕の耳元でほっとしたように大きく息を吐いた。 「ありがとう。亮平と会えて良かった。亮平が飼い主で良かった」 良かった。 心底ほっとして、嬉しいんだろう。そう分かる声が僕には切なかった。 ペットみんなが、この言葉を口にすることが出来ればいいのに。 next |