慈しみ方 2
休日は朝から曇っていて、天気予報では雨が降ると言っていた。 僕は午前中に買い物を済ませて、家でだらだらしていた。 掃除、洗濯もちゃんとしたから、これでやることはない。とばかりにテレビを見ていたらぽつりぽつりと雨が窓を叩き始めた。 「梅雨だなぁ」 ここにも梅雨前線が南下した。なんてさっきテレビから流れてきたことを思い出した。 微かな雨音の中に、チャリッと金属がぶつかる音が聞こえた。 そして鍵が回される。 テンが帰ってきたみたいだ。 玄関からリビングまでは廊下で繋がっている。 リビングのドアが開いていると、僕の位置から玄関が開けられるのが見えた。 ゆっくり部屋に入ってきた長身の男は、俯いていた。 肩を落として、長身が少し小さめに感じられた。 キャラメル色の髪はしっとりと濡れていて、服も肩から水気を帯びている。 「傘は?」 靴を脱いでいるテンは、出ていく時には傘を持っていたはずだ。 今日は午後から雨が降るよ、って僕が言ったら「んじゃ持ってく」って返事をしてしっかり傘を手にしていた。 いつもは見送られる側の僕が、見送るのが嬉しいのか。テンはにこにこしながらバイトに行ったのに。 帰ってきたテンは、項垂れて無言だ。 「テン?」 テンションが高く、落ち込むという姿を滅多に見たことがないテンが、重々しく溜息をついた。 そして、黙ったままリビングまで入ってきた。 見上げると眉を寄せて、なんだか怒っているのか、悲しいのか分からない顔をしている。 とにかく辛そうな表情に、僕は腰を浮かした。 「どうしたの」 何かあったの?そう聞く前に、テンが膝を折った。 力を失って、崩れるみたいに。 ただならぬ空気を感じて、僕はテンに膝立ちで近寄った。 「子犬が」 テンはぽつり、と零した。 「子犬?」 「捨てられてた」 ぎゅっと心臓が掴まれる。容赦なく。 珍しくないこと。そう言われても、僕の心はそれに痛みを覚える。 慣れることはなかったし、慣れようとも思わなかった。 「どこに」 自然と僕の声は強張った。喉の奥が焼けるような気持ちだった。 誰が、どうして。そんな問い掛けをするのは、もう止めてしまった。 子どもの頃は、探して怒ってやる、そう言っていた。でもそんな僕に親は首を振った。 たとえ会っても、ろくな言葉は聞けない。むしろ会わないほうがいいかも知れない。そう言って。 あの頃はまだその意味が分からなくて、僕は「どうして!?」と親にも怒りを覚えていた。今も、親が首を振った理由をはっきりとは分からない。 ただ、捨てた人間を責めるより、捨てられたペットを飼ってくれる人を捜すことが、先決だし。そのペットを可愛がることが何より大切なのだ。 捨てた人間のことは、やっぱりすごく腹が立つし、殴ってやりたいけど。そんなものに構ってられないって冷静になるように勤めた。 大人になったってことだろうか。 僕が込み上げてくる怒りを押し殺していると、テンが僕の腕を掴んだ。 すがるようなその手に、怒りが沈んだ。代わりに不安のようなものが押し寄せた。 予感、だった。 テンが深く傷付けたられただろう、ということと、それはきっと僕も傷付けるだろうということ。 テンが呼吸をする僅かな音が、僕には大きく聞こえた。雨音よりも小さいはずなのに。 「…ゴミ捨て場」 ナイフを背中から突き立てられた。 そんな錯覚を起こすくらいの衝撃だった。 「……ゴミ、捨て場?」 それが何なのか、とっさには分からなかった。 とても身近な単語なのに、子犬と結びつかなくて頭が真っ白になる。 だけど、テンがこくんと頷いて、顔を下に向けると一気にイメージが押し寄せた。 段ボール箱に入れられた、小さくてふわふわした子犬を。大きな二つの濡れた瞳が見上げてくる姿が鮮烈なまでに想像されては、唇が震えた。 全身が焼けるように熱い。 「子犬は…ペットはゴミじゃない!!」 怒りが先走っては声が裏返りそうになった。 だが感情は高ぶる一方で、僕は拳でフローリングを叩いた。 バンっと激しい音が響く。 「命だろう!?」 内蔵が焦げ付くほどの怒気というのを、今初めて味わっていた。 怒鳴りたいのに、言葉が出てこない。 どうしていいのか、この思いをどう表現すればいいのか。 混乱しながらも、じっとしていられなくて何度もフローリングを叩いた。 痛みはない。手よりも違うところが痛かった。 「なんで!?…なんで…」 無駄だと、昔止めたはずの問い掛けが口から溢れた。 どうして。 分からなかった。 どうやったら、そんなことが出来るのか。 ゴミ捨て場なんてところに、小さな命を、子犬を捨てられるのか。 僕は今まで捨て犬に会ったことはない。実家で飼っていた子はみんな貰った子だ。だけど捨て猫だけは一回だけあった。 段ボールに入って、公園に置かれていた。 そこは人通りも多くて、野良猫の世話をしているおばさんがいるって有名なところだった。 屋根のあるベンチの下で、三匹丸まってにゃーにゃー鳴いていた。 子どもたちが集まって、親に飼ってもいいかみんな頼んだ。「絶対駄目」って言われて泣いた子どもが大半だったけど、いいよって言ってくれた親もいて、子猫たちはみんな貰われていった。 そのうちの一匹は僕の実家で元気にしてる。 (そんな…そんな可能性もないじゃないか…) 誰かが見つけて拾ってくれるかも知れない。そんな可能性を一切信じず、少しでも長く生き延びられるような工夫を何一つせず、誰がはその子犬を捨てたのだ。 明日になれば、ゴミ収集車がゴミと一緒に子犬を処分してしまうことを理解しながら。 「…子犬はゴミか」 子犬の捨てた人間が目の前にいたら、僕はそう聞くだろう。 おまえの中にあるその命と、何ら変わらない重さを持つ命がゴミか?と。 「人間と何が違う?見た目が違うから?犬だから?だからゴミと一緒にしてもいいのか?命に変わりはないだろう!?」 言うべき相手がここにはいない。だが僕は黙ってはいられなかった。 迫り上がってくる怒りや悲しみ、痛みにじっと耐えられなくて。悲鳴のように怒鳴った。 「母親の腹の中でずっと育まれて、ようやく生まれてきたたった一つの命だ!かけがえのないたった一つの!それを何だと思って、あんなところに」 置き去りに出来るんだろう。 僕は分からなくて、そんな人間の気持ちを考えられなくて、また床を叩いた。 するとテンが、僕の腕を掴んでいた手を離した。 「価値観の違いだよ…」 弱々しい、小声だった。 だけど、それは僕を貫く。 「亮平みたいに、ペットを家族みたいなものだって思う人もいるけど。ゴミだって思う人だって…この世の中にはいるんだよ…」 「…そんなの…分からない」 「うん。俺にも分からない。だけどいるんだよ…ニュースでもやってるじゃん。モデルガンで野良猫撃ち殺すヤツとか、犬の生首を晒すヤツ、耳を切るヤツ、目を抉るヤツ。あいつらにとって犬や猫、ペットなんかゴミみたいなもんなんだよ」 乾いた声だった。テンは深く俯いたままで、僕は頭しか見えない。だけどテンは、泣きそうな顔をしている気がした。 痛くて痛くて仕方ないって顔をしている気がした。 それはテンの身にも降り注がれることだから。 僕は情けないことだけど涙が滲んできた。 同じ人間なのに、全然分からない。 抱き上げた時のあったかい身体や、見つめ返してくれる丸い瞳にどれだけ癒されたか。どれだけ支えられたか。 ふさふさした毛並みを撫でると柔らかくて、胸のあたりに触れるととくんとくんって鼓動が伝わってくる。やるせないことや、悩んでいることにぶつかって、泣きたいのを我慢してる時にその振動は僕をふわっと包んでくれた。 我慢していた気持ちを溶かして、ぼろぼろ泣かせてくれた。 家族だった。友達だった。かけがえのない存在だった。 増えれば喜んで、いなくなれば泣いて落ち込んだ。 側にいてくれるだけで、救われていた。 そんな、命たちが、ゴミだなんて。 (…あぁ…そっか…) ようやく、あの時親に言われたことが分かった。 ペットを捨てた人に会っても、ろくなことが聞けないという理由が。 テンの言うとおり、価値観が違いすぎるからだ。 その人たちにはこの気持ちが分からないから、だ。 僕がその人たちの気持ちが分からないように、相手にも僕の気持ちは分からないだろう。 だから話をしたとしても、僕は更に痛くなるだけだ。 ゴミでしょう?そう実際に耳にすれば、僕はその人を人間だと二度と思えなくなる。 きっと、そうして生きている人に対して絶望していくから。 みんなこう思っているんじゃないかって、辛くなるから。 だからあの時親は止めたんだろう。 「殺されるために生まれてくるわけじゃない、弄ばれるために生きてくるわけじゃない…必死に頑張って生きてる、命だよ…」 「うん」 大抵のことには泣かない。僕もいい年した大人だから。でもペットのことになると弱くなる涙腺をぐっと我慢して言うと、テンは少しだけ顔を上げた。 端正な顔立ちは苦しそうだった。何かに縛られているみたいに。目は伏せたままで、僕と視線は合わせない。 「ペットだって人間と変わらない。大切な、命だよ」 「…うん」 目の前にある頭を、僕はそっと撫でた。キャラメル色の髪はさらさらしている。 フェレットの時はよく撫でるけど、人間の時に撫でたのはこれが初めてかも知れない。 少しだけ、テンの表情が和らいで僕はほっとした。 怒りはまだ腹の辺りでぐるぐるしているけど、テンが痛がっていることのほうが重要だった。 「どこのゴミ捨て場?迎えに行こう。雨降ってるから早く」 僕は腰を上げてテンを促した。 このままじっとしている間にも、子犬は辛い思いをしている。冬じゃないから寒さに凍えることはないだろうけど、でも雨に濡れているだろう。 体温が奪われれば、夏でも危ない。 テンも、子犬を迎えれば安心するだろう。 (そういえば、どうして連れて帰って来なかったんだろう) 僕なら、間違いなく段ボールごと抱えて帰ってきてる。 何か問題があるのかな。 そんな疑問がふとよぎったとき、テンが僕の腕をまた掴んだ。 今度はぎゅっと、繋ぎ止めるみたいに。 「テン?」 「駄目、なんだ」 「え?」 「子犬は飼えないよ」 だから、連れてこなかった。 絞り出すような声で、テンは言う。 少しだけ上がった顔は、また深く俯いた。 項垂れているのに、テンは強い力で僕の腕を握り続ける。そのことが、僕には激痛を抑えているように思えた。 next |