慈しみ方 1



 眩しい朝日を浴びながら、マンションの出口へと向かう。
 今日もお仕事へ行きましょう。というところだ。
 夏間近で、空気はそろそろ暑くなってくる頃だ。
 これから電車に揺られるかと思うと、足取りが重くなる。
 通勤さえなかったらも、仕事に行く足はもっと軽いのに。
 きっと多くの会社勤めが思っていることを、僕もしみじみ思っていると、入り口に一人の男の人が立っていた。
 背が高く、がっしりした体格の三十代後半くらいの男。
 このマンションの大家さんだ。
 目つきはあまりよくない。口も悪かったりするから、初対面だと大概の人は「怖い」って印象を受けるだろう。
 僕も最初はそうだった。
 でもその人の隣にちょこんといるゴールデンレトリバーと一緒にいるときは、ほんの少しだけど優しく笑っている。
 それが分かった時、僕はこの人に対して「怖い」って思うことはなくなった。
 なんだか、同じタイプの人間なんだなぁって勝手に親近感が沸いたからだ。
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
「お散歩ですか?ルディさん好きなんですね」
 ルディさん、とはゴールデンレトリバーの名前だ。
 って言っても、この犬も人間になれる。
 二十過ぎくらいの、優しそうな女の人だ。ふわふわした髪がゴールデンレトリバーの時と似ている。
 僕が話しかけると、尻尾を振ってくれた。
(かっわいいなぁ)
 僕は生まれてから一人暮らしをするまで、犬と猫のいる生活を二十二年続けてきた。だからついつい犬や猫を見ると話しかけたくなるし、撫でたくなる。
 でもルディさんは元々は人間だし、頭を撫でると大家さんが怒りそうなので我慢する。
「あれ、今日は小川さんは?」
 いつもなら大家さんと一緒に犬の散歩をしているおじいさんの姿がない。
 小川さんはもう八十を過ぎてるけど、元気にタロウ君の散歩をしている。
 マンションの入り口に来ては大家さん、ルディさんを待っているのをよく見かけていた。
 朝の挨拶をすると、にっこり笑って返してくれる。タロウ君も小川さんに似て人懐っこい大人しい子だ。
「来ねぇよ。タロウが亡くなったからな」
「亡くなった!?いつですか?」
「三日前。老衰でぽっくり逝ったらしい」
 ああ…。と僕は溜息みたいな声を零した。
 タロウ君は見たからにもうおじいちゃんで、茶色の毛並みはなんとなく白くなっていたし、歩き方もゆっくりだった。肉付きも薄くなっていて、大型犬なのに小柄に見えるほどだった。
「十六歳だったからな。じーさんも覚悟はしていただろうがこんなにあっさり逝くと思わなかったんだろ。随分しょげてな」
「大切にしてましたから、辛いんでしょうね」
 おじいさんはタロウを「孫のようだ」と言って、本当に可愛がっていた。
 何処に行くにも連れていって、ずっと一緒だって雰囲気がそう親しくない僕にも伝わってきてた。
 タロウ君も、そのことがちゃんと分かるんだろう。小川さんの側から離れず、ぴったり寄り添うようにして歩いてた。
 飼い主とペットがちゃんと繋がっていた。
「奥さんが亡くなってから八年。ずっとタロウと生活していたからな。それがある日突然いなくなって、タロウの後を追うようにじーさんが逝っちまうんじゃねぇかって心配になるくらいだ」
「そんな…」
「だが分からんでもないだろう?タロウは心のよりどころみたいなもんだったからな。一人息子は遠くに住んでて正月に会うくらいだ。本当の孫も可愛いだろうが、近くにいる分、タロウのほうが支えになってただろうな」
「それは、そうでしょうね」
 一人暮らしのお年寄りにとって、ペットという存在がどれほどの支えであり、救いなのか。
 僕にはちゃんと理解することは出来ない。だけど、ペットと接している時のおじいさんおばあさんはみんな笑顔で、嬉しそうだ。
 この子がいてくれるからねぇ。と言う声を聞いたことは、一度や二度じゃない。
「気になって様子を見に行くんだがな、ルディを見ると泣き出すんじゃねぇかってくらい悲しんでな。行っていいもんなんだか、悪いんだか」
「でも、そうして気にしてくれてる人がいるっていうのは、小川さんにとって嫌なものじゃないと思いますよ?」
「だといいがな。なんとかしてやりたいが、こればっかりはな。本人が折り合いつけなきゃいけねぇもんだからな」
「…そうですね」
 飼っていたペットを失った時の喪失感と痛みは、僕にも覚えがある。
 老衰で亡くなった子がほとんどで、朝目覚めたら冷たくなっていたってこともあった。ある日突然命が絶たれた時は呆然として、悲しいとか全然感じられなかったけど。
 次第に蝕むように押し寄せてくるのが、堪らなかった。
 僕は他にも飼っていた子がいたから、その子たちが慰めてくれたけど小川さんにはきっといないんだろう。
 飼ってるのはタロウ君だけだって聞いている。
(辛いなぁ…)
 何かしてあげたいのは、僕も同じだけど。人間の出来ることはきっとタロウ君や他のペットたちに比べて小さなことなんだろう。
 ペットには、ペットだけが出来る慰め方や、癒し方がある。
 今の小川さんにはそのほうがきっといいと思うんだけど。
(他の人のペットを見ても、辛くなるだけだろうな。ルディさんを見ても泣きそうだって言ってるし)
 ちょんとお座りをしたルディさんも、心配そうにはたんと尻尾を静かに振った。
 目尻も下がっている。
「寿命だって分かってても…やりきれないですよね」
「ま、んな顔すんなよ。おまえんトコのフェレットはおまえさんと同じくらい生きるしな。それより、遅刻すんじゃねぇか?」
「ああ!!」
 話し込んでしまって、仕事のことをあっさり忘れてた。
「いってきますっ」
「おー頑張ってこいや」
 あまりやる気の感じられない声を聞きながら、僕は駅に向かって走り出した。


「え!?太郎左右衛門なくなったの!?」
「たろうざえもんって何!?」
 今日は早めに帰れたから、家でテンと御飯を食べていた。タロウ君の話をするとテンはささみの梅肉あえの器を片手に驚いたみたいだった。
 僕はテンの言った名前に驚いたけど。
「タロウの本名だって。長いからみんなタロウタロウって呼んでるけど」
「誰が言ったの、それ?」
「小川のじーちゃん。本当は太郎左右衛門って言うんだが、長いからいつもタロウって呼んでんだ。だがいい名前だろ?強そうで、って自慢された」
「桃太郎侍みたいな名前だね」
「あれっていちいち、一から全部聞き終わった後じゃないと斬りかかったら駄目なわけ?俺だったらぜってー途中でやってるよ。うっせえなーって」
「まぁ、お約束だからね」
「てか…そっか…。タロウが」
「寿命だって。結構おじいちゃんだったもんなぁ」
「でもすげー元気だったじゃん。もう五年くらい生きんじゃない?ってこの前じーちゃんと話したところだったのにな」
「小川さんと親しかったんだ」
「酔って朝帰りした時、タロウに絡んでから仲良くなったんだよな。やー、すげぇいい顔つきした犬じゃん、元気ぃ?俺全然元気じゃなくて絶賛凹み中なんだけどさ、え?見えない?みたいなことしてたら、じーちゃんが『うちのタロウに何のようだ』って怒ってさ」
「そりゃ怒るだろ…。ろくなことしてないなおまえ」
 変な人丸出しじゃないか。と呆れてしまう。犬に話しかけところで、テンは会話出来ないらしい。豆吉君はルディさんも人間の姿でいる時はやっぱり同じ犬でも言葉は分からないって言っていた。
 動物とは、動物の姿でいるときじゃないと話は出来ないみたいだ。
「よく親しくなれたよな、そんな始まり方で」
「俺って人見知りしないからさ。じーちゃんもいい人だし。そっかぁ……タロウいないのかぁ…。じーちゃん一人で寂しいだろうな」
「大家さんが様子を見に行ったりしてるみたいだけど、でもルディさんを見ると悲しそうだから行っていいものか迷ってた」
「思い出すんだろーな。でも誰とも会わないより全然いいと思うけど。一人暮らしとかだと、ついつい籠もりがちになりそーじゃん」
「そうだよなぁ。僕も一人暮らしだったときは仕事と家の往復だったし。休みの日もだらだらしてた」
「今もそんなに変わんないだろ、亮平はー。俺が構ってくれってじゃれついているから仕方なく相手してるって感じで、俺がそうしなかったら一日中何もせず家でだらーっとしてそー」
「休みくらいゆっくりさせてくれ」
「中年オヤヂの台詞じゃんそれ!枯れてるなぁ、もっと元気に溌剌としてないとまだ二十五だってのにさぁ」
「うるっさいなぁ。そういえば、テンはいつから一人暮らししてんの?」
 二十一って言ったら、僕はまだ実家で大学生をしていた。
 テンは学生でもないのに、どうして一人暮らしをしているんだろう。
「高校卒業してから。高校時代に、モデルやっているやつに忘れもん届けに現場来てくれって言われて、ほいほいって行ったら「あんた向いてる」ってそこにいた人に気に入られてモデルバイト始めて。他にもバイトしてたから一人暮らし出来るだけの金はあったんだよ。どーせなら一人で暮らしてみるのもいいかもって思って」
「それで、ここに来たの?」
「豆吉に紹介されてさ。豆吉とは高校一緒の同級生だったし。こういうところがあるけど、住んでみないかって誘われて、ペットになれるってことを知っている人達と暮らしたほうが何かと気が楽だし、駅近いし、いいじゃんここって速攻で決めた」
「豆吉君は何処で知ったんだろ?」
「ルディさんかららしいよ。犬の情報網みたいなのがあるみたいで。ほら、俺ら人と違うからさ、自分たちだけのネットワークみたいなの持ってんだよ。フェレットはあんまそういうの気にしないみたいで、あんま情報流れてこないけど、他の種類、特に犬猫は律儀に情報交換してるみたい」
「へぇー」
 確かに犬や猫って集会みたいなのをしているらしい。
 そういう性質も、ちゃんと流れているんだな。
「ちょっと実家から離れて飼い主探そうかなって思ってたし。どーせなら豆吉とか、似たような境遇の人たちが近くにいたら色々話聞けそうじゃん」
「飼い主って、そんなに欲しいもんなのか?」
 人間の姿で、飼い主飼い主って言われると妙な気分だった。
「そりゃ欲しいよ。子どもの頃からずっと欲しかった。でも高校卒業するまでは親の世話になれって言われてたから、我慢してたもん、俺」
「親御さんに、そう言われたの?」
「あんまり小さな頃から飼い主持ってると、親のありがたみが分からないから駄目だって。飼い主が世界の中心になっちゃうから、つまんないってぼやかれた」
「世界の中心って」
 大袈裟だなぁと僕は笑いながら御飯を口に運ぶ。でもテンは真顔で「普通じゃん」と言った。
「そんなに、飼い主が大事なの?いなきゃ駄目なくらい?」
「うん。前までは欲しいって焦がれてただけだけど、今は飼い主がいなきゃ、亮平がいなきゃ駄目になる。太陽がもう昇らない」
「飼い主は太陽なのか?」
「そう。太陽だよ。それくらい必要なんだ。だってペットだもん。飼い主に会って、一緒に暮らして、楽しいことも悲しいことも分け合っていく。飼い主と一緒にいるのが一番の幸せ」
「それって、飼い主じゃなくて、恋人でもいいんじゃないのか?」
 前々から考えていたことだった。飼い主って言うけど、テンが欲しがっているのは恋人っていうものじゃないのかって。可愛がって、大切にしてくれる人だったら、恋人だって当てはまるはずだから。
「恋人と飼い主は違うよ。恋人だったら、人間の俺が好きなんじゃん。人間同士だけの付き合い。でも俺フェレットだし」
「恋人だったら、フェレットのテンも好きになってくれる人がいるんじゃないのかな」
 テンは男の僕から見ても格好いいと思うくらいなんだから、女の人から見たら付き合いたいって思うんじゃないかな。中身は随分テンション高くて、慣れるまで呆気にとられるけど。
「俺は、人間の俺も好きになって欲しいけど、その前にフェレットの俺を好きになって欲しいんだよ。フェレットも好きだけど、でも人間のほうが好きだからなるべく人間でいて、なんて言われたら絶対別れるし。なんか、フェレットって俺の中では一番のネックで、なるべく隠しておきたい弱みみたいなもんだから、まずそこを見て欲しい、好きになって欲しい」
 真面目な顔で、テンは語ってくれた。
 人は他人には自分の弱みを隠しておきたいけど、好きな人にはむしろ弱みを見せたいのかも知れない。
 包んで欲しくて。
「だから、飼い主なんだよ。恋人より、飼い主が欲しい。一緒に生きていくのは俺にとっては恋人なんかじゃなくて、飼い主の亮平」
「なんか…飼い主っていうより伴侶みたいだ」
 一緒に生きていくだの、楽しさも悲しさも分かち合うっていうのも、ペットと飼い主にも当てはまるけど夫婦って関係にも当てはまる。
「ペットは家族でもあり人生の伴侶でもあるって言うじゃん」
 にこにこ笑顔でテンは嬉しそうに言ってくれる。
 人生の伴侶。確かにそう考える人もいるだろうけど、目の前の男がそんな存在だと思うと、僕は軽く頭痛を起こしてしまいそうだ。
「それに、俺たち恋人みたいなもんだし」
「何処が!?」
「え、色々。恋人みたいなことしてるじゃん。だから恋人ってことでも問題なし」
「してないだろ!?問題ありまくりだよ!飼い主とペット!それだけの関係!」
「それだけってくらい、浅い関係でもないけど」
「恋人ってほど深くもない!」
「飼い主とペットって相思相愛だとさ、そこらへんでぶらぶらしてる恋人たちなんかよりずっと強い関係だと思うけど」
「それは…僕もそう思うけど」
 なんかテンが「深い関係」なんてことを言い出すと妙なことをしそうで怖い。
 もうキスされることなんて珍しくない。とっさに避けたり、手で防いだりして未遂で終わらせることが多いけどたまに逃げ切れずにされることがある。
 それ以上のことは、一ヶ月前にテンがフェレットの姿から戻らなくなった時から一度もないけど。
「…てか、それ全然食べてないんだけど」
 真面目な話をしながら、テンはささみの梅肉あえを一人で食べきってしまった。
 カラになった器とテンを交互に睨むと「あー、ごめん」と反省の感じられない謝罪が返ってくる。
 やっぱり、ちゃんと躾しなきゃ駄目かも知れない。このフェレット。


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