花時分 4 天川からの電話を切ってから、後々何が起こるか分からないと憂鬱な気分になる高嶺を、雁ヶ池は大変楽しげに眺めていた。 そしてその顔がなければ呑む気がなくなると言わんばかりに散々高嶺を居酒屋に縛り付けた。 もう帰りますと言っても「あともう少し」と引き留めるのだ。 あれこれと話を振り、それがまた高嶺の興味をしっかりと惹き付けてくれる。 頭の回転が良い男は話題にも事欠かないようだった。 哀しいことに終電まで引き延ばされ、高嶺はぐったりとした心境で電車から降りた。 マンションまでの短い距離。それを乗り越えれば部屋に入り、風呂に入って泥のように眠るだけだ。 酒が入った場合の睡眠は浅いくせに妙な重みがある。きっと明日の目覚めはすっきりしないことだろう。 だから酒はあまり好きではないのだ。 マンションが見える曲がり角を過ぎた時、高嶺はそこにあってはならないものを見た。 所々跳ねた脱色された髪の毛、真っ赤なパーカーは夜道でもよく目に付く。そんな原色に近い色の服をよく着るものだと感心するのだが、あの子が着ていると違和感なく似合うのだ。 一回り以上も年下の男は高嶺の視線に気が付いたわけでもないだろうに、まるで呼ばれたかのようにこちらを見た。そして「あっ!」と声を上げる。 おかげで否応なく近付かなければならなくなった。いや、自分のマンションの前にいられた時点でどう足掻いても接触してしまうのだが。 「何してるの?」 「先生こそ何してたんだよ!」 どすどすと音が聞こえてきそうなくらいに荒い足取りで寄って来る。 それを待つ義理などあるはずもなく、高嶺は高嶺で帰路を辿った。 近付くと怒りを露わにしている顔に見下ろされた。 「居酒屋で呑んでたんだよ。言っただろ?」 言いたくもないのに携帯電話で告げたはずだ。知っていることを繰り返し尋ねることもないだろうに。 「雁ヶ池と?」 それが最も不服であり、聞きたくないというような顔をしている。そんなに嫌なら訊かなければ良いだろうに、と思ってしまう。 「呼び捨ては駄目だ。前も注意しただろ」 他の先生方にはちゃんと先生と付けるのに、雁ヶ池に対してだけば尊称を抜かす上に、口汚い言葉を使う場合がある。 同じ大学に勤めており、ある程度親しい交流がある相手だけに聞き逃せないことだった。その度に注意しているというのに、天川は頑なに直そうとしない。 「あいつ絶対先生のこと狙ってる!そう言ったのになんで二人!?」 (ほら来た。やっぱりそんなことを言い出す) 本当に呆れてしまう。 どこをどう解釈したらそんな答えが出てくるのだろうか。 「気のせいだ。気にしすぎだ」 「そんなんじゃない!あいつ男でもいいんだろ!?聞いたことあるし!」 堂々と自慢するように言われ、高嶺は目を逸らした。 (噂になってるじゃないか) 本人はバレてないみたいな言い方をしていたが、生徒たちの間ではしっかり有名になっているのではないか。あまりあちこちに手を出さないでいて貰いたいものだ。 こんな訳の分からないところでとばっちりを食うのはごめんだ。 「あの人は僕なんかに手を出したりしない。第一声が大きいよ」 もう日付が変わるというような時刻だというのに、静まり返った住宅街でなんということを第声量で話しているのか。 男でもいいだの何だの。高嶺を知っている人が見れば一体何を喋っているのかと奇異な目で見られてしまう。 自宅の真ん前なのだ、問題は起こしたくなかった。 「誤魔化すなよ!」 「君はとうとう僕に対する敬語まで抜かすのか」 天川は非常に軽いとはいえ、一応敬語と思われるような口調で高嶺と話していた。だが感情が高ぶるとそれが消えてしまうようだった。 たまにそれが引っかかり、つい律儀に注意してしまっていた。特に自分にとって理不尽だと思われることを言われていると黙っていられない。 「なんでそんなところばっかり気にするんだよ!それどころじゃないだろ!」 どうして分かってくれないのかと、天川は怒りより嘆きの方が強くなってきたらしい。こんなにも辛い目に遭っているのに、何故欠片も理解してくれないのか。 憐憫と同情を求めるような眼差しに、抱かなくても良い後ろめたさが疼きそうだ。 (しかし僕はこの子と真っ向から向き合う必要性があるんだろうか) ちゃんと相手をしてやる義理はあるのだろうか。 つい根本的な疑問に立ち止まってしまう。 「君は、どうしてここに来たの」 「二人で呑んでるとか言うからだろ!」 「だから僕に会いに来たの?」 「そうだよ!」 携帯電話から聞こえてくる情報に、いてもたってもいられなくなったとでも言うのだろうか。 衝動に身を委ね、動かずには居られなかった。どうしても会いに行くしかなかった。 そんな気持ちが天川に襲いかかったのか。 『他の何を差し置いてでも、訳もなく会いたくなる瞬間というものがあるだろう?』 少し前まで高嶺をからかっていた人の言葉が蘇る。高嶺には分からないその衝動でこの子はここまで来てしまったのだろう。 それが恋だから。 「もし先生が帰ってこなかったら、次に雁ヶ池に会った時はぼこぼこにしてやろうと」 「止めなさいそんなとんでもないことは」 この子は唐突になんと剣呑なことを言い出すのか。しかも止めなければ本当に行いそうな怖ろしさがある。 後先考えない無鉄砲さを持っている。高嶺はそれにやられてしまったのだから。 「どうして君はそうなんだろうね。物事を全然考えない」 「先生のことになったら考えらんなくなるの」 「僕のことだからこそ、考えようとは思わないの?」 好きな人のためには色々頭を悩ませたり、想像したりするものではないのか。 相手を思う、ということは恋の基本だと文章なのでは感じるのだが。やはり現実とは全く別物なのだろうか。 しかし天川はそんな高嶺にはっとしたような顔で「違うって!」と慌てて言い直した。 「考えてるよ先生のこと!でもどんだけ考えても分かんないし。俺とは呑みに行ってくれないのに雁ヶ池とは行くんだと思うと、頭に血が上って」 普通自分の学科でもない生徒と呑みに行ったりしない。しかも二人きりだなんて有り得ない。 そんなことは少し考えれば分かるだろうに、それは思案しないらしい。 雁ヶ池に手を出されるかも知れないという、現実から離れすぎたことは考えるというのに。何故その思考回路を真っ当に使用しないのか。 「大体なんでそんな流れになったんだよ!」 思い出して怒りが込み上げたらしい。天川は再び声を荒げた。 「だから声が大きいよ。もう深夜なんだ、近所迷惑だろう」 「先生!」 そんなことどうでもいいだろ!と言い出しそうな天川に溜息をついた。若者にとっては近所に冷たい目で見られることも大したことではないのだろうが、いい年をした大人にとっては堪えることなのだ。 「部屋に上がりなさい」 ここで会話を続ける不毛さを思うと、天川を部屋に上げて落ち着かせた方がまだましだろう。 天川の隣を通ってマンションに入ろうとすると、先ほどまで気色ばんでいた子は呆気にとられたような顔をした。 「いいの?あんなに駄目って言ってたのに」 部屋に上げてくれと言われても、天川を軽々しく部屋に入れることはしなかった。 プライベートな空間だ。大学の研究室より高嶺の精神的壁が遙かに薄く、また私生活に入り込まれるのは嫌だった。 けれどここまで来ると精神的距離だの何だのと言っていられない。 「じゃあ帰る?終電もないけど」 いっそ帰ってくれたほうが有り難い。 素っ気ない高嶺の態度に天川は我に帰ったように満面の笑みを浮かべて「お邪魔します!」と宣言した。 あんなに憤っていたではないか。なんだその変わり様は、と喉元まで台詞が出かかった。 「お茶くらいしか出ないよ」 「充分です」 部屋に招くと天川と大人しくリビングに座った。 きょろきょろと忙しなく周りを見ている様は小さな子どものようだ。 (初めてじゃないだろうに) かつてここに無理矢理入って来たこともあるではないか。その時はこの部屋にテレビがないことに驚いていたようだった。 大学関係者にはそういう人は珍しくないので、信じられないと言われたことに驚いたものだが。今日も天川は不可思議そうにしている。 きっとこの子の部屋ではテレビがずっと付いているのだろう。 「雁ヶ池先生と呑んだのはたまたまだよ。時間もあったし、たまには誰かと呑むこともある」 部屋を観察することに夢中になって口を閉ざした子にお茶を煎れてやり、テーブル越しに向かい合う。 話を蒸し返しても天川は怒鳴ることはなかった。居酒屋よりもこの部屋の方が距離感が近いせいか。雁ヶ池より親しい関係にあるのだと実感して、多少なりとも理性が戻ったのだろうか。 何にせよめんどくさい。 「雁ヶ池先生が僕に手を出すかも知れないなんて君は思っているみたいだけど。雁ヶ池先生には好きな人がいるんだよ。その人以外は眼中にない」 何故雁ヶ池とはそういう関係にはならないという説明をしているのか。釈然としないものを感じながらも高嶺は語った。 そうしなければ天川は一人で暴走を続けるのだろう。そんなものに巻き込まれるのはごめん被る。 「そんな人がいるのに生徒に手を出したりすんのかよ」 信用出来ない話だと天川は唇を尖らせた。それでも高嶺が出したグラスを手に取る仕草は丁寧だった。きっとマンション前にいた時よりずっと心が凪いだことだろう。 「生徒に手を出しているかどうかは知らないけど。思い人はもうお亡くなりになったらしい。だから遊びみたいなものだと」 そういう話なのだと言いたいのだが、喋っている内にろくでもない人間だなと思う。 雁ヶ池のことは表面上だけ説明するならとても良い人のように表せるのだが、内面まで入り込むと一気に酷い駄目人間になってしまうのだ。 両極端な男である。 「だったら先生もその遊びに引き摺られるんじゃね?」 「僕はそういう相手には向かないよ。遊びも本気も理解出来ない」 これまでの生き方がそうであったように、そうした感覚で生きてきたように、高嶺は当たり前のようにそう告げた。 けれど本気で好きだと繰り返してきた天川はそれに表情を歪める。 高嶺の気持ちが見えない、自分の心と合致してくれない。そのもどかしさを再確認させたのかも知れない。 もしかすると雁ヶ池よりずっと、残酷なことをしているのだろうか。 だがそれを撤回することも誤魔化すことも出来ない。むしろそういう人間なのだと突き付けるしかなかった。 高嶺は変わることはない。まして一人の人に、一年も共に過ごしていないのに変えられてたまったものか。 「割り切れないような人間には手を出したりしない。あの人はそういうへまはしない」 「……それって、最低ってことじゃん」 天川は一気に不機嫌になって、吐き捨てるようにそう言った。 その機嫌の悪さがどこから来るものなのか探るようなことはしなかった。 共にいて機嫌を損なわせるような相手は嫌だと思うのならば、高嶺から離れていくはずだ。それで問題ない。 「双方それを認識しているなら問題ないらしい。僕は詳しく知らない、知りたくもない」 人の恋愛なんて自分以上に無関係で興味もない。 どうなろうが本人たちが覚悟し、認めているなら他人が口を出すようなことでもない。 その冷たさに天川はようやく溜飲を下げたような、それでもまだ言い足りないような、苦そうな顔でそっぽを向いた。 NEXT |